フリーティケットシアター全サービス終了 誠に勝手ながら、「フリーティケットシアター」のサービス提供を 2016年3月31日をもちまして終了させていただきました。 これまで長らくご愛顧を賜り、誠にありがとうございました。 http://www.freett.com/
発信基地 寄稿のお願い ポントルモ文学書斎では、皆さんの寄稿をお待ちしています。写真などありましたら添付して送信して下さい。楽しい原稿をお待ちしています。送信はPontormoからどうぞ。 詩を語ろうとしています。 坪内逍遥の『小説真髄』を近代文学の基点とすると、1885年のことですから終戦の1945年までは60年です。そして、今年がちょうど戦後60年。なんと近代文学と現代文学が同じタイムスパンとなっているのですね。戦後の文学が、夏目漱石や森鴎外、あるいは与謝野晶子や正岡子規の時代と同じ長さにあるというのは、なんとも不思議な気がします。 私が大学生の頃、文学といえば、まだまだ近代を引きずっていました。それはそうですよね。老教授の中には坪内先生、島村先生とまではいかなくても、その後継者の教えを直接受けた人たちが生き残っていたわけですから。同時にベトナム以降の強い現代文学の潮流が起こり始めてい
Jポップは、近代詩を歌う。 二○○○年になり現代詩はいまだ、大衆からは孤立している。これは、きっと事実であろうが、私は、詩が大衆化することを望んでいるわけではない。詩の言葉は、既成の言葉のあらゆる規制や概念を壊し「新しい言葉の姿」を時代に提示してこその前衛であろうと確信しているし、そのために大衆という視点からすれば難解で、ある種熱狂する言葉の姿を見せざるを得ないのだから。そう易々と、時代や大衆に作品という身を投げ出すようなことはしたくない。市場を開くためには、もちろん難解であることは、マイナス要素であるが「難解である」こともまた、ひとつの批評的な反応であり、ただ「わかりやすい倫理観」を語って双手を挙げて称賛されはするが批評の余地すら生じない詩など、無用であると信じている。だがしかし、自らが書いた詩が、大衆の中で流通することを夢見ることもある。たとえば、流行歌にでもなって街にその詩があふれだ
2010.11.29: 商人 谷川雁 2010.11.22:他人の空 飯島耕一 2010.11.15:ちひさな群への挨拶 吉本隆明 2010.11.08:くらげの唄 金子光晴 2010.10.04:花々 安東次男 2010.09.27:野薔薇のとげなど 永瀬清子 2010.09.13:夕映 三好豊一郎 2010.08.30:ニッパ椰子の唄 金子光晴 2010.08.23:蛾 1 金子光晴 2010.08.09:落下傘 金子光晴 2010.07.26:都会の慰め 伊東静雄 2010.07.19:旅人かへらず 西脇順三郎 2010.07.12:勾配 森川義信 2010.07.05:死んだ男 鮎川信夫 2010.06.28:センチメンタル・ジャーニー 北村太郎 2010.06.21 :(お天気の日の海の沖では)中原中也 2010.06.14:おやしらず 秋山清 201
前回の記事で採り上げた『日本の詩歌28 訳詩集』(1969年)から25年後に発行された、 『近代の詩人 別巻 訳詩集』(編:加藤周一 1996年潮出版社刊)に 新たに収録された訳詩集は、加藤周一が選定で大いに教示を受けた 谷川俊太郎編『愛の詩集』をはじめ、 『中原中也全訳詩集』、鈴木信太郎訳『ヴィヨン全詩集』『悪の華』 そして、福永武彦『象牙集』。 福永武彦といえば『芸術の慰め』という芸術評論の名著*1もあるが、 この訳詩集『象牙集』で用いられる言葉達も美しい。 羊毛よ、うなじにまでうねり行く波! おお巻毛よ、懶惰(らんだ)の想ひにみちた匂! この恍惚! 遠い日に眠る思ひ出を編み、 小暗い臥床(ふしど)を埋めるために、今宵 ハンカチのやうに宙に振らうか、お前の髪! ものういアジアよ、燃えあがるアフリカよ、 すべての遠い、不在の、殆んど死に絶えた世界は お前の深みのうちに生きる、おお匂の森よ
12/31〜1/2の3日間WEBにログインせず、フランス象徴詩を読み返していた。*1といっても、以前時代を一新した仏蘭西近代詩の翻訳詩集3冊に書いた4冊(1905年上田敏「海潮音」、1913年永井荷風「珊瑚集」、1925年堀口大学「月下の一群」、窪田般彌「フランス詩大系」)ではなく、井上究一郎*2の1999年小沢書店初版の「訳詩集 シテールへの旅」だ。id:sbiacoさんが「訳詩についての雑感」の中で「天性の詩人とはヴェルレーヌのような人のこと。(中略)上田敏流の盆栽か箱庭みたいな訳詩は、後天的な詩人に対してはやってもかまわないと思いますが、天性の詩人に対してやるのは労多くして得るところは少ない、というかはっきりいって冒涜に近いものがあります。」と書いていたが、それに同意しつつも、ヴェルレーヌの埋もれた名詩に触れる機会を与えられたことに感謝している。世界初(?)の「失われた時を求めて」個
■ 日本の近代詩の歴史 (新体詩の誕生から現代詩以前の時代) 日本に於いて、こんにちの「詩」という言葉は元来、漢詩を意味していた。1882年に官学者の外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎が『新体詩抄』を啓蒙の一端として出版したものが、近代詩のはじまりである。こうして「新体詩」とよばれる新しい韻律の試みが盛行しはじめる。 近代的な詩精神と感受性に於いて、小説史上での坪内逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』に相当する最初の成果が1889年の北村透谷の『楚因之詩』及び同年の森鷗外ら新声社による訳詩集『於母影』である。しかし、近代小説の生誕を明確に告知した二葉亭四迷『浮雲』に相当するような近代詩を完全に具現する作品の誕生までには、1897年の島崎藤村『若菜集』を待たなければならなかった。七五調を中心とする新体詩形式の拘束とそれに対応する古風な詩語とによってのみ、はじめて自由に流露することのできる極めて日
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く