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大谷翔平
blog.goo.ne.jp/mcsammy
昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 9,301位 / 1,490,269 昨日 :6135歩 起床時間 :9時57分 血圧 :119 75 脈拍 :65 体温 :35.6℃ 体重 :67.0㎏ テレビをつける、すでに9時57分であった。妻と西武園ゆうえんちで開催の2010リサイクルカーニバルに行く予定であった。下に行くとすでに妻は支度が済んでいた。と言うのも、次男が高校時代の友人たちと奥多摩のマス釣り上へバーベキューで、6時に起きて出かけたので日曜日にしては早起きしていたのだ。私と言えばDVDを見ていて寝たのが6時近かったので起きられなかった。部屋に戻り、着替えて自転車で、読売新聞販売店へいき、西武園の入場券2枚を頂いて来る。家に戻り支度をする。妻が外寒かったよ、と言うので、皮ジャン
昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 当時の事情を知っているのはごくわずかの人であり、証言できる、手塚先生側の人間はほとんど、生き残っていない。 手塚プロ映画部部長であった鈴木紀男さんは、海のトリトンでは制作担当でアニメーションスタッフルームに在籍したが、その後一人車中で亡くなられているのが発見されルト言う不幸な出来事も起きた。 悔し涙を流し、何も語ろうとしなかった手塚先生も、今は永久に語ることが出来ず、元手塚プロ社長の島方さんも何も語らず最近亡くなられてしまった。 ふしぎなメルモの制作が終わり、そのまま海のトリトンの制作に入っていたため、いつもならふしぎなメルモの打ち上げを、当然行なわなければならないのであるが、その予定が立たないまま 「海のトリトン」の制作をしていた。 「海のトリトン」は、手塚先生原作「青い
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