サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
tanpopotanpopo.hatenablog.com
時代に関係なく、ずっと生きづらさを感じながら生きてきた私が、これからは少しだけ楽な気持ちで生きてゆけそうなのは『Highly Sensitive Person/ハイリー・センシティブ・パーソン』という概念を知ったからだ。 小、中、高と学校に通っている間じゅう、自分が他の子達とは何かが違うのを感じながらそれを隠し、人と同じように振る舞えないのが苦しかった。 小学生の頃から「感受性が強過ぎる」という理由で、親にも先生にも叱られた。 個性が尊重されるようになる前の時代である。 私達は金太郎飴のひと粒にならなければならず、さしずめ私は売り物にならないいびつな端っこの飴だった。 社会に出て、結婚をして、人との関わりにもこなれてきた。 どんなに傷ついても痛くないふりをした。場数を踏んで、年齢を重ねて、大抵の事には動じなく…… 残念ながら、ならなかった。 私は人と違うから、こんな問題が起きたのは私のせい
もう何を書いても嫌われるのだから、皆が大好きなおっぱいの話でも書こうかと思ったけれど、それは別の機会にする。 そしてまた、陰鬱な実家の話を書く。 またか……と思う方々とは、ここでさようなら。(不機嫌) 先日、母と電話をしていたら、母が嬉しそうにこんな事を言った。 「『お宅さんは、お子さんの3人が3人とも皆優秀で羨ましい』だぁど。おらぁ、鼻が高えやらおしょうすう(恥ずかしい)やらだったがえ」 私は驚いた。 弟は確かに優秀で自慢の弟だが、姉と私が優秀だった覚えはまるで無い。 私などはすぐ近くにある進学校にも入れず、海を越え山越えて高校に通うバカだと罵られてきた。 いつの間に、記憶が上書きされたのだろう。 よその人が何故母にお世辞を言ったのか解らないが、以前の母なら決して我が子自慢をしなかった。 「『どんな育て方をすれば、うちの子供達もそういうふうに育ちますか』だぁどや。おらぁまぁ、なぁどすっぺ
少し前に『さおたんに歌詞を書いてあげたった』という記事を書きましたが、それが貫洞さんや周りの人から不本意な読まれ方をされている件について。 どんな受け止め方をされても、それは私の書き方のせいだから仕方ないと思いましたが、やはり書かずにはいられません。 貫洞沙織さん。私が記事を消したのは、私がほんの気まぐれで書いた私の歌詞をあなたに使って欲しくないと思ったからです。 それは「文章が書けなくなった代わりに曲が浮かぶようになり、インフルエンザの注射をしたら文章が浮かんできた。だから曲が出来なくなった」とかいうあなたの謎の文章に、心底呆れたからです。 ほんの気まぐれで書いた歌詞は使いたくない。曲がつけにくい。センスが悪い等と言われた方が余程ましでした。 そしてあの歌詞は、ほんの気まぐれで書いたものではありますが、あなたが歌う姿をイメージして書きました。 寂しがり屋で、強がっていて、いつでも愛を欲し
子猫エントリ書くつもりが、突然ポエマー。タンポポです。 さおたんが何やら歌にハマっているのは、はてなーなら皆知っていて。 私は恐ろしく底意地の悪いクソババアなので(よくもまあ、あの程度でネットに流せるなあ)と、冷やかに見ていたわけですよ。 カバー曲だけでは飽き足らず、オリジナル曲を歌うとな。その作詞に、小野さんやイカさんがめっちゃ好意的に協力してあげている… ふーん。まあ、他人事ですよね。楽しそうでいいんじゃない? 歌詞書きましょう!— 迷子のイカ (@usausamode) 2018年11月11日 ぽぽたんもさおたんに歌詞書いてくれないかなあ。。— saoritan (@saoritan1) 2018年11月11日 ご指名かよ! 無理無理。無理です。 私、今日は猫エントリ書くんだからね。 でも…… さおたんの本気って怖いよね。歌もギターもかなり上手くなっているし。 これなら歌詞いっこ書い
父が入所している介護施設と姉の家は、それほど遠くない。 姉の家で少し休憩してから、弟の家に行く事にした。 「おやつにしよう」と、姉がコーヒーを淹れてくれた。 母が人形焼を手に取って、しげしげと眺めていた。 「可愛くないよね」 私が最初に就職した先の最寄り駅には、大きなアーケード商店街があった。その中に重盛という人形焼の店があり、とても繁盛していた。 私も買ってみようと思ったが、人形焼という名前にしては何だか怖い顔をしている。 結局一度も買わずじまいで、30年以上も過ぎた。 明治座の土産屋で人形焼きを見つけたのは、偶然だった。あの重盛のも売っていたので、舞台を見ながら食べた。 土産に買って来た人形焼を食べてみると、これも不味くはないけれど、重盛の方が餡子たっぷりで美味しい。 そんな事を考えながらコーヒーを飲もうとしたら、母が 「おれのコーヒーはや?」 と言うので、姉と私は同時に「えーっ?」と
どうしてそれ程までに父親を嫌うのかと、人によく聞かれるが、嫌なものは嫌としか言いようがない。 父と関わろうとすると、忽ち拒絶反応が起こる。 鳥肌が立つ。動悸がして、血圧も上昇する。 それは子供の頃からだった。 外で遊んでいて家に帰る途中、父の車を見かけた。 私は咄嗟に物陰に隠れた。それを父にしっかり見られていて、帰宅するなりそれはもうこっ酷く怒られた。外で何か悪い事でもしてきたから、コソコソ隠れたのだろうと決めつけていた。 確かに、そのように思われても仕方がない。どうして隠れたか問い詰められても、自分の体が勝手に隠れたのだから、説明のしようがなかった。 父の説教はいつも、1時間や2時間では済まなかった。本当に叱られなければいけない事など、一度もしていないのに。 こんな育ち方をすれば誰だって、父親を嫌うのではないだろうか。 私は未だに、男の大声が怖い。他人の怒鳴り声を聞いたり喧嘩を見たりする
帰省3日目は、夜に中学時代の友人と会う約束があり、それまで実家で雑用をしながら過ごす。 何もないド田舎だったのに、町中にちょっとお洒落な飲食店が増えていた。 友人が予約してくれた店も、新しく出来たばかりのワインバルだった。 カルパッチョ等の、魚介を使った料理が安くて美味しい。私はワイン2杯が限界で、友人は何杯かわからない程グラスをあけた。 ここでも親の介護の話と、嫁いだばかりの娘が心配な話。幾つになっても子供の心配をするのが親なのだ。そう実感する年代… 私なんかと毎年会っていて楽しいのか?という気を回さずに済む程、友人は楽しそうだった。 盛岡で会った友人には話したので、ここでも私の病気をカミングアウトするつもりだった。ふたりには、知っておいて貰いたかった。 でも、話すタイミングを失った。まあいい。大した事ではない。 ハンドメイド作家の友人は、会う度に作品をくれる。 家庭科は、彼女より私の方
子どもの小、中学校時代には、私の人間関係はほぼ、親同士の付き合いで占められた。 その中で、私は何度も苦境に立たされた。同調するのが嫌いなので、孤立しても構わないのだが、子どもまで巻き込む事は出来ない。 悩んでいる時、私が孤立しないように優しい声をかけてくるのは、Oさんと、Oさんのお仲間達だった。 ご好意は有り難いのだが、彼女達と親しくすれば私も信者だと、また周りから思われる。 そして、事ある毎に集会への参加やら、新聞やらを勧められて、断るのに難儀した。 私は子どもの成長と共にパートの勤務時間を長くして、親同士の付き合いを減らしていった。 当時、私はスーパーマーケットの経理事務をしていた。 ある日、店長が私に問いかけてきた。 「もうすぐ、パートの契約更新だけど、Mさんはどうするんだろう。何か聞いてる?」 Mさんは惣菜部門のパートさんだった。私はMさんとは事務所や休憩室で挨拶する程度で、さほど
私がその宗教を知ったのは、27歳の時だった。 それまでの私は、宗教について何も知らなかった。 仏壇も神棚もない家に生まれ、家から近いという理由だけでカトリックの幼稚園に入れられた。 登園拒否児で、アーメンで終わる祈りの文言は、とうとう覚えず仕舞いだった。 八幡様にも近かったので、大晦日の夜は元朝参り。お盆にはお墓参り。クリスマスは、大きなケーキを食べる日。 ご先祖様には手を合わせられても、私に神様はいなかった。世界史で宗教戦争を習っても(宗教でなぜ戦争)と、少しも理解出来なかった。 23歳の頃、出向先で知り合った同い年の女性が、婚約者の意向で信仰を捨てたと苦しんでいた。それを知った上司が「無理な勧誘はしませんから、一度、僕の信仰する教えを聞きに来ませんか?」と誘い、彼女の悩みは一層深くなっていた。 私は(信仰って、何だか大変そう)と思いながら見ていた。 27歳で出産して、それから3ヶ月ほど
東日本震災以来、三陸沿岸地方への帰省を自分に課して、8回目の東北です。 今回は大人の休日倶楽部に加入し、秋の東日本・北海道スペシャルパス(26,000円)を利用しました。 これがあれば、JR東日本全線、そしてJR北海道全線5日間乗り降り自由という、超お得なパスなのです。 指定席券も、計6回まで取ることが出来ます。 「すごいよ。これで北海道まで行けちゃうんだって!」と、得意になって夫と娘に見せびらかしました。 北海道に行くなら小樽かな。札幌にも行きたい。 けれども今回の帰省には東北ミッションがいくつもあって、北海道まではとても足を延ばせそうにありませんでした。 仙台で途中下車して、はてなの偶像(?)Sさんとお会いしました。 仙台駅の待ち合わせスポットであるステンドグラス前に、Sさんがスマホを見ながら立っているのが見えると、思わず 「わーいSさんがいたー。Sさーん!」と、はしゃいでしまいました
先日、出かけた時に偶然このポスターが目に入り、思わず立ち止まった。 最初に断っておくが、イベントの話ではない。 イラストを見て遠い昔の、ある女の子を思い出したのだった。 奈津子という19歳の子が、かつて勤めていたソフトウェア開発会社に、アルバイトとして入って来た。 アルバイトなんてこれまでひとりも雇った事のない、興して3年目の小さな会社だった。 社長ったら、一体どこでこの子を見つけて来たのだろう? 他の社員達も同様に「どこから拾って来たんだろうね」等と、まるで野良の子猫のような扱いだった。 ほぼ未経験の私さえ雇う、かなり奇特な社長ではあった。 私がこの会社に入社したのは、二十歳の時だった。当時は同い年の女子社員が4人いて、皆仲が良かった。 仕事帰りには渋谷や新宿で夜遊びした。終電がなくなれば誰かのアパートに泊まり、翌朝一緒に出社した。毎日がとても楽しいと思い込んでいた。 けれどもそんな学生
子供の頃、目覚めると母がいなかった。 母が家出したとか、そういう話ではない。そんな事も何度かあったけれど。 母は夜明け前に起きて、早朝5時から市場で働いていた。 7時くらいになると、知り合いの誰かが母に頼まれておかずを届けてくれた。大きなガス炊飯器にご飯だけは炊いてあった。味噌汁はたいてい、前の晩の残りだった。 私達はそれを食べて学校へ行く。弟は卵かけご飯をよく食べていた。当時の私は低血圧で朝が弱く、とても少食だったのであまり食べなかった。 中学生になると、自分で弁当を作った。 ご飯に市販の総菜を詰めるだけの茶色い弁当に飽きて、彩りのよい弁当を作ろうと試みたが、失敗ばかりした。 そのうち弁当作りのために早起きするのが嫌になり、菓子パンを買うようになった。 中学校が近かったので8時に出れば間に合うのだが、校門前のパン屋はとても混んでいる。のんびりしていたらパンが無くなるし、遅刻してしまう。
18日の土曜日は、エッセイの表彰式でした。 自慢たらしくて本当は書かない方がいいのは解っていますが、この日を自分が忘れないように、それだけのために書いておきます。 受賞の報せが届いたのは6月10日頃(ほら、もう忘れた)。15日に発売される月刊「望星」の発表前で心の準備が出来ておらず、不意打ちを食らったのでした。 受賞は思いがけないというよりも、当然の結果だと思う不遜な私なのですが、最優秀賞までは予想だにしておらず震えました。 表彰式の出欠は、直前まで悩みました。 本心では、行きたくないのです。 例えMGではなくても、そのような場所で注目を浴びるのは苦手です。 それに病気の症状が日によって違うので、当日に出かけられるのか、会場で普通にしていられるのかまるで解りません。 母には病気を打ち明けていないので「緊張するとお腹が痛くなるから、表彰式には行きたくない」と、相談しました。 「おらもそういう
初めて娘とふたりだけでカラオケをした。 私達は採点機能を使ってみた。自分の歌の点数がどのくらい出るのか知りたかった。 歌い終わると採点が始まる。面白いもので、自分では上手く歌えたと思うのに点数があまり伸びなかったり、何度も間違えて酷い点を覚悟していたのに、意外と良かったりした。 どんな基準なのか解らないが、この採点機能の点数や順位は、ゲーム感覚で楽しむくらいが丁度良いのだろう。 私達は、注文したポテトフライとたこ焼きに手も付けず、ドリンクバーのお代わりもしないで交代で歌い続けた。 ふたりとも高得点はなかなか出せなかった。そして、大失敗してもそれほど悪い点数にはならないのを知り、気が楽になった。 私は、娘がテストで満点を取らないと許さない母親だった。 100点満点が取れるはずの予習と復習を、毎日見てあげていた。娘はいつも満点だったが、当然の事と思っていた。 減点があればそれは非常につまらない
娘とカラオケに行った。 本当はずっと、ひとカラがしてみたくて、今年こそはひとカラデビューをするのだと意気込んでいたが、いざ店の前に立つと入る勇気が出なかった。 娘とふたりで出かけて別々の部屋にするつもりだったが、土曜のせいかとても混んでいたので同じ部屋にした。 私は人前で歌うのが苦手だから、たとえ娘でも嫌だと思った。でも、家ではTVに合わせてヒット曲を一緒に歌っているのだから、今さら恥ずかしがっても仕方がない。 これまでカラオケボックスに入った事が、たったの2回しかない。 パート時代、飲み会の2次会として入った時は、皆かなり酔っていたのでメチャクチャだった。 その次は、夫の仕事の接待に付き合わされた。 どこかの社長達が喜びそうな時代の歌を、私ははっちゃけて歌ってあげた。疲れた。ちっとも楽しくなかった。 独身時代にお金に困ると、小さなスナックでアルバイトをしていた。 どんな店にもカラオケセッ
身体の不調は持病と、季節的なものだから仕方がない。 心の不調も、生きていればいろんな事が起きるから仕方がない。 けれど私の場合、ほんの些細な事がきっかけでスイッチが入ってしまうから困る。今回の不調も、ああ、あのせいと思い当たる事がふたつある。 ひとつ目は、先日母と電話で話した時のこと。 私には5歳年下の弟がいて、その弟と同じ歳の従兄弟がいる。 内弁慶だった弟は、外では大人しい良い子で通っていた。従兄弟はいかにも大店のお坊ちゃんで、とてもやんちゃだった。皆からA坊と呼ばれていた。 抑圧された子供時代を育っていた私達は、A坊の破天荒っぷりに驚かされてばかりいた。悪戯が過ぎれば最後には祖母にこっぴどく叱られて大泣きをするのだが、それでもすぐにケロッとしてふざけているような子だった。 そして全然タイプの違う弟なのに、ふたりは喧嘩をほとんどしなかった。 弟はA坊の自由奔放さが羨ましかっただろうし、A
出会わなければ よかったと あなたはきっと 思うのでしょう どこまで時を 巻き戻したら 楽しかった日々に 戻れるの わたしなどすぐに 忘れてね 言えなかった言葉 言ってしまった言葉 悲しませたこと 憎しみあったこと 大事に大事に 抱いたまま 思い出だけで 生きて行く わたしを嫌いでもいいし わたしを許さなくていい あなたが全部 忘れても わたしはどれも 忘れない あなたに出会えて よかったよ
私は私の中にいる、もうひとりの自分の存在を感じている。時々、ではなく常に。 何か迷う事があった時、頭の中から天使と悪魔が現れて、それぞれが真逆の提案をしたりするあれと同じように、私はもうひとりの私とよく揉め事をおこす。 この現象には名前があるのだろうか? そしてこれはよくあるごく普通の、誰もが感じている現象なのだろうか? 衝動的に行動したり、考えなしに口に出したりするのが何とかと名前のついた障害ならば、ひとりの私はその障害を持っていて、もうひとりの私がそれを必死に止めている。 「お前いいこぶってんじゃないよ」と言い捨ててもうひとりの私をねじ伏せ、好き勝手に出来たらさぞかし楽しい? その方が、とても苦しい生き方な気がする。 これまでのように、ふたりの自分をお互いになだめすかしながら、生きていくしかないのだろう。 「十分好き勝手してるくせに」 今もそんな声が聞こえてくる。 暑くて気が触れている
屋上庭園が好きで、よくひとりで出かける。 屋上庭園が好きと言っても、そこで必ずしも癒されている訳ではない。植物はどこからか連れて来られて見栄えのいいように植えられ、きっと軽量化された土も、遮るもののない日差しも温湿度も吹き付ける風も、植物にとって最適ではない。 動物園にいる動物がかわいそうだと言う人がいるのと同じように、いやそれ以上に、私は屋上庭園の植物が不憫だと思う。 そこに植えられても適応出来なければたちまち枯れて、容赦なくゴミに捨てられるのだから。 狂いかけている季節に人も植物も翻弄されながら、それでも季節の花を愛でようと屋上に上る。 先日出かけた銀座のあるデパートの屋上庭園は、とても庭園とは呼べないような、小さな花壇が少しあるだけのスペースだった。 せっかく来たので、私はベンチに座ってその辺をぼんやり眺めていた。 上品な服を着た3歳位の女の子が、クローバーの葉をちぎっていた。近くに
なぜそのような辱しめをw— たんぽぽ@斜陽族 (@2FqQcquTqJEY8Qj) 2018年7月19日 なるほどそうかw— たんぽぽ@斜陽族 (@2FqQcquTqJEY8Qj) 2018年7月19日 お題をいただいたので書いてみる。書く前から頭の中はネガティブでいっぱいですが。 男の子に面と向かって好きと言われたのは、たぶんこの時が最初だと思う。 私の通った高校では修学旅行というものがなく、毎年1泊か2泊程度の研修旅行があった。東京や京都のような観光地ではなく、岩手や秋田、青森等の近場だった。 高3の時だった。場所も研修内容も全部忘れてしまった。 宿泊の部屋は6人部屋で、2段ベッドが3つあった。消灯までの自由時間、同室の子達とおしゃべりをしていた。 私はこの旅行のために買ってもらった新しいパジャマが好評で、気を良くしていた。地元は田舎で可愛い服などどこにもなかったから、皆おしゃれを諦め
嫌いだと言われた日の事を書こうとしたら、3年前の7月にも書いていたので、どうやら7月になると甦る記憶らしい。 読み返すと、書きたい事はほとんど同じなのだが、3年前とは少しだけ感じ方が違っているので、自分のためにリライトする。 当時の小中学校ではどういうわけか、教育の一環としてつるし上げのような真似が普通に行われていた。 発端はひとりの女子への苛め問題だったが、いつの間にか全員ひとりずつ嫌いな人の名前とその理由を順番に言う羽目になった。 ほとんどの子は「嫌いな人はいません」と言うのだが「綺麗ごとを言うな。だったらどうしてクラスから苛めが無くならないのだ」と担任が怒鳴り、本当に怖かった。 私は不良のリーダー格の男子が大嫌いだと言った。理由は「人が嫌がる事ばかりするから」 そんな中、ある男子に「タンポポが嫌い」と言われた。理由は「いつも本を読んだり詩か何か書いていて、文学少女を気取っているから」
東日本大震災が起きたのが、2011年3月11日。 実家のある岩手県沿岸北部地方に帰省したのは、地震から4ヶ月後の7月だった。 行こうと思えば、もう少し早い段階で行く事は出来た。 実家は津波の被害に遭わなかったが、親戚の家々をかなりやられた。国道の通行止めが解除されればすぐに行くつもりであったが、母は「町中が片付くまでは、来ても仕方ない。来なくていい」と繰り返していた。 けれども「私は、行かなければならない」という思いに、何故だか囚われていた。 当時はまだ短歌に出会っていなかったから、故郷で起きた事を書き記しておきたい、ただそれだけだったと思う。 岩手に帰省しました。 4泊5日。 13年ぶりの実家。 今回の帰省の最大の目的は 津波で被災した地域を見て回る事。 見てどうなると言われたら何も言えないけれど 何が起きたのかをテレビではなくこの目で確かめたい。 ただそれだけの理由。 それから 姪が出
今日は雑談です。いつもか。 手持ちのはてなスターを七夕までに撒き散らしてはてなを去ろうとしたら、思いがけずあっという間に使い切ってしまい… サキさんに「コラ星買え」とカツアゲしてみたら、本当にくれました(笑) サキさんありがとう。こんなにチョロいと今後、悪い女にだまされやしないかと心配です← おはようございます。非行爆走中のタンポポです。 ちょっと前には、やままちゃんにLINEスタンプをプレゼントされました。こういうデジタルなギフトって今どきだなあって思いました。おばちゃん嬉しいよ。 昨年の今頃は、自分の身体に異変が起きているのにも気づいていませんでした。 毎日のように些細な不調はありましたが、それを全部更年期のせいと片付けていました。 しかし秋以降に出かけた先で動けなくなり、救護室で休ませてもらった事が2回あります。 担架で運ばれましたが、運んでくれた人達が本当に重たそうで申し訳なく、真
もういちいち人に説明するのが面倒なので、カミングアウト。 私の現在の状態は「重症筋無力症 眼筋型の疑い」です。 重症と聞けばびびりますが私はとても軽症で、対症療法の薬であるメスチノンを服用して日々をやり過ごしています。 この薬がよく効いていて、調子のいい日などは自分が病気だなんて何かの間違いでは?と思うほどです。 けれども副作用が強く出たり、飲み忘れていないのに症状が強く出たりすると落ち込んだり自暴自棄になったりします。 疲れてくると眼球がどっちを向いているのかわからなくなったり、まぶたが垂れ下がってきます。 この顔がなかなかホラーなのですが、私はこのレアな病気に罹ったのが他の誰かでなく私で良かったなと、つくづく思うのです。 だって、可愛い、美人だとちやほやされてきた人がいきなりこうなったら、ショックで死にたくなりますよきっと。 私のような元々のブスが、病気で更にブスになったところで大した
私は「ある」詳しくは後で書く。 私が初めて小説らしきものを書いたのは、中学一年の夏休みだった。 当時通っていた中学では、長期休みに入る前に自由研究テーマを決めねばならなかった。 研究テーマは科目別に、例えば国語分科会、社会分科会等という具合に分けられた。 休みが終わるとクラス毎の各科目の代表が集まって、分科会で発表をする。その中から科目別の学年代表を選ぶのだった。 自由研究なんて面倒。何をすればいいんだろう。 口々に騒ぐ私達に担任が、先輩達の例をいくつか挙げた。その中に「小説を書くとか…」の一言があった。 「えっ?小説を書けばそれで自由研究になるの?」 小学生の頃、お楽しみ会の脚本やお笑いネタを書いていた私は、すぐに飛びついた。これなら「遊んでいないで勉強しろ」と言われても「自由研究中」と言い返せる。最高だ。 嬉々として400字詰め原稿用紙50枚を書き、まだ休みが残っていたので白い紙に清書
今でも時々、夢に見るのです。 深夜の暗い道を、何故かひとりで歩いていて、場所は見覚えのない郊外の街で、人通りはなく、車も走らず、コンビニさえも閉まっている。 車道の真ん中を歩きながら夜空を見上げれば、頭上に広がる天の川。 すごい。 天の川だ。私、ずっとこれが見たかったの。 夥しい数の星に圧倒されながらも、意識の隅っこで私には解っていた。それが本当の星ではない事を。 また、この夢か。 そう意識すると、途端に星から星へ白く細い線が伸びて、星座の形を繋いでいく。 夜空はまるで、プラネタリウムドームのようになって、たくさんの星座の模様を描くのだった。 ほら、やっぱり。偽物の空。 こんな場所で、天の川なんか見えるわけないものね。 私がまだ幼かった頃、住んでいた田舎は街灯も少なく、夜になればほんの少しの先も見えないほど真っ暗になった。 そんな夜道を、私は母と何度も歩いた。 夫婦喧嘩の絶えない家で、母は
おはようございます。懺悔の時間です。 (ごめんやままちゃんのパクリですw) 昨日、私がはてなの女帝みどりの小野さんの記事に対して付けたブコメに、不適切な表現がありました事を深く反省し、お詫びいたします。 だってさ、記事を読んだら感想じゃなくてふざけたブコメがあるだけやし、マスヲさんたら私が来ないと思っておふざけが過ぎるから説教ぐらいするやんか。 move-wife 文章がヘタクソだと言われて、頑張ったと思います。女のオシッコを飲む描写なんかがあればもっと良いと思います。ワタクシは好きですよ。シャーーーーーッ!!!!ゴキュッ!!!!ゴキュッ!!!!ゴキュッ!!!! 2018/06/29 リンク tanpopotanpopo コラコラおっさんコラおっさん。私は文章がヘタクソなんて言ってないよ。「ちっとも面白くない」とは言ったけど。で、何これポエム? したらな、その直後に AzuLitchi 「
本当は「お久しぶりねはてな」というタイトルにしようかと思いましたが、流石にそっちこっちから石が飛んできそうです。斧も。 こんにちは。メンヘラばばあのタンポポです…って、メンヘラじゃねーぞ。そっちだろーがメンヘラなのは! はい、本日もこんな感じでお送りしますよ。おめーらみんなついて来いよな! さて、タイトルですが… もう女ですらないので、武器など使えるわけがありません。猫ならとうに化け猫の域に達していますから。 そんな私ですが先日、ある方を呼び出して血祭りにお話をさせていただく機会がありました。 お互いに初対面ですから、どんな人が来るかわかりません。 いいですねこの感じ。少しドキドキワクワクします。こういう感覚を味わいたくて皆がオフをやるのかな?と思いました。 これまではネットの人と会うなんて、大脳がやられた人のやる事だと思っていましたから、いよいよ私のお脳もお終いのようです。 私達は二人と
冗談ですよ。 まあ、そんなにカッカすんなって。 オフ騒動が下火になったところに燃料を投下して逃げたので、笑いが止まらない放火魔です。 もう面倒くさいからidコールなんかしません。どうせ読むでしょ。 みどりの小野さん。 貴女が泣きながら書いたというエントリーは、ちゃんと読ませていただきましたよ。 悲劇のヒロイン気取りはやめてもらえませんか? 人気者の貴女には大勢のファンがいて、勝算があっての事でしょうが、正直あの程度では 全然負ける気がしませんから! 泣きながらというのも眉唾ものですが本当だとしたら、涙というものはそんなところで容易く流すものではありません。 涙は男をおとす時に使うのです。しかもそれには有効期限があって、アラフォ… 話がそれた。 やだなぁ、冗談ですってば。 ねえ、みどりの小野さん。 貴女は何を目指し、何処に行きたいんでしたっけ? 1ミリも興味ないけど。 これは、女による女のた
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『w a k u r a b a』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く