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大谷翔平
kyodokan.exblog.jp
↑「百鬼夜行」東北大学附属図書館蔵 古代には、怪異現象や化け物が出現すると、それがどのような危険を知らせているのか、王権が判断し、儀礼や祈願をして鎮める習わしがありました。当時の公家の日記には、夜な夜な平安京の大路を、姿のない「もののけ」と呼ばれる化け物たちが歩いていたことが記されています。彼らは室町期の百鬼夜行絵巻のなかで姿を与えられましたが、それは鬼や獣、古い道具が化けた「つくも神」たちの集団でした。 社会や政治が不安定になると怪異は増えました。各地でさまざまな人々が、不可思議な現象や化け物を記録するようになります。江戸時代になると、怪異の情報は江戸へと集められて、名前をつけて分類し、妖怪たちは「化物」(ばけもの)として図鑑化されます。 その一方で近世後期の江戸は、妖怪が属する自然界よりも、お金の論理が強い社会となっていたために、妖怪たちは現実の恐怖ではなく、架空のキャラクター商品とし
寛永3(1626)年に「青森湊」が開港して以来、港町である青森は、藩政時代から廻船問屋(かいせんどんや)が各地への海運を取り扱ってきましたが、明治6(1873)年、北海道開拓使により、青森・函館・安渡(大湊)間に弘明丸が定期便として運航を始めると、旧来の青森の廻船問屋の多くが転業し、新たに創業した「回漕店(かいそうてん)」にとって代わられました 日露戦争(1904~05年)後になると好景気となり、青森の海運業は大正の初めまで活況を呈しました。そのころは、青函連絡船による貨車航送もなく、港湾設備が未整備で大きな船を接岸できる岸壁はありませんでした。そこで、北海道向けの米・味噌・ワラ製品を、沖合に停泊した船に積み込むため、艀(はしけ)と呼ばれる小さな船が忙しく動き回っていたといいます。また、当時の北海道はニシン漁業が非常に盛んで、ニシン漁場に向かう出稼ぎ人で青森港が賑わっていたことでしょう。
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