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大谷翔平
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リバタリアニズム-アメリカを揺るがす自由至上主義 (中公新書) 作者:渡辺 靖中央公論新社Amazon 近年、アメリカ社会に広がりつつあるリバタリアニズムについて簡潔にまとめられた一冊。文化人類学を背景に持つ著者が、トランプ政権誕生後のアメリカ各地を訪れ、リバタリアニズムの現在についてレポートしてくれている。 一読してよくわかるのは、リバタリアニズムとひとことで言っても、その内実は非常に多様であり、既存のイデオロギー分類に当てはめて整理するのは難しい、ということだ。本書で多くのリバタリアンに通底する方向性として挙げられているものには、以下のようなものがある。 経済的には、保守=共和党寄り 社会的には、リベラル=民主党寄り 思想的源流には、ロック、アダム・スミス、ヒューム、カントなど 政治的源流には、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファーソンなど だが、じっさいのところ、主張の細部や社会的
アウルクリーク橋の出来事/豹の眼 (光文社古典新訳文庫) 作者: アンブローズビアス,Ambrose Bierce,小川高義出版社/メーカー: 光文社発売日: 2011/03/10メディア: 文庫 クリック: 9回この商品を含むブログ (8件) を見る米ジャーナリスト/作家だったビアスの、おそらくは唯一有名であるとおもわれる作品が、この短編、「アウルクリーク橋の出来事」だ。ある男が橋の上に立っている。周囲には銃を携えた兵隊が多くおり、男の首には縄がまかれている。どうやら彼はこれから絞首刑になるようだ…。という舞台設定のこの物語は、そこからほんの一歩だけ進んだところで唐突に終了する。たった10数ページのシンプルな短編だけれど、たしかにこれは、ほとんど完璧に均整のとれた、刃物の鋭さをもった作品であるようにおもう。(そうそう、先日読んだ『国のない男』のなかでも、ヴォネガットは、本作について、「ま
ここのところ、ブログの更新をすっかりさぼってしまっていた。理由は大きくふたつあって、ひとつは、小説や映画や音楽にいまいち感動できなくなってしまっていたから、もうひとつは、そういう微妙な感想をここに書き残すことに抵抗を覚えていたからだ。情けないことだが、自分の感受性が鈍ってきていることをひしひしと感じていた俺は、そいつと直面すること、そいつと相対することに恐れを感じ、すっかりびびってしまっていたというわけだ。まったく、とんだたにし野郎だと言わなくてはならない。 でも、きょうこんなことを改めて書いているのは、最近かんがえが変わったからだ。つまり、どんなにしょぼい感想であっても、どんなに手垢にまみれた言葉であっても、アウトプットしないよりはするほうがずっとましなんだ、ってようやく本当におもえるようになったのだ。いや、もちろん、これはあたりまえのことだ。言葉を紡ごうとする努力なしに思考が発展するこ
それでも、読書をやめない理由 作者: デヴィッド・L.ユーリン,David L. Ulin,井上里出版社/メーカー: 柏書房発売日: 2012/02/01メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 6回この商品を含むブログ (9件) を見るおー、まさにそれを知りたいとおもってたよ!っておもわずタイトル買いしてしまった一冊。著者は、"読書"という言い方をしているけれど、ここで問題になっているのは、いわゆる"実用的でない"読書、つまり、情報収集の手段、知識獲得ための手段ではない読書のことだ。 数年前のあるとき――いつだったか、正確には覚えていないが――、腰を落ち着けて本を読むのが難しくなってきたことに気づいた。わたしのように本を読むのが仕事の人間にとっては、じつにまずい。それどころか、本を読むことが人生そのものだったわたしにとって、事態はまずいどころか深刻だった。文学を発見したその瞬間から、わ
ピエール・リヴィエール---殺人・狂気・エクリチュール (河出文庫) 作者: ミシェル・フーコー,慎改康之,柵瀬宏平,千條真知子,八幡恵一出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2010/08/04メディア: 文庫 クリック: 47回この商品を含むブログ (27件) を見る19世紀フランスの農園で、母・妹・弟を殺害した青年、ピエール・リヴィエールを巡る訴訟関連資料と、それらについての論考がまとめられた一冊。当時の資料から、狂気・司法・精神医学を巡る権力の作用を確認するべく、フーコーらは縦横に錯綜するさまざまな要素をひとつひとつ解きほぐすように、細密な分析を行っている。 収録された資料を読んでいくと、司法と精神医学とが共に、"リヴィエールは罪人なのか、それとも狂人なのか?"という問いについて頭を悩ませていることがわかってくる。貧しい農夫の子であったリヴィエールは通常の学校教育だってまともに
2024-07-07 ウィーン少年合唱団@東京オペラシティコンサートホール(その2) 音楽 今回は、ウィーン少年合唱団と巡る四季、的なコンセプトということで、各季節をモチーフにした曲たちを取り揃え、秋冬春夏と順に進んでいく構成になっていた。正直言ってよく知らない曲もまあまああったものの、どんな曲であっても天使の歌声のクオリティが… #ウィーン少年合唱団 #東京オペラシティ 2024-06-07 Hilary Hahn / Andreas Haefliger@神田POLARISミューザ川崎シンフォニーホール 音楽 久しぶりにヒラリー・ハーンのバイオリンを聴きにいったところ(このブログの過去記事によると、11年振りになるらしい…)、やっぱりとても良かったので感想を残しておく。今回は、アンドレアス・ヘフリガーというピアニストとのデュオによる、ブラームスのソ… #ヒラリー・ハーン #ブラームス 2
俺はさかなクンをリスペクトすべきなのではないか。そうかんがえるようになったのは、柴崎友香特集の『文藝』で柴崎といしわたり淳冶(元SUPERCAR)が対談をしているのを読んだのがきっかけだった。対談のなかでいしわたりがカッコイイカッコイイって言ってやたらめったら褒めちぎっている人物というのが、さかなクンなのだった。 柴崎:じゃあ、均質化とか標準化にあらがうものって何だと思いますか? いしわたり:さかなクンじゃないですか?さかなクンのかっこよさって、本当にカッコイイですよ。さかなクンになれるかっていうとなれないですよ。さかなクンこそ個性ですよ。さかなクンの話、絶対一時間以上聞けますもん。それが魅力なんじゃないですか?さかなクンの熱愛報道とかないですもんね。金目鯛が一番好きって言ってたので、お、金目っぽいなと思ったりするのかな?って思うんですけど(笑)。 柴崎:彼女の写真が出たら、金目鯛っぽい!
これはすごかった!おもしろいとかおもしろくないとか言うよりも、まず、すげえ!って言いたくなる小説。だいいち、分厚すぎるし(二段組みのくせに700ページオーバー!)、細かい特徴、気になる要素を挙げていったらキリがないけど、読んでいくうちに、最早、古川日出男、っていうひとつのジャンルが確立されているようにすらおもえてくるようだった。半端なく気合いの入ったことばたちが全編通してひたすらに連打されていき、「妄想の東北」の巨大なクロニクルが形成される。 やたらと大きな小説だから、あらすじとか構成みたいなものはそう簡単にはまとめられない。目次からも明らかなように、たしかにシンメトリカルな構造ではあるのだけれど、そのなかで一連の物語がきれいに円環を描き完結する、って感じじゃないし。どこか歪で、スマートじゃない。雑然としている。それに、そういう全体像みたいなものよりはむしろ、いろいろな細部のイメージの鮮や
アメリカ人作家、リチャード・パワーズが1988年に出した第2作。デビュー作の『舞踏会へ向かう三人の農夫』と同様に長大かつ複雑な小説で、やっぱりむちゃくちゃおもしろい。ひとことで内容やプロットを説明できないところ、ややこしいことば遊びや謎かけを次々に繰り出してくるところ、ミクロな物語とマクロな物語とが相互にリンクし、自在に結びつけられていく構造なんかも相変わらずだ。真の意味でボリューム感のある小説、って言っていいとおもう。 * 『囚人のジレンマ』は、3種類の叙述によって構成されている。ひとつは、リアリズム風に描かれた現代アメリカにおける、ホブソン家の物語。一家の父であるエディ・ホブソン・シニアはどうにも捉えどころのない人物で、口にするのは冗談なのか本気なのかよくわからない(というか、同時にその両方であるような)警句や格言、ややこしい議論についてのテーマばかり。エディにひたすら振り回され続ける
親友ディーンにひっぱられるように北アメリカ大陸を何度も往復する作家、サル・パラダイスの旅、というか放浪の物語。文章の持つリズムや熱、前のめり感、全力をふりしぼってる感がすばらしくて、冒頭からぐっとひきこまれて読んだ。全編通してとにかくテンション高く、アグレッシブな波動を放っていて、身体がどんどんのってくるような感覚がある。かんがえることよりとにかく動け、動きつづけろブローしつづけろ、って急かされ、駆り立てられるよう。とにかく読んでいてたのしいし、どうしたってわくわくしてしまう。 かっこいい場面がとても多い小説だけど、とくに圧巻だったのは、サンフランシスコの夜、ジャズクラブでのシーン。もう、とろけそうに熱い。 テープであちことつぎはぎしたアルトサックスを持ったチビのおばあちゃん子はビーズのようなきらきら光る目をしていた。小さな足は曲っていて、脚全体はひょろっとしていた。跳びまわり、サックスを
池袋HUMAXにて。まだ自分のなかで整理ができていない感が強いのだけど、これはとにかくすごい!おもしろかった!!宮崎駿ってやっぱり偉大だわーって再確認させられた感じ。ジブリ作品を心底からたのしんで見れたのなんて、かなりひさしぶりな気がするけど、これは映画館でもう一回見たいなー。 まずはとにかく映像がおもしろくて、見ていて飽きる気がしない。始めから最後までアイデア豊富な絵がいっぱいで、それだけでじゅうぶんたのしめる。ストーリーで引っ張るというより、動きまくるアニメーションの心地よさ、溢れ出るイメージのおもしろさが映画全体を牽引していっている印象が強かった。 物語そのものは、最近の宮崎駿作品に顕著だったような、いろいろと深読みを誘う感じ、分析したくなる感じとは少し違って、妙にシンプルなものになっている。や、シンプルっていうか、余計な解説をことごとく廃していて、神話とか民話っぽい外観になっている
これも前作と似たような感じ。文章はもうとにかく、ひたすらに薄っぺらい(悪い、ということとは違う)。いじめだったり人食いだったりと、やたらと残酷な行為やグロテスクなシーンが満載でありつつも、薄っぺらな描写はその過激さを軽減しているようでもある。それは単純にリアリティがどうの、って話ではないとおもうけれど、描かれている内容のわりには、おどろおどろしくない作品に仕上がっているようにおもえた。 私は恍惚の中で内臓をタッパーにつめると、四肢と首の切断に取りかかった。冷凍されていない肉を切断するのは大変だった。肉が柔らかいうえに黄色っぽい皮下脂肪があふれて、ノコギリの歯が上滑りを起こしてしまうのだ。汗が流れ落ち、腕が疲れたが、それでもノコギリを引く手は緩めなかった。肉は鮮度が大切なのだ。 すべての切断を終え、解体道具を片付け、バスタオルで全身をふき、替えのシャツを着て、終了。作業時間は一時間半ほど。ア
佐藤友哉のデビュー作。俺はいわゆるメフィスト系の小説っていうのをちょっと苦手にしていて、でも、今より年をとったらさらに手に取りにくくなるに違いないとおもったので…、って、読み始めた動機はあまりポジティブとは言えない感じだったのだけど、これはおもしろい小説だった。 ストーリーには牽引力があって読みやすいし、エンタテインメントしていてなかなかたのしい。とにかく、かったるくないところがいいなー。ジャンル的にはミステリなんだろうけど、作品のおもしろさはミステリ的なトリックやキャラクターの魅力なんかとはたぶん別のところにあって、それはやっぱりこの文体と、作品の壊れっぷり、ってことになるんじゃないかとおもう。妙に饒舌で薄っぺらな語り口だし、人を食ったような、というか、ちょっと自意識が強すぎるんじゃ…、なんて読んでいて心配になるような雰囲気が作品全体を覆ってもいる。それに、部分部分も全体の構成も、いちい
小説を読むときって、その小説のなかに入っていくような感覚がある、とおもう。俺のなかでは、もしかしたら昔に本か何かで読んだのかもしれないのだけど、「海のなかに潜っていく」ようなイメージがある。 小説っていう海のなかに潜っていくためには、勢いや集中力のようなものがわりと重要だし、体が水のなかにいることに慣れることも大切だ。水のなかでうまく呼吸ができるようになれば、どんどん深くまで潜っていくことができたりして。海にもいろんなタイプがあって、簡単に潜っていけるような海もあれば、すぐに苦しくなって水面まで上がって空気を吸わなきゃやってられないような海もある。やたらと深くて底がどこなのか全くわからないような海もある。あまりにも深く、あるいは長時間潜っていると、海のなかから上がってきたときに、現実のほうが逆に現実味を帯びていないように感じられたり、なんてことも(たまには)あったりする。 小説を読むってい
何年ぶりかに読み返したけど、うーん、やっぱりこれもいい小説!俺は村上春樹は初期の作品がすきだなー。いろんな意味でイタい感じも含めて。『風の歌を聴け』に続く、「僕」と「鼠」の物語なんだけど、前作と比べるとずいぶん感傷的だし、乾いた感じよりは陰鬱さの方が濃くなっている。とはいえ、そんな無防備さこそが、この作品の大きな魅力だ。 鼠にとってのときの流れは、まるでどこかでプツンと断ち切られてしまったように見える。何故そんなことなってしまったのか、鼠にはわからない。切り口をみつけることさえできない。死んだロープを手にしたまま彼は薄い秋の闇の中を彷徨った。草地を横切り、川を越え、幾つかの扉を押した。しかし死んだロープは彼を何処にも導かなかった。羽をもがれた冬の蠅のように、海を前にした河の流れのように鼠は無力であり、孤独であった。何処かで悪い風が吹き始め、それまで鼠をすっぽりと取り囲んでいた親密な空気を地
高校生のころの俺のバイブルだったこの小説を久々に読み返していたんだけど、自分がこの作品からどれだけあからさまに影響を受け、方向づけられてきていたか、ってことにいまさら気がついて本当にびっくりした。いままで自分の頭でかんがえたことなんて何ひとつないんじゃないか、とかちょっとおもったくらい。ビールばっかり飲むようになったのだって、きっとこの小説のせいに違いない。まったく、どれだけ入れ込んでたんだよって感じだけど、まあとにかく、村上春樹の処女作、『風の歌を聴け』は、多くの人にとって(きっと)そうであるように、俺にとってもたいせつな小説だ。1970年の夏、地元に帰省した大学生の「僕」の、何もないような18日間を中心とした物語。 短い断章がいくつも連なった構成で、シーン同士は無作為な感じに繋ぎ合わせられている。断章のなかにはアフォリズムっぽいものも多いし、章の連なりのなかから何らかのイメージ、象徴性
第二次大戦中、ドイツでプロパガンダ放送に従事していたアメリカ人の男の物語。彼はナチであると同時にアメリカのスパイでもあって、放送によって本国に情報を送り出してもいた。戦後、男はドイツにもアメリカにも居場所を失い、ニューヨークのグレニッチヴィレッジにて暗い逃亡生活を送っているのだが…!というのがまあ大筋のところで、男が過去を回想するかたちで小説は展開していく。 ヴォネガットにしてはずいぶんストレートな語り口の小説だとおもった。つまり、煙に巻くようなところや、皮肉っぽくわらって放り投げてしまうようなところがあんまりない。主人公は自らの行動を弁護することもなければ、その境遇、不運をことさらに嘆いたりすることもない。ただ淡々と自分のいままでを語っていくだけだ。 しかしわたしはいつでも自分のしていることを知っていた。わたしには自分のしたことを背負って生きてゆくことがいつでも可能だった。どうやってか?
これはすばらしい小説だった!!物語はかなりスラップスティックな感じで、むちゃくちゃな状況にひたすら翻弄されつづける人間の姿が皮肉っぽく描かれている。ただ、ヴォネガットはそれをくだらない、って言うんじゃなく、愛情を込めた視線で見つめているから、シニカルさと表裏一体になったウェットな部分、感傷的なところがこころに響く。 ストーリーはちょっと簡単には書きづらい。時間等曲率漏斗なるものに飛び込んだことで、あらゆる時空間に存在する、神のような存在となった男と、彼に操られるようにして火星、水星、タイタンへと放浪することになる男とを中心にして物語は展開していくのだけど、なにしろそのスケールは宇宙規模だし、全人類を巻き込む宗教の話でもあれば、人間というものの存在意義(のなさ)についての話でもある。 なにか運命のような大きなちからに動かされること、システムのなかに組み込まれること。個人の自由を根源的なものと
最近は就活のいろいろで疲れてしまっていて、なんだかあんまり本も読めず映画も見れずな感じなので、今日もかてきょについて書こうかとおもう。俺が教えてる小6男子(以下、H)の話。 あ、そうそう、その前に。自分の過去の記事を読み返してみたんだけど、なんていうか、こいつのことを、妙に“かわいげのある”感じに書いていることに今さら気がついた。べつに嘘を書いているわけじゃないんだけど、やっぱり、ほんとはそんなかわいい感じばっかりじゃないんだけどなー、とはおもう。正直、H本人は、俺の今までの文章から読み取れるより、20倍くらいしょうもないやつのはずだ。もっとばかだし、その辺のものとか何でも、鉛筆だろうが教科書だろうがすぐ投げるとこなんか、ほんとアニマルっていうか、幼稚園児並みっていうか。ランドセルから何かものを出そうとするときに、いちいちランドセルごと逆さまにひっくり返して中身を床とかに全部ぶちまけちゃう
また、俺がかてきょをやってる小6の男の子の話なんだけど、昨日、「だからさー、pは大文字のPをちっちゃくしたやつじゃん?で、qはそれを逆向きにしたやつでしょー」なんて、アルファベットの小文字の練習をしているときにいきなり、 「あのさー、ナマコストってなんだっけ?」 って聞いてきて。 「なんか友達がよく使うんだけど、ナマコなんちゃら、って覚えたんだよねオレ」 「つーかなんつーの、自分のことに対してなんかえっへん的な」 「えっへん的っていうのはー、だからさー、なんかかっこつけてエラソーにしてるやつに使うじゃん!」 そこまで聞いて、あー、ナルシストのことか、ってわかったんだけど、でも俺がそれを口にしようとした瞬間、 「あ、そうだ、服とか日本風になってきたんだよー」 とか言い出して。俺とこの子との付き合いもそろそろ1年になるわけで、だからまあそれがナイジェリアからの転校生、アニエス(仮名)のことだっ
そういえば、日記を書くというのは「何を書かないのか」ってことを決定する作業なのかもしれない、ともおもう。前に書いたハリエットの話を読んだ後10年以上たっても覚えていたのは、たぶん昔日記に書いていたからで、自分の記憶に残すものを、日記を書く、って作業の中で選別しているところがあるのかもしれない。つまり、いまみたいに、いかにも適当にキーボードを打っているつもりでいるこの瞬間にも、俺は「何を書かないのか」ひたすらに決定付けているわけだ。 何を書くか、っていうのは明らかに「これについて書きたい、言いたい」という主張であるけれど、何を書かないか、っていうのもそれと同じくらい大きな主張なはずだ。まあ、あたりまえのことだけれども、なんだかそれってちょっとふしぎな感じがする。 なんてことをかんがえたのは、今日、中上健次の『夢の力』というエッセイ集を読んでいたからで、そこに収録された「心の滴」に、日記を書く
かてきょやってる子(小6・男子・中学受験生)から聞いた話なんだけど、学校にナイジェリアから転校生の女の子(アニエス・仮名)がやって来たらしい。 「オレさー、本当のガイジンってはじめて見たからまじでびっくりした!色とかちょーまっ黒だし!」 「すっげー細くてさー、しかも背とかオレよりでかいの!ひょろ、って感じで。足とかあんなに長いやつはじめて見たよまじで!運動神経とかちょーすごいってぜったい!」 「しかもさー、いっつも両手ポケットに入れてて、ランドセルとか片がけなの!こんな!(右の肩にだけランドセルをかけているポーズで、小馬鹿にしたように「ふっ」と息を吐く)」 「え、クール?うんそれそれ!そうなんだよー、まじかっこいいんだって!でねでね、今日の帰りなんだけど」 「帰りの会で先生にアニエスと一緒に帰ってあげて、って頼まれたやつがいたんだって。え?そうだよオレクラス違うもん。でもさー、アニエスは日
俺が日記的なものをつけるようになったのは、たしか小学校3年だか4年くらい、時期はあんまり定かじゃないんだけど、でもどうして書きはじめたのかってことはよく覚えていて、それは『スパイになりたいハリエットのいじめ解決法』って本を読んだのがきっかけなのだった。いまでも、その児童文学(だとおもう)のストーリーは、なんとなく記憶に残っている。 * 主人公のハリエットって女の子(小学生)は、どんなときでもノートを持ち歩いていて――食事中でも、学校の授業中でも、とにかくいつでも――そこに身の回りのいっさいがっさいを描写し、それを上から目線で批評していく、って感じのキャラクターだったとおもう。ハリエットの将来の目標は「スパイになること」なので、身の回りの人々や出来事をよくよく観察して描写し、そのための力を日々磨いているのだ。彼女はわりと性格のひねた感じの子でもあって、たとえば近所のおばさんとか、クラスメイト
修理に修理を重ねて使ってきたパソコンが、3日くらい前にどうやら完全に壊れてしまって、でも今日新しいやつを手に入れたので(お父さんお母さんありがとう!)、またこうして日記を書いているわけなんだけど、この3日間というもの、日記を書きたい欲、みたいなものが頭の中で溢れかえるようで。なんだか、自分がそんな欲求を持っていたってことにびっくりした。ただ、じゃあなんで日記を書きたいんだろう、ってかんがえると、なかなかはっきりとした答えを出すのはむずかしい。ブログなんかに文章を書く、って行為に動機を求めようとするなら、自己表現欲求とか、承認欲求とか、だいたいそんなあたりに落ち着くことが多いんじゃないかとはおもうのだけど…。 チェコ出身のフランス作家、ミラン・クンデラは、『笑いと忘却の書』の第四部「失われた手紙」で、こんなことを書いている。 「私たちが本を書くのは、自分の子供に関心を抱いてもらえないからなの
アメリカでベストセラーになったノンフィクション。裕福な家庭に育ったクリス・マッカンドレスは、大学卒業直後、家族との連絡をいっさい断ち切り、放浪の旅に出た。彼はアメリカ各地を旅してまわった後、最終的にはアラスカの荒野へと単身踏み入り、4ヶ月後に腐乱死体となって発見された。この本では、彼の生い立ちから旅の起結までが、綿密な追跡調査にもとづいて描かれている。 マッカンドレスは放浪の途中で、多くの人々に忘れがたい印象を残していく。大半の人々は、彼と過ごした期間が数日〜1,2週間というところだったけれど、それでもやはり彼のことをよく記憶している。クラカワーは彼らにインタビューし、彼らの語りからマッカンドレスの足どりを追い、また、マッカンドレスがどのような人間で、いったい何を追い求めて放浪生活を送っていたのかを探ろうとする。そんなクラカワーの文章は、ある程度の(必要最低限の)客観性を保ちつつも、部分に
もうあちこちで散々言われていることだとおもうけど、この小説はすごい!!すっごいおもしろい!!おもしろいことだけは、まったく明白なのだけど、でも、そのおもしろさとはどういったものなのか、どうにもうまく表せない。たぶん、そこがすごい。いったい何がどうおもしろいのか、その核心みたいなものが(そんなものがあるとして、だけど…)つかめる感じが全くしない。文章の強度とか、そこに宿る意思とか、ちからとか、そんなことばをつかって、うやむやにしたくなったりしてしまう。語られるエピソードのひとつひとつはとても鮮烈なのだけど、小説全体には、安易な隠喩的な解釈を拒んでいるような印象があって、“意味”“象徴”みたいな、小説を語るのに(あるいは説明・解釈するのに)都合のいい枠にきれいに収まってはくれない。 しかし、いちばん驚いたのは、なんだかぜんぜん日本の小説って感じがしない、ということだ。かといって、保坂和志が言っ
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