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■ - jun-jun1965の日記
『比較文學研究』八十二号(2003)の、ヨコタ村上孝之氏の論文「恋と遊び−−ドン・ファンあるいは色... 『比較文學研究』八十二号(2003)の、ヨコタ村上孝之氏の論文「恋と遊び−−ドン・ファンあるいは色男」の注7は、全体として私への反論になっているが、その中に「ガダマー流の解釈学にたって考えれば、ある文化はいつも二つの異なるパラダイムの対話としてしか表象されえない」と書いてある。ところが、私は今なお、「ガダマー流の解釈学」が何のことだか分からないし、だからヨコタ村上氏(以下、YM氏とする)の言おうとしていることを理解することができないのである。なぜなら、YM氏がここで、「ガダマー流の解釈学」なるものの典拠を示していないからである。論文末尾には、引用・参考文献一覧が付いているが、そこにも「ガダマー流の解釈学」を想起させるものはない。いったい、「ガダマー流の解釈学」とは何か? 恐らく、「ガダマー」というのは、近頃百歳を越えて没したドイツの学者の名であろう。しかし、「デカルトのコギト」とか「フロイ