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大谷翔平
yukarino.jp
江戸時代の終焉と共に、千年続いた武士も滅びました。しかし明治になると新政府に対する不満から、全国で不平士族の乱が起きました。その最後の戦いが明治10(1877)年2月19日~9月24日に起きた西南戦争です。西郷隆盛を首脳に旧薩摩藩士が挙兵、国内最大最後の内戦になりました。西郷隆盛は「今般政府に尋問の筋これあり」と、その決起の決意を述べています。 西南戦争の戦場となったのは九州の鹿児島県・熊本県・宮崎県・大分県。戦力は政府軍6万に対し薩摩軍3万。戦死者は両軍合わせて14000人。その四分の一が西南戦争最大の激戦地・田原坂で亡くなりました。
喜連川家が治める「喜連川藩」は、下野国塩谷郡喜連川にありました(現在の栃木県さくら市)。室町幕府を創設した足利尊氏の息子である基氏の流れを汲んでいます。 室町幕府から関東を治める鎌倉公方に任じられましたが、やがて将軍家とは対立、内紛もあって衰退してしまいました。その上、近隣の北条氏の圧迫もあったのです。 しかし、豊臣秀吉による北条征伐の後、秀吉は名門の血統を惜しみ存続させることにします。 当時鎌倉公方は分裂し、古河公方と小弓公方に分かれていました。そこで、古河公方の跡取り・足利氏姫と小弓公方・足利国朝を縁組させ、下野喜連川に3,500石を与えて喜連川氏を名乗らせたのです。国朝がすぐに亡くなったため、氏姫はその弟・頼氏と再婚しました。 関ヶ原の戦いには参戦しませんでしたが、頼氏は徳川家康に戦勝祝いの使者を送り、1,000石の加増を受けて旗本となります(後5,000石に)。
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