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掃除・片付け
mmarigoto.hatenablog.com
場所に対する執着っていうのかしら、そういうのがあるのよ、Mちゃんは。 いつだったか、人から言われたことがある。 執着、という言い方はアレだけど、誰よりも分かりやすく熱く、場所に対する思い入れを主張するほうじゃない?と。 それはまさにその通りで、私はしょっちゅうほだされる。清々しい佇まいのインターチェンジや、散歩で行った水道みちや隣の市のメインストリート、旅先の宿から本屋さんへの道。これらはほんの一部で、人々が織り成す温かな空気や食事、といった人に伝えやすい魅力とは別に、土地そのものに対して、並みならぬ感情を抱きやすい。 曇りの今日、以前暮らしていた場所から近い、飛行場のことを思い出した。思い出したと同時に、行くことにした。なんとなく今日に相応しいと思って。 飛行機のお腹の部分を、近くの公園で真下から見ることが出来る。 こども達に見せようと思って、出掛けた。 いま暮らしている家からは車で一時
こども時代の想い出が、大人になってから知った裏話と共に深みを増している。 単純な1つのメロディだけ記憶していた曲に、伴奏やリズムパートが加わったかのような驚きがある。 先日、ゴリラの縫いぐるみの意味を知った。 幼少期の私は体力がなく、しょっちゅう何らかのトラブルで入院していた。度重なる喘息の発作や各種肺炎に加え、その内容は内科分野にとどまらず、骨折や盲腸などもあった。そのどれのいつの入院の時だったかは忘れてしまったけれど、とある入院時、母方の祖母が私のお見舞いに、ゴリラの縫いぐるみを持ってきてくれたのである。 「ほら!ゴリラ!可愛いでしょっ!」と満面の笑みで天真爛漫に見せる祖母。 「ゴリラは、可愛いのよ!ね!」と問答無用でゴリラを渡し、帰っていった。 正直、とても怖かった。私の顔よりも大きな、茶色茶色した、強そうなゴリラなのである。見せられた瞬間、私は泣きそうだった。 そうか、祖母はゴリラ
ウズウズしている。リビングで、未開封の組み立てカラーボックス、3点が待ち構えているから。3点のうち2点は2段。1点は3段のカラーボックス。今日になってから3歳の息子の陣地を作る事を思いつき、地元のホームセンターで、購入した。 私は一昨日から、組み立て家具を組み立て続けている。娘の小学校入学に向け、彼女の部屋を作りつつ、家のなか全体を整えている真っ最中なのだ。 昨日の段階で、オフィスチェアーとランドセルラック(&棚)、それから台所の食器/レンジ棚はすでに作り終えた。あとはデスク付きロフトベッドが届くのを待つばかり。今日明日はのんびりする予定だった。 私は模様替えが大好きで、必要性が生じたときはもちろん、必要にかられなくても、昔から年に2回以上は模様替えをする。嬉々として作業に熱中する。始めると想定外に止まらなくなることが多い。脳内で予定していた計画を遥かに越え、住居そのものが主体性を発揮し、
冷凍の生うどんは、とても便利。 調理時間が短くて済むのに、食事の充実感が高めなのです。 お昼ご飯に食べたのは、モチモチした太いきしめんで作ったミートソース。 サニーレタスも一緒に盛り付けて食べました。 冷凍庫にある、冷凍うどん二人前の存在を思い出して閃いたのは午後12時を過ぎた頃。 冷蔵庫にある牛挽き肉も使いたくなりました。 炊けたご飯がたっぷりあったら、牛挽き肉はただ炒めて挽き肉ご飯にするか、炒飯にしたかも知れません。 でも、炊飯器の中は空だし、お冷やご飯もありません。昨日は食パンを購入したため、今朝はご飯を炊かずにパンにしたからです。 2秒ほど考えた私は、牛挽き肉でミートソースを作る事にしました。 冷蔵庫にはミニトマトもあるし、トマトケチャップやウスターソースもある。 それに、3秒や4秒やそれ以上ながく、同じ事を考え続けるのが、私は得意ではないからです。 早速作り始めました。 鉄のフラ
一昨日から、お絵描きアプリにはまっています。 簡単に遊べて達成感も得られる、機能性たっぷりのアプリを見付けてからというものの、1日の中で隙あらば描いています。 なにを描こうでもなく、ただ色や模様を重ねてみたり、 家の2階の窓から見える景色を描いてみたり、 食べたいものを描いてみたり、 それを別のアプリで合成加工して、お皿に乗せてみたり。 普段、何か頭に思い描くとき、言葉に置き換えて考える事の方が多いのは、私だけではないと思います。 だからこそたまには、言葉にするよりも前に感覚的に好ましく思える色を触って選んだり、そこに加えたい色を合わせてみたり、といった作業を手軽なお絵かきアプリでするのはとても新鮮です。 実際の紙に絵を描こうとなると、机の上に紙を用意し、ペンや色鉛筆を用意するところから始まってしまいます。 でもそれが、日常生活の中で手軽に出来るとは限りません。 それらしく見えるように描こ
昨夜はたっぷりとお湯をためたバスタブをそのままに、お風呂に入らず寝てしまった。 以前は、用意したお風呂に入らずに寝てしまうのも決して珍しくもなかった。立ち上がってお風呂に入るタイミングを2、3回見送ってしまいそのまま朝になってしまうのが定番化していた事もあったくらい。 その時代の懐かしさをジンワリと感じつつ、そのまま仕事に出掛けなくても良い日の有難味を噛み締めて、私は午前中、追い焚きしたお風呂に入る事にした。 明るい時間に入るお風呂は、どことなくバカンスじみている。活動的でいられるその時間帯を敢えて寛ぎの時間に充ててしまう贅沢さが旅を思わせるのだ。 活動的な頭と体で入る午前中のお風呂は、空も暗く自身も疲れている夜のそれとは、また別物になる。 夜に入るお風呂は、通常、癒しがメインとなるのではないだろうか。 バスタブに使って体を緩めリラックスする事や、体を洗うのも清潔を保つという意味合いよりも
あなたは、人にモノを貰うのが好きですか? あげる方が好きですか? どちらもあまり興味ない、という人もいると思います。 その状況による、という人もいるでしょう。 人にモノをあげたり貰ったり と一言でいっても、 そのシチュエーションは様々あります。 それは例えば、 ・クリスマスやバレンタインなどのイベント事のプレゼント ・入学や就職、新築など、相手のプライベートのイベントに対するお祝いの品 ・旅行のお土産 ・洋服などのお下がり ・採れ過ぎた野菜のお裾分け ・抽選イベントの景品 ・ファミリーレストランで貰えるポイント券 他にもあると思います。 “人が人にモノをあげる” と一言でいっても、 そのシチュエーションを正確に具体的に説明しようとしたら、人の数ほどの種類が挙げられる事でしょう。 “モノをあげる、もらう” と一言でいっても、 それはプレゼントとは限りません。 なぜ今、 プレゼント と太字にし
これは、スダジイです。 スダジイは、縄文時代の保存食と言われている、数々のドングリの中でも珍しい、灰汁抜き不要で食べられるドングリです。 何かに使おうとして拾った訳ではありません。 出掛けた先の公園などに落ちているドングリや、海の砂浜の貝殻など、 拾い集め始めると何故か止まらなくなるのです。 まるで、拾うという行為そのものに、快楽が組み込まれているかのよう。 こちらは、白粉花(オシロイバナ)の種。 濃いピンクや白とピンクのグラデーションの花を持つ、オシロイバナのガクの部分からコロリと落ちる、この種は、黒い殻を割ると中に白い実が入っています。 その白い実の薄皮を剥くと、その中は真っ白の粉状に崩れる粉となっているのです。 種やドングリ、貝殻などを拾い始めると、拾っているその最中、次の事など考えません。 ただ拾うというそのこと自体が満ち足りた行為なのです。 その、何かに突き動かされるような気分に
この後更に煮詰める予定。 パプリカとタマネギとマッシュルーム、それからベーコンのスープです。 グツグツに濃く煮詰めて、お湯で割って飲めるようにする予定なのです。 肉厚のパプリカを使いました。 これに加えてタマネギも、ベーコンも全て同じくらいの大きさに刻みます。 形が揃っていると何故か美味しく感じます。 去年のこの時期にも同じものを作っていたみたい。 というのも、屋外で食べるご飯のおかずにしたかったから。 大きめのスープジャーに、濃く作ったこのスープを詰め、別の魔法瓶には熱湯を入れて持っていくのです。 用意していた紙コップにドロドロの濃縮スープを取り分け、そこに熱湯を注ぐ。 それぞれスプーンで混ぜて食べます。 屋外で食べるご飯の筆頭と言えば、おにぎりだったりサンドイッチだったりします。 私はおにぎりもサンドイッチも好きなのですがいつも何か足りないと思っていました。 サラダでもなければデザート
思考はどこまででも飛躍し脱線し捻れに捻れたあげく斜め上の場所にポコリと着地することしばしば。 しかし私は物に関しての無駄は好みません。 必要最低限の物だけを所有し、所有が必要かどうかを吟味し、物理的には極力身軽でいたい。 いつもそう思い、それに関して最大限の行動をとっております。 そんな中。 望まずとも打ち寄せる波のように我が家に流れ込んでくるもの。 それが“紙の伝票”、そして“紙のお知らせ”です。 注文食材の紙の伝票や子どもの幼稚園からのお便りなどで要らなくなったものを、中表に折ったものがこちら。 ↓ 数ヶ所両側からホチキスでとめ、表紙をつけたものがこちら。 ↓ ノートの表紙は、いつか貰ったフリーペーパーの気に入った部分など。 時に包装紙などを使う事もあります。 ↓ 私は大学在学中は、配られてはまた配られ、山のように貯まる、講義のプリントを集めては講義終了後、次のセメスターで使うノートに
葡萄が美味しい季節です。 葡萄の見た目って素敵。 真ん丸で、瑞々しくて、ひと房の中でもほんの少しずつ色が違っていて。 絵になる果物の筆頭だと私は思っているのです。 細工の細かい佇まい。 手間のかかった見た目です。 写真の葡萄は房からはずしてしまいましたが、房の上の部分と下の方の部分がそれぞれのお皿に混ざるように分けました。 味が違うからです。 葡萄の枝に近い方が美味しいと人から聞いて、 二人にわけるときは上と下とが混ざるようにしているのです。 美味しさもなるべく平等に。 自然のものっていいな、そのまま生で食べられるものって贅沢だな、 と思っているのですが、 そのままで食べられて見た目も美しいものは手がかかっている事が多い。 という事に思い当たりました。 葡萄は栽培にとても手のかかる果物です。 野生の葡萄もありますが、野生の葡萄の房の粒全てが傷なしであることはほぼありません。 まず皮が薄いも
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