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大谷翔平
www.truth-teacher.com
何かと話題になっている、週一登校の記事。 コメントを読むと、賛否の意見でいっぱいだ(どちらかというと否定的な意見が多いか)。 私個人としては、多様な学びの場があり、子どもにとって選択肢が広がることはいいことかもしれないと思う。ただ、公教育に携わる者としては、やはり学校を選択できないのは寂しい。 まあ、それはおいておいて、視点を変えてこの問題(?)について考えてみると、こういう選択をした本人やその保護者は、今後どういう歩みをしていくのか、またどういう見方をされるのかは、ある意味自己責任だと思う。一つ懸念しているのは、その子と関わらなければならない学校の他の子どもたちについてである。この子は「友達を作るのは簡単だ」と言っているという。でも、それは周りの子どもたちあってこそであり、周りの子どもたちにも判断する権利がある。 つまり、何がいいたいかというと、周りの子どもたちは絶対にその子に対する見方
一昨日から実家に帰省中。いつも以上にダラダラとしてしまっている。 今日は少し外に出て、釣り堀に行き、マス釣りをして釣ったマスを食べてきた。 何を隠そう、私は一部の哺乳類以外、生き物が苦手である。そのため、釣った魚もあまり触りたくない。というか、触りたくない。私だけではなく、娘も息子も怖がって触れない。そこで、釣り堀で魚を釣った時はいつも妻に針を外してもらったり、処理してもらったりしている。我ながら情けないと思うが仕方がない。 ところが今日は少し様子が違う。それはなんと、娘が魚を触っているのである。 針を外すことはできないが、バケツに入っているマスを触ったり、生きが良くバケツから飛び出してしまったマスを掴み上げてバケツに戻したりすることができていた。 そういえば、山梨に旅行に行った時、自然で見つけたカブトムシを捕まえていた。家の庭でもダンゴムシを捕まえて飼おうともしていた。娘の成長にビックリ
今日、ある女子が泣いていた。 この女子。仮にA子としよう。オマセな子で、接し方が難しいなと感じていた子であった。キャピキャピしているイメージで、そうではない子に対してあたりが強かったり、陰でこそこそと言ったりすることが多い子であった。 そのため、定期的な相談時では名前があがることが多々あった。 そんなA子だが、少しずつ様子が変わってきた。最近では、今まで悪口を言っていた友達に自分から接していったり、友達のよさを見つけて褒めてあげたりと、友達に対する接し方が見えるように変わってきたのだ。 しかし、そういった変化を面白くないと思う子もいる。今まで仲良くしていた友達と隙間ができてしまったのだ。その少しずつのすれ違いが今日ついに爆発してしまったらしい。 周りの友達が心配して、ことの様子を教えてくれた。 私はA子を呼んで、 「何か話したいことある?」 とだけ聞いた。すると、マシンガンのように吐き出し
身体中が痛い。 寝る前、冷湿布にエアサロンパスをしたのに。。。 昨日違和感を覚えたのは、2試合完投して酷使した右肩、右腕、右手首、投げるたびに踏ん張った(投げている時には感じなかったが)脚、そして元々爆弾を抱えている腰。これらの部位は入念に冷やした。しかし、やはり痛い。思っていた以上に脚が重い。階段がきつい。 それと意外なのは、あまり使っていないように思われる左手。左手も全体的に痛い。 スポーツは全身を使うんだなぁと改めて実感。
クラスでは、帰りの会に今日あったことを五文にまとめ、スピーチをすることにしている(通称5丸スピーチ)。原則的にはくじ引きで話す人を決めている。 しかし、宿題忘れがいた時には、その子どもに「スピーチの権利」を与え、スピーチをするようにしている(罰という感覚がどうしても抵抗があり、こういう感じになっている)。 しかし、結局子どもたちにとってはただの罰でしかない。その結果どういうことになっていくか、まとめてみる。 罰を与えると、罰を回避することが目的になる 1日の間に、宿題について様々な質問がでてくる。 「帰りの会までにやれば忘れにならないんですか?」 「答えが間違っていたらスピーチですか?」 「2行だけだと忘れになるんですか?」 「(友達のノートを見て)こんなに隙間があっていいんですか?」 「昨日宿題ができなかったので、親に書いてもらってきました(保護者が『昨日は、きょうの一日が書けませんでし
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