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大谷翔平
blog.goo.ne.jp/toyama0811
「論語」子罕編の第四条、「子絶四、毋意、毋必、毋固、毋我」とある。「子は四を絶つ。意なる毋かれ、必なる毋かれ、固なる毋かれ、我なる毋かれ」と加地伸行が訓読する。それに対し、金谷治「四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし」と訓じている。これは、孔子が自ら吐いた言葉ではない。無論、四つの絶つべきことを意、必、固、我と指導したことは事実である。間接話法なので、ここは金谷治の訓読が大正解。孔子の直接の言葉だと、「毋かれ」と命令文で読みたくなる。しかし、ここは孔子が自己への戒めとする四絶である。誰でも、意、必、固、我というように、自分の意図、必然、固執、我見にこだわりたいものである。 中国仏教学でも、特に禅学では、孔子の四絶という自戒には評価が高い。仏教学にも影響を及ぼした。朱子も、意に起こり、必に遂げ、固に留まり、我に成ると「四絶」を単なる羅列ではなく、我欲から生じる一連の悪弊とみる。「論語」は
『論語』は、いきなり読んでも格言を集めただけの人生訓にしかみえない。やはり、朱熹たち宋の学者は、読み込みが深い。入門として、「大学」「中庸」のふたつの文献をあげている。「大学」は、孔子の教えをまとめた曾参が編纂したもの。この人物は、『論語』にも登場する孔子の高弟。学問の目的を論じた孔子の哲学の核心を『礼記』の一章として、「大学」を編纂している。さらに、孔子の孫である子思が、「中庸」を編纂している。『論語』は、この「大学」「中庸」には採用されなかった雑史料が捨てがたく、それを生の史料のままで残されたものである。だから、漢の時代には、五経には『論語』は含まれてはいない。王朝が官選したテキスト集にも含まれていない。しかし、戦国時代でも『論語』は読み継がれている。『荀子』は、『論語』を踏まえ、孔子の重視した『詩経』の知識に満たされている。特に、『荀子』は、学問の意義を高く掲げている。これは、『大学
「論語」の日本語訳としては、講談社の加地伸行訳が論理が明晰なので推奨できる。ただし、君子は教養人、小人は知識人という定義を全巻に一貫した論理があると考え、どの条もその論理にこじつけて訳すところがある。それと、最新の中国で出版されている白話訳を見ていない、無理に訓読して中国語の語法から離れているところが一部ある。しかし、ミス率はどの訳本に比べても少ない。 岩波文庫の金谷訳は、ミス率は非常に高い。「論語」購読会では、金谷訳をテキストとすると、講師の学識がすべてでてくる。たたき台としては、金谷訳は岩波ブランドを叩くという快感がある。その極致が、加地訳である。論敵は金谷訳であるからだ。 最新の論語の原本理解法は、3点ある。まず、中国語として中国語文法に習熟することが大前提である。少なくとも、中国で各種ある現代語訳を参照できる力がいる。 第2には、英訳にも伝統があり、意外に正確な訳に出会える。 第3
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