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「藤堂高虎家訓200箇条」のブログ記事一覧-おおた 葉一郎のしょーと・しょーと・えっせい
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「藤堂高虎家訓200箇条」のブログ記事一覧-おおた 葉一郎のしょーと・しょーと・えっせい
藤堂高虎の家訓200箇条、やっと最後までたどり着く。思うに、200箇条ということ自体が長過ぎるのだろう... 藤堂高虎の家訓200箇条、やっと最後までたどり着く。思うに、200箇条ということ自体が長過ぎるのだろう。本当に心に強く残る条というものはあまりなく、一つ一つの処世訓といったものに近い。これが書かれたのは家康の死後、高虎が江戸の上野にある藩邸で生活していた頃のものということで、江戸時代が既に始まってからである。遅れてきた戦国武将である高虎が、人生を振り返り、藤堂家の今後の安寧のため、事細かに注意事項を書き連ねたものと言える。一介の豪族から10人以上も主君を乗り移り、かつ城郭作りのスペシャリストであり、江戸の町割りを担当したり、さらに故郷近江の商工業者を江戸に誘致し、とうとう家康のブレーンの座にすわり32万石という大大名になったわけだ。 その後、藤堂家は外様大名でありながら伊賀・伊勢という紀伊・尾張の御三家の間に領地を持ち、あまり目立たぬように江戸時代をまっとうする。そして、江戸時代の最後にあ