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内藤以貫の墓(住吉台5丁目) - 「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに
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内藤以貫の墓(住吉台5丁目) - 「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに
大満寺から300メートルほど西よりの457号線に「内藤以貫の墓」の表示板が、向いの角には案内の石... 大満寺から300メートルほど西よりの457号線に「内藤以貫の墓」の表示板が、向いの角には案内の石柱が立っている。 内藤以貫は長州(現:山口県)に生まれ、二代藩主伊達忠宗公の招きで来仙、藩の儒者(倫理・道徳を説く政治家)として仕え、忠宗公や三代藩主伊達綱宗公の侍講(先生)となった。 読書を好み、文武両道に秀で、温厚な人格で、礼儀礼節を備えた人物といわれている。 陽明学の流れをくむ儒学者で『貞山公年譜』『義山公年譜』を作成した。 漢詩を得意とし弟子の須藤知平の編集による『閑斎詩集』として残されている。 書道家としても有名で、日清戦争の戦後処理として明治18年春、伊藤博文が全権大使として中国に赴いた際、清国代表の政治家「李鴻章」によって以貫の書を絶賛し所望されたことから、以来評価が高まり珍重された。 晩年、白石山房(西田中松下:現住吉台東五丁目)に住み、元禄5年(1692年)10月21日没、享年