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大谷翔平
ohmura-study.net
日本刀は「折り返し鍛錬するから強靱になる」と言われ続けて来た。これは科学的には全く根拠がない。 原始製錬で生まれた塊鉄はそのままでは使えず、折り返し打撃して非金属介在物を絞り出すのが世界的な手法だった(手動精錬)。 欧米では" Forge (フォージ)"と言い、普通は塊鉄を加熱後、ハンマーなどで打撃して介在物を除去して成型することを意味する。 Forge は単に不純物を除去(一部炭素量の調整)する作業で、「鍛錬」又は「鍛える」という概念は一切無い。 折り返し鉄を叩く行為は、それで鉄が強くなるような内容ではないからである。(英和辞典: 鍛錬 = Forging. Forge) 「折り返し打撃作業」の意味を知らなかった日本では、この作業を「折り返し鍛錬」・「鍛える」と呼称するようになった。 これらの言葉を" Training "と英語に直訳したら、西欧の製錬・精錬の専門家達は「意味不明」として
日本刀の機能を端的に表わす俗語が「折れず、曲がらず、良く切れる」である。折れず、曲がらずとは願望であって、そんな刀は存在 しない。正しい表現は「折れ易からず、曲がり易からず、良く切れる」である。 陸軍少将・村田経芳が、標語通りの明快な優先順位※1を示した。折れ易からず、曲がり易からずの要素は相反する。 刀剣関係書やWebでは「軟らかい心鉄を硬い皮鉄で包む構造※2は世界に例のない日本刀独特の高度な技術」と賛美する。 この心鉄構造は二枚鍛え、合わせ、マクリ、甲伏、三枚、四方詰め等様々に呼ばれている※3。 無節操な御用学者も追従して、これが日本刀の絶対条件と錯覚された。 その為に、丸鍛え(無垢鍛え、一枚鍛え)は蔑視され続けて来た。 これは鋼材に就いても同様である。 ところが、日本刀は玉鋼を使って心鉄を皮鉄で包む構造になった為に劣化したのである。(刀匠と刀身の個体差を無視しての一般論) 天文、或は
日本刀と云えば「玉鋼、折り返し鍛錬、皮・心鉄構造」という偏った常識が大手を振って歩いている そこで、この三大要素に就いての考察を試み、日本刀の実質に関する俗説の誤りを糺(ただ)したい 『 戦後の作刀は、云うまでもなく美術品を主眼にしてきた。武器としてではなく、 見て美しい物を作る、古名刀を研究して現代に相応しい作品に仕上げるというのが 一貫した目標であった。然し、根本的な処で誤っていないだろうかと時折考える。 それは「美術品を作る」という事に関してである。 誤解されると困るが、今時「武器を作れ」といっているのでは無い。 日本刀が武器として出発し、発達してきたものであり、その結果として美術性を 備えてきたことを考えると、現代刀の原点も「美術品」ではなく「武器」に置か なくてはならないだろうと思う。 ・・・その理由を研ぎの観点から例を上げて具体的に述べられている(略)・・・・ 仮に古刀の再現を
刀 身 構 造 の 解 明 地刃、体配などの外見上の情報は世の中に横溢しているが、刀身の構造、強度に関する刀身の実質内容は殆ど解明されていなかった。 その理由は、研究の為に試料(刀身)の破壊が不可避であり、その為に経費、歴史遺産の保全の観点から試料確保が困難であった。 加えて、鉄の芸術と讃えながらも刀身の実質に関心を寄せる金属、冶金科学者が極めて少なかったことに因る。 一方、市井の日本刀研究家、刀匠、研師として刀身を破断して独自に研究された方達は、本格的検査・分析装置が個人で手軽に利用 できない為に、残念乍ら散文的観察に止まっていた。 日本刀の実質に関する科学的分析の嚆矢(こうし)は明治39年~大正13年の東京帝大・俵國一博士であり、次いで昭和4年の京都帝大理学 部近重研究室・足田輝雄講師の刀身断面のスケッチ図である。これは近重眞澄著「東洋錬金術」に収録された。 この時代の刀身組織観察は光
興亜一心刀 The whole aspect of the Koa Issin sword 昭和14年7月25日、南満洲鉄道株式会社大連鉄道工場刀剣製作所によって発行された「興亜一心」とい う満鉄刀の解説書が発掘された。 試作後の初期には「満鉄刀」と呼称されたが、昭和14年、松岡総裁により「興亞一心刀」と命名された。 表紙の揮毫(きごう)は満鉄総裁を務めた松岡洋右(後の外務大臣)の手になるもので、茎銘に類似字体が切ら れた。 昭和14年春以降は「興亜一心刀」が正式名称である事がこの資料で明らかになった。 日本刀を分析し、近代科学の力を駆使して、従来の日本刀を凌駕(りょうが)する性能の刀身を安定的品質 で、且つ大量的に生産した処に「興亜一心刀」の真髄がある。 満鉄の威信を賭けたこの刀身の実態は、世上の俗説を一掃することになった。 この満鉄刀の実態は、「日本刀とは何か」という問題を我々に投げ掛
戦 ふ 日 本 刀 刀剣界でよく知られ評価の高い「正宗」 (安政二年本阿彌家折り紙付き)があり、その刀は最初の一撃で曲がった。 正宗を祖とする相州物は柔軟に過ぎる共通の欠点があり何れもよく曲がった。 正宗が大衆に名高くなったのは足利中期から徳川時代にかけてであって、その裏面には、政治的営利的様々な手段を操る一種の特権 が手伝って意図的に名を高からしめたとするのが正しい。(正宗に限った事ではない) 世間に知られる名刀の大部分は実用性より鑑賞用美術品として尊重されてきた傾きの方が多い。 世の刀剣鑑識家の刀の利鈍位列番付が実にいい加減なものであった事を、戦場の実際にあたって見てつくづく感じた。 所詮刀剣家が心酔するような“信”は自分は最早持ち得ない。 軍人が命を託す軍刀の適否を、美術骨董品の領域に居る刀剣鑑識家が選定するという事は如何なものか。 良刀・業物と称する刀は幾多の実戦結果の選定ではなく
日本での製鉄の説明は砂鉄を使ったタタラ製錬が全てと言っても過言ではないだろう。 別章※で述べたが、原始的製錬では世界的に湖沼鉄(褐鉄鉱)が使われていた。(※ 異説・たたら製鉄と日本刀を参照されたい) この湖沼鉄は日本でも広く分布し、日本の原始精練にこれが使われた可能性があった。ただ、炉跡が残り難い為に、考古学では全く 無視されてきた。 今般、市井の研究者が湖沼鉄の一種のリモナイトの製鉄実験を繰り返して軟鉄の析出に成功し、鉄鏃、刀子の製作も実証された。 国内では、複数の研究者が湖沼鉄製錬にチャレンジしたものの、鉄器の製作まで実証した例は希有である。 未だ課題を残すが、ヨーロッパの例からしても、日本での湖沼鉄製錬の可能性を示唆した意味は大きい。 今後、遺跡の発掘に際し、褐鉄鉱、赤鉄鉱の遺物を考察する際、湖沼鉄製錬を意識する必要があるように思われる。 1 古 代 製 鉄 原 料 と し て の
新刀以降、刀匠の目標は古刀の再現にあったと言っても過言ではない。 戦後、一貫して古刀を探究した天田昭次刀匠(人間国宝)は、著書「鉄と日本刀」の中で 栗原彦三郎昭秀の同門だった宮入昭平刀匠(人間国宝)に触れ、「古刀を目指した宮入刀 匠の作刀結果は、その目標とは裏腹に次第に古刀から遠のいて行った」と述べている。 天田刀匠自身も、古刀は未だ遙か彼方にあると述懐している。 刀匠の頂きに昇り詰めた刀匠達を以てしても、古刀に到達することができなかった。 筆者は「日本刀の地鉄」の項で、天田刀匠の意外な側面を指摘した。 天田刀匠が、古刀には丸鍛え※1が多く、心鉄が刀の機能を阻害することなどを晩年ま で知らなかった事実である。これが刀剣界の実態を表している。 心鉄の矛盾は柴田刀匠や研究家達が指摘し、恩師の栗原昭秀も一枚鍛えの史実を明らか にしていた。 戦後の美術刀に関して、永山光幹師(人間国宝)は、新々刀の
能の名曲「杜若」 旅の僧が一夜見た夢は、うら若き女人に化身した杜若(かきつばた)の花の精の舞だった 在原業平(ありわらのなりひら) の形見の冠を戴き、業平と契りを結んだ二条の后(きさき) 高子の衣を纏う 男装と女装が混沌とした幽玄の世界だが、太刀を佩く姿に何の違和感もない。刀剣は日本文化の中に自然に溶け込んでいた 1 日本刀 日本刀について(史実と神話) 折り返し鍛錬と強度 南蛮鉄・洋鉄考 東郷ハガネと羽山円真 日本刀の地鉄 中世地鉄は銑鉄 日本刀の刀身構造 名刀とは何か 日本刀の常識を糺す 戦時下 刀都・関 点描 斬鉄剣・小林康宏 斬鉄剣の検証 康宏刀匠の遺作刀 (無言の問いかけ) 豪刀・同田貫 日本刀地鉄が慶長期に変化した要因 (藁灰・粘土汁釉薬の渡来) 電解鉄刀 水戸の豪刀・勝村徳勝の刀身構造 居合い斬道家に聞く 鏡新明智流士学館 免許皆伝資料・縁故の刀剣
古代、大陸・朝鮮半島から鉄製品が渡来した。弥生後期の紀元1世紀頃、鉄素材が渡来して倭国(北部九州)で鍛冶が始まった。 4~7世紀、鍛冶工が組織的に渡来して、新たな製鉄技術と刃金技術が伝来した。 紀元663年、倭軍は朝鮮半島・白村江(はくすきのえ)の戦いで敗北し、鉄の国産化を迫られた。 国内各地に原始製鉄が勃興したとみられる※1。 鉄鉱石製鉄が筑前、吉備、近江地方で先行し、砂鉄製鉄は7世紀初頭頃に出現した。 国産直刀の「剣」の時代を経て、関東以北で舞草刀が生まれ、奥羽戦争の経験から平安中期に湾曲した刀身の「太刀」が出現する。 一時期途絶していた鉄の交易再開に依り、平安時代の箱型製鉄炉遺跡の数は、奈良時代の五分の一まで激減した※。 平清盛の時代、対宋貿易が隆盛を極めた時代が永く続く。 鎌倉時代の太刀黄金期を経て、室町時代の戦法変化で太刀は「打ち刀」に移行した。 南北朝~戦国期にかけて倭寇による
不動明王座像 降魔の大慧刀(だいえとう)と羂索(けんじゃく)を手に、辟邪と守護を司る大日如来の内証から顕れた使者 光背は煩悩を焼き尽す迦樓羅炎(かるらえん)。古代では、国家安泰の守護神・武神・軍神ともされた (滋賀県・善水寺所蔵 平安時代)
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