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大谷翔平
ameblo.jp/umionna3036
今週は、ずっとNHKの「あまちゃん」を見ませんでした。(先週の次回予告を見て、津波の事だったので。) ダンナはかかさず録画までして見ていますが、津波の映像や震災を思わせるものを見ると、私が気分が悪くなったり、吐いてしまうので夜中こっそり見ています。(気を使わせてしまって・・・) ただ、今日は、 「見てもいいと思う。」 と言われ、久しぶりに見ました。 アキが北三陸に帰って来るという事で、知っている人達(弥生さんや、メガネ会計ババァなど)みんなが無事なのでホッとしました。 それから見ていると、あの時の状況を思い出しました。 アキが持っている魚の缶詰。サバ缶を1回で食べるのがもったいなくて、配給されたパンに缶の汁をつけて食べた事。おいしかった。 船を見に行って流された家族を探したくて、動ける船を持っていた人に頼み込んで、浮いているものを見にいった人。 意味の無いように思うけど、その時の緊迫した感
タイトル通りです。 今日、私はファミレスに行きました。 震災後、初でした。再開してたのは知っていたのですが、なんとなく行く事が出来ず、そのまま過ごしていました。 やはり、なんとなくですが、高いものは注文できず、うどんを頼みました。 私の作る即席のような感じではなく、ダシの味がして、上に具もたくさんのっていました。 少しでも早くもとの生活に、と思う反面、前の贅沢な暮らしをする事に罪悪感を持ってしまいます。 震災前の私は、とても欲張りでした。雑誌に載っているものや、流行のものが欲しくて、他の人が持っているとつい自分も欲しくなったりしました。 それなのに今は、救援物資でもらった服を何日か着たり、自分で縫ったへんてこりんな服を着ていて、裸で外に出なければいいや、という毎日です。 周りの人には「変わったね~、どうしちゃったの?」とか、面と向かって、「被災したのにボランティアなんて奇特な人だね」とか言
先週の週の後半、バタバタしていました。 岩手県の内陸部、盛岡市の心療内科に行ってきました。 決して近くは無い道のり。運転しているだけで疲れました。 最初は親戚の電話でした。 「叔母ちゃん、少しおかしいと思わない?」 いとこの叔母さんの事でした。離れていて、お互い被災しているので頻繁に行き来は出来ていませんでした。 家族を亡くし、一人ぼっちになってしまいました。 あわてて行くと、いつものやさしい叔母ちゃんだったのが、何をきっかけにか分からないまま、突然怒り出しました。 ずっと見ていましたが、怒らせるような事、気分を害する事など、誰も言っていなかったのに、キレる、という言葉のようにあたり散らす感じでした。 その後も相手を怒らせるような挑発的な言葉を言ったり、違う事に対しても怒り出しました。 そして、最終的には、「誰も私の気持ちを分かってくれない、心をえぐるような事を言う」と子供の様に(オーイ、
最近、娘は「どーせ○○なんでしょ」と言うようになりました。 例えば「どーせ私はブスなんでしょ」など。 そんな時は「お母さんが美人なんだから、子供もかわいいに決まってるでしょ」とかなり無理な事を言ったりします。 「どうしてお家が流されちゃったの?おりこうしなかったから?」などと言われると、なんと答えてよいか悩みます。「どうして○○ちゃんの家は大丈夫なの?」子供が納得するような言葉が出てきません。 このように言ったら良い、というアドバイスがありましたら教えてください。 この前、クラスの懇談会がありました。 保育所での生活や役員を決めたりなど。 担任の先生が、 「震災の後、お子さんに何か変わったことがありましたか?」 と一人ずつ聞いていきました。 あるお母さんが、 「地震ごっことかよくやりますね~」 と言いました。若いお母さんでしたが、隣のママ友と思われるお母さんも 「ウチでもやるよ~地震だー!
土曜日、日曜日と遠くに出掛けていました。 疲れてしまいました。毎日に。なんかもう死にたい、と思うようになってしまいました。 ちょっとビックリだと思います。すみません。 先週は何故か、遺体安置所に行った時の事を、夢に見たのか、思い出したのか、分かりませんが、夜見るようになり、また不眠が続きました。 娘と同じくらいの年の寝顔のようなまま、横たわっている子供の遺体や口をギュッと閉じたような困ったような顔も、苦しそうに口を開けたままの中学生か高校生の女の子の遺体も。 なぜあの人たちは死んでしまったのだろう、なぜ私は助かったのだろう。と答えの出ないことをグルグルと考えてしまいました。 そうなってしまうと、底なし沼のように沈んでいくしかなく、楽になりたい、しか考えられなくなってしまいました。 少しずつ前を向き始めたと思ったのに。時間がかかるのかもしれません。 そこで、贅沢だとは思いましたが、遠出をし、
NHKを見ていて、常にテロップが流れているのをご存知でしょうか? ニュースを見ていても、ドラマを見ていても上と左に一日中表示されている。もしかして被災地だけに流れるようになっているのかも、と気がついたのは最近でした。 それは、り災証明の交付、家屋撤去の有無、仕事の相談、義援金の交付など。どれも生活に必要な情報。 現状としては、仮設住宅がだんだん建ち始め、第一次の入居が始まっているところです。仮設住宅は住んでいる地域によって違いますが、1人だと1DK(エアコン、電子レンジ、洗濯機、炊飯器、冷蔵庫完備、トイレ、風呂付)で2年まで住むことができ、家賃は無く、ガス代、水道代、電気代は各自負担。人数が多くなると、部屋数が増えます。 さらに、自力でアパートを探し入居、もしくは県や国の住宅(アパート)に入居した場合、二年まで家賃の全額(または一部)免除、岩手県は独自に家賃を全額補助し、敷金礼金も検討中だ
朝起きると見る光景です。 何件も目の前に家があったのに、今は土台だけ。 どんな夢を見ても一気に現実に戻されます。 知り合いのおばあちゃん(85)から電話があり、住んでいる仮設住宅へ。 その場所は、山の上にあり、お店はまわりに無く、歩いていくには坂がきつ過ぎる。 そこで、近くの避難所に支援物資をもらいに行ったところ、仮設に住んでいるくせに食べ物を持っていくんじゃねぇ、とその避難所のヌシのようなおじさんに怒られたらしい。 市役所の人が気の毒がって帰りに手で持てるだけ持たせてくれた。 そしたら、そのおじさんがわざわざ追いかけてきて取り返したらしい。 さらにおばあちゃんはその時、靴を盗まれてしまってスリッパで帰っている途中に。 ふんだりけったりです。 前のブログにも同じような事を書いていましたが、どこでも同じような事がおきてるんだなぁ、と思ってしまいました。 せめて帰るときの靴くらいくれてもいいの
骨箱を受け取り、私たちはなんだか気が抜けてしまった。 実家に入れようとしたら、曾おばあちゃんから「待った」がかかった。 曾おばあちゃんは85歳になり、おじいちゃんは実の弟になる。子供がいなかったため、弟を養子にしたのである。 人嫌いで、ひとりで家に住んでいて、部屋が7つ、離れは二階建てで部屋が4つあるのだが、このような状況にあっても、誰にも住まわせないのである。 さらに、湧き水が家の裏にあるのに、何人かの知り合いだけにしか汲ませないのだそうだ。 そして、おじいちゃんを入れない理由は、「ケンカをしたから」と「骨と一緒にいるのは気持ち悪いから」である。 なんだそりゃ、である。 こればかりは何度言っても聞かず、もしも曾おばあちゃんがいなかったら、何世帯の家族がこの家に住め、何キロも離れた湧き水を、歩いて汲みに行かなくてもすむ人がいる、などといけない事を考えてしまう。 いてもイライラするだけなので
私ではなく娘の事で。 仮設住宅からアパートに移り小学生になり、中学生になり、進学しようとしています。 津波をかぶりながら逃げた記憶は、どれだけ残っているのか、覚えていないほうがいいけど。 なぜか捨てられなくて泥だらけの13cmの花柄のズックをビニールに袋に入れて靴箱に今もあります。 悲しませないように、それだけで結果、甘やかしてしまったと思います。 自由に自分が一番(一人っ子)をしてきたので、今回の修学旅行、コロナ過で(県内で近場、1泊二日、二時間以内で行く、みんな小さい頃から行ったことがある場所)に行くのも心配しています。 でも、もっと色んな事経験して欲しかったかなぁ、部活の大会も文化祭も色んな事を我慢させてしまった。 同じみんなに。 サプライズ的な事が出来たらいいのに。
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