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大谷翔平
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下町の香りが漂う代々木上原の駅前にひっそりとたたずむモダンフレンチレストラン「シオ(sio)」。シェフの鳥羽周作氏は小学校教師を経て32歳で料理人になったという異色の経歴の持ち主。さらに時代を先取る斬新な経営戦略で、今あらゆる方面から注目を浴びている新進気鋭のシェフだ。 レストラン業界の現在や未来をどのように考え、前に進むためにどのようなことを大切にして仕事をしているのだろうか。修業時代も振り返りつつ、鳥羽氏が描くレストラン業界の未来について話を伺った。 ■32歳で料理の道へ、料理人としての基礎を築いた修業時代 様々な人生経験を経て32歳で料理人になられたという、異色の経歴をお持ちですが、なぜ料理人になろうと思われたのですか? 鳥羽氏: サッカー選手をあきらめて先生になりましたが、本当にやりたかったわけではなかったので、どこか悶々とした日々を過ごしていました。それで、父が料理をしていた影響
完全予約制で予約が取れないと有名なレストラン「スガラボ」を、代表シェフ須賀洋介氏の右腕としてオープン当初から支えた薬師神陸氏。新卒で辻調の教員として就職し、スガラボをゼロから作り、現在フリーランスとして活動するという、料理人としては異色の経歴の持ち主だ。なぜ彼は今レストランを飛び出したのか、これまでの経験から何を考え、どこに向かっているのか。新しい時代を引っ張るシェフの考えを聞いてみた。 高校で経営/ITに必要なスキルを学んだ後、辻調初の2年制コースに 料理の世界に入ったきっかけは? 薬師神氏: 料理好きだった祖父の影響ですね。実家は建築業兼宮大工なのですが、現場で作業が終わると、祖父が作った料理を作業場の20人くらいで鍋を囲んで食べていたことをずっと見ていました。祖父の振る舞う姿が素敵だなと思っていたので、自然と料理の道に入りました。 ご自身で料理を作り始めたのは、いつからですか? 薬師
フランス料理店「カンテサンス」をオープンした翌年に、33歳にしてミシュラン三つ星を獲得。現役最年少(2007年当時)の三つ星シェフとして話題となった。以来、9年。岸田氏の料理は国籍を問わず多くの人々を魅了し続け、「カンテサンス」は毎年三つ星に輝いている。若くして才能を開花し、驚異的なパフォーマンスを発揮し続けている岸田氏とはどのような人物なのだろう。 ■行儀がいいだけでは、雑用係で終わってしまう 共働きの母を手伝って料理を作り、家族から「おいしい」と言われたことが原点。小学校の卒業文集には「料理人になりたい」と書いた。19歳で名古屋専門料理学校を卒業後、最初に就職したのは三重県の志摩観光ホテル「ラ・メール」。当時の総料理長・高橋忠之氏は、少年時代からの憧れの存在だった。 高橋料理長を知ったのは、何かきっかけがあったのですか? 岸田氏: 母親が図書館で借りてきた、第11代目帝国ホテル総料理長
京都・烏丸。錦市場の喧騒から少し足を延ばしたところに、その店はある。「PATISSERIE AU GRENIER D'OR(オ・グルニエ・ドール)」。アラン・シャペル本店のシェフパティシエ、資生堂パーラー「ロオジエ」の総製菓長などを歴任した西原金蔵氏がオーナーシェフを務める、京都でも有数のパティスリーだ。この店が「2018年の5月で閉店する」と明言されているという話はあまりにも有名である。なぜ、今日までのキャリアを築くことができたのか。なぜ、店を閉めるのか。御年64歳となる西原氏に、パティシエとして歩んだこれまでとこれからについて伺った。 ■愛情を惜しみなく与えられ、礼儀作法を叩きこまれた幼少期 どんな幼少期を過ごしましたか。 西原氏: 岡山県の、山と小川と田園風景が広がる小さな城下町で育ちました。両親は兼業農家で忙しかったものですから、祖父祖母、3人の姉に囲まれ、幼少の頃はとても甘やかさ
ミシュランの常連であり、世界中からお客さんが足を運ぶ銀座「てんぷら 近藤」。店主の近藤氏は東京・神田駿河台「山の上ホテル」の「てんぷらと和食 山の上」で料理長を21年間務め、1991年に独立。薄い衣で揚げる手法や野菜を天種にするなど、斬新な発想を持つ料理人として知られる。近藤氏が生涯をかけて追求する天ぷらとは何か。その思いをうかがった。 ■面接で「お前は和食の顔だ」と言われ、「山の上ホテル」の和食部門に 丸ごと1本を低温で30分かけてホクホクに揚げたさつまいも、細切りにし一気に揚げた花のようなにんじん、衣はパリッと中はみずみずしく揚がった太いアスパラガス…。「てんぷら 近藤」の天種には野菜が多いが、もともと江戸前の天ぷらは魚介が中心で、野菜は「邪道」とされていた。また、素材本来の味を生かすために薄い衣で余計な油を残さず揚げた軽やかな天ぷらもかつてなかったもの。独自のスタイルは、18歳で就職
パリ、左岸にある「カフェ・ド・フロール」は1885年に誕生した。店名は店のあるサン=ジェルマン大通りに当時置かれていた春の女神「フロール」の彫像に由来している。創業以来、いつの時代も時の詩人、文学界、俳優、画家たちがここで出会い、語り合い、新たな作品が生まれてきた。 今日でも、フロールの存在意義は変わることなく引き継がれている。ジャン=ポール・サルトルは「フロールのギャルソンは、フロールという舞台を毎日演じている俳優である」と語り残したという。その役割を2003年より担っている日本人がいる。彼目当ての常連で席がうまる程の美しいサービス。山下哲也氏に話を聞いた。 ■はじめに この度はインタビューを受けて下さり、ありがとうございます。 山下氏: どういたしまして。 正直、自分のことは自分の仕事で100パーセント表現してこそ真のプロフェッショナルだと思っているので、フロールという舞台で表現してい
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シャングリラホテル台北の日本料理店のコンサルタントシェフや、インターコンチネンタルホテルの日本料理メニューを考案するなど、イギリス留学で培った得意の語学力を活かし国際的に活躍する「京料理 たか木」店主の高木一雄氏。老舗料亭で10年間修業した頃のエピソードや、店に対する思い、そしてこれからの夢を聞いた。 ■料理人だった祖父の姿に憧れて。 この世界に入られたきっかけはありますか? 僕の大好きな祖父が料理人だったのですが、家に遊びに行くと築地に買出しへ行ってお寿司を握ってくれたり、釣りに連れて行ってくれて釣れた魚を料理してくれたり…、すごく可愛がってくれたんです。そんな大好きで尊敬していたおじいちゃんの姿を見て、幼稚園の頃には「大きくなったら料理人になる!」と決めていました。母も料理好きで、僕が中学生の時に自宅で料理教室をはじめたのですが、生徒さんが200人くらいいましたね。そして父はホテルマン
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