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大谷翔平
heitaroh.exblog.jp
薩摩人は、新政府構築についての意見を勝 海舟に仰ぎ、長州人は福澤諭吉に求めたといわれています。 二人は、まさしく、当時を代表する新時代の知識人だったでしょう。 そして、勝も福澤も、共に、当時の社会体制にあっては優遇された立場からのスタートではなかったこともあり、門閥優先の封建制度を激しく嫌悪おり、優れた能力者同士、一度出会えば、すぐに肝胆相照らす仲であったように思えるのですが、実際には、両人の仲はあまり良好なものではなかったようで、特に福澤は、勝が維新後に栄達を得たことを批判するなど、生涯にわたり批判的でした。 この、福澤の「勝嫌い」は、元を辿れば万延元年(1860年)、咸臨丸での太平洋横断に始まります。 このとき二人は、遣米使節団の一員としてアメリカ合衆国へ渡ったのですが、後に、福澤をして、「蒸気船を初めて目にしてから、わずか7年たらずで、日本人手によってのみ行われた世界に誇るべき名誉」
親愛なるアッティクスへ こちら(←)は、私の今年の年賀状です。 切手シートが3枚も当たってました。 子供の頃から、くじ運が悪かった私としては、結構な好成績でしたね。 これだけ来て、一枚も当たらないということもよくありますので・・・。 ところで、以前、拙著を福岡県立図書館に寄贈しようと思いメールしたところ、「送ってくれ。ただし、送料はアナタ持ちですよ」という返事が来ました。 ちゃっかりしているというか・・・(笑)。 (思えば、拙著も、発売当初は、「図書館購入用の本のカタログに選ばれた」とかで、そのカタログが送ってきたことがあったんですけどね。ちなみに、私も、このとき、初めてこういう物があると言うことを知りましたが、なかかなに立派なカタログで、こんなのが毎月(?)出てるなんて・・・とちょっと驚いた記憶があります。) で、話を元に戻すと、言われるとおりに県立図書館に郵送したのですが、実は他にも福
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