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大谷翔平
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べてるの家のあり方は当事者中心であり、支援者は上から支援するのではなく、自らが降りていく。 向谷地生良氏は「降りていく生き方」をポール・ティリッヒの「ソーシャルワークの哲学」という小論から学んだという。(向谷地生良・浦河べてるの家『安心して絶望できる人生』) ティリッヒは「人を愛するという営みは、困難に陥っている人を「引き上げる業(わざ)」としてあるのではなく、そのなかに「降りていく業」として現されなければならない」と説いているそうだ。 本田哲郎神父もティリッヒから影響を受けたのだろうか。 この「降りていく生き方」は戸塚宏氏と対照的である。 戸塚ヨットスクールでは本人の意志とは関係なく、上から引っ張り上げようとする。 苦しみ悩みを解決できる人 ↓支援 苦しみ悩む状態にある人 その人の抱えている問題を自分の苦しみ悩みとして共有しなければ、「降りていく生き方」はできないと思う。 向谷地生良氏は
羽田野伯猷「チベット人の仏教受容について」という論文で、Rwa翻訳官ドルジェタク(?~1110以降)という、敵対する人間を度脱(呪殺)し、若い女性(瑜伽母)とセックスするチベット僧の名前を知った。 正木晃『性と呪殺の密教』はこのドルジェタクを取りあげた本である。 ドルジェタクをゲルク派の宗祖ツォンカパも高く評価していた。 その理由の一つは、正木晃氏によると、ドルジェタクは「きわめて優れた仏典翻訳家だった。しかも、ただたんに翻訳家にとどまらず、彼自身がすぐれた霊的能力の持ち主であり、実践をなによりも重視する密教の導入にかかせない逸材といってよかった」ということ。 ドルジェタクの仏典翻訳は、当時から非常に優れているという定評があり、現在でもその評価は変わらないそうだ。 「ドルジェタクが本場インドの教えとチベット的に変容を遂げた教えとを混同しなかった点も大きい。つまり、ドルジェタクの翻訳は正確な
高瀬毅『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』によると、浦上天主堂の廃墟が取り壊されることになったのは、長崎市長と長崎教区司教へのアメリカからの働きかけが大きな要因である。 1954年3月の第五福竜丸事件などがあり、アメリカは「教会ルート」と「市長ルート」ではたらきかけた。 「田川市長の「心がわり」のきっかけとなった姉妹都市提携と市長の渡米、山口司教による米国での天主堂再建の資金集めが、ほぼ同時期に行われた」 1954年7月、浦上天主堂再建委員会が発足する。 総工費は6千万円で、信徒たちの寄付は3千万円が限度。 山口司教は1955年5月~1956年2月までアメリカに渡り、再建資金を集めた。 一方、1955年、長崎市にはアメリカのセントポール市との姉妹都市提携の申し入れが持ち込まれた。 田川市長は1956年8月から9月までの一カ月あまり、アメリカ全土を訪問する。 訪米以降、田川市長の考えが
江森一郎『体罰の社会史』は1989年発行の本。 江森一郎氏が体罰史という観点を思いついたのは、戸塚宏『私はこの子たちを救いたい』に「日本の歴史が二千年あるとしても、体罰を否定しているのは、最近の三十年間だけで、あとの1970年間は、肯定されているのである」と言っていることだという。 江森一郎氏の考えは正反対に近い。 江戸時代以前にあって体罰否定論者はおそらく最澄と道元だろうということである。 江戸時代の初めごろから体罰が忌まれるようになった。 なんと水戸黄門様も体罰反対をはっきり表明しているそうだ。 闇斎、素行、藤樹、蕃山といった儒学者や心学者も体罰を否定している。 熊沢蕃山はこう書いている。 「聞いたことも見たこともない事を、読もうとする気もない子にまずい教え方で読ませれば、先にやったことは忘れてしまうのは当然だ。それを覚えが悪いの、忘れてしまったのと打ちたたきするのは、「不仁」である。
被害者参加制度で初の公判 遺族、被告に直接質問 刑事裁判に被害者や遺族の参加を認める「被害者参加制度」に基づき遺族らが出廷した公判が23日、東京地裁で2件開かれた。裁判の当事者として法廷に入った遺族が被告に実刑を求め、被害者本人が被告に犯行時の状況を直接問いただした。昨年12月にスタートした同制度で、遺族らの公判参加は全国初とみられる。 1件は、東京都内で昨年8月、トラックを運転中にバイクと衝突し調理師の男性(当時34)を死亡させたとして自動車運転過失致死罪に問われた運転手(66)の初公判。被害者の妻(34)と兄(35)の2人が被害者参加人として検察官の隣席に座った。 兄が質問に立ち、「なぜ1回しか謝罪に来なかったのか」などと、被告の事故後の対応を追及した。「事故現場で手を合わせたりしたことはありますか」と尋ねると、被告は「仕事で毎日通うので赤信号で止まれば手を合わせる」と供述。この質問の
「仕方なくしぶしぶ出てきた人たちに被告人の運命を決めさせなければならないという必然性はどこにあるのでしょうか」(西野喜一『裁判員制度の正体』) なぜ裁判員制度が導入されたのか、いろいろと深読みができる。 たとえば、裁判員制度は徴兵制につながるという意見。 そりゃ考えすぎだと、最初は思っていた。 しかし、あれこれと本を読んでいるうちに、裁判員制度とは国民の義務を新たに作ることだから、徴兵制とも無関係ではないかもしれないと思うようになった。 憲法で定められている国民の義務は、教育を受けさせる義務、勤労の義務、納税の義務の三つである。 憲法に規定されていない裁判員が国民の義務とされた。 素人なのに人を裁くことなんてできないからとか、仕事が忙しいというだけでは裁判員を辞退できない。 正当な理由なく出頭しないときは過料に処せられる場合があるなどの罰則がある。 つまり強制なのである。 仕事が忙しくて休
毎日新聞に「特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観」という、鳩山法相へのインタビュー記事が載っていた。 その中であれっと思った個所をいくつか。 「死刑廃止論はドライでかさかさした人たちの考え。人の命を奪ったんですよ。何人奪っても死刑がない、そんなドライな世の中に私は生きたくない」 と鳩山法相は言うが、どうして死刑廃止論者が「ドライでかさかさした」考えの持ち主になるのだろうか。 いつ執行されるかわからない死刑囚の恐怖、死刑囚の家族の思い、執行にたずさわり遺体の後始末をしなければならない刑務官の気持ち、そして遺族の悲痛etcを思いやる死刑廃止論者がウエットであり、「さっさと殺してしまえ」と言い切り、死刑になると忘れてしまう人こそがドライだと思う。 で、死刑を廃止したらどうして「ドライな世の中」になるのかということだが、 元秘書に解釈してもらう。「大臣の立ち位置は死刑囚でなく、遺族。遺族が
「死に神」表現に猛抗議 死刑執行で鳩山法相 「苦しんだ揚げ句に死刑を執行した。彼らは『死に神』に連れて行かれたのか」。鳩山邦夫法相は20日の閣議後会見で、13人の死刑執行を命令したことを朝日新聞が「死に神」と表現したことに対し「軽率な文章には心から抗議したい」と怒りをあらわにした。 朝日新聞18日付夕刊の「素粒子」欄は、鳩山法相について「2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」などと記載した。 これに対して鳩山法相は「極刑を実施するんだから、心境は穏やかでないが、どんなにつらくても社会正義のためにやむを得ないと思ってきた」と語り、「(死刑囚にも)人権も人格もある。司法の慎重な判断、法律の規定があり、苦しんだ揚げ句に執行した。彼らは死に神に連れて行かれたのか」とマイクが置かれた台をたたいて声を荒らげた。 さらに「私に対する侮辱は一向に構わないが、執行された人への侮辱でもあ
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