ユリイカ 2008年6月号 特集*マンガ批評の新展開 青土社 2008-05-26 売り上げランキング : 1538 Amazonで詳しく見る by G-Tools 二週間ほど前に発売されたこの号ですが、重い腰を上げてちょっとフォロー的な記事を書いてみようと思います。 とりあえず、特集内における自分(=泉信行)の仕事について触れてから、他の特集全体について、んで最後に「表現論/反映論」問題について言及しようと思います。 しかしそれにしても……。 目次を確認した時からまさかと思ったけど、『漫画をめくる冒険』がらみの鼎談と記事を特集のアタマに持ってくる編集部はアヴァンギャルドすぎる(笑)。 最初に企画を聞かされた時点では、伊藤剛さんのパリ行きがメインで、ウチがサブだと聞いていたのに……。 Lilmagの野中モモさんも http://blog.lilmag.org/?eid=414890 そのユ
先日、SFマガジン6月号で連載が終了した宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて一気読みした。彼の展開する議論には、僕にとって賛同できるいくつかの部分と、そうでないいくつかの部分がある。それについて、まず一点を僕が思う状況を整理しながら考えてみたい。 彼の主張は、まず「90年代の『引きこもり』」があり、2000年代前半に「エヴァ」的感性の延長線上、あるいは残滓であるセカイ系があり、そしてゼロ年代においては 社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築しようといこうとする という、「DEATH NOTE」の夜神月に象徴される「決断主義」が来るという一連のフィクションの流れがあったという。 僕は現在、彼の言う「決断主義」のようなものがゼロ年代のフィクションとして大きく特徴付けられるという主張に異論がない(なお参考までに記しておくと、彼の主張は
日頃より楽天のサービスをご利用いただきましてありがとうございます。 サービスをご利用いただいておりますところ大変申し訳ございませんが、現在、緊急メンテナンスを行わせていただいております。 お客様には、緊急のメンテナンスにより、ご迷惑をおかけしており、誠に申し訳ございません。 メンテナンスが終了次第、サービスを復旧いたしますので、 今しばらくお待ちいただけますよう、お願い申し上げます。
ブログ パスワード認証 閲覧するには管理人が設定した パスワードの入力が必要です。 管理人からのメッセージ 閲覧パスワード Copyright © since 1999 FC2 inc. All Rights Reserved.
岡田斗司夫さんの『オタクはすでに死んでいる』。僕は発売直後に読み、ふつうに納得してそれで終わったのですが、さっきちょっと気になってネットを調べてみたら予想外に否定的――というかむしろ嘲笑的――な反応が多くて驚きました。そんな簡単にバカにしていいんでしょうか。 僕の印象では、ネットの評判は「オタクは死んだというが、それは岡田の思いこみで、いまでもオタクはいるし、これからもオタクは生き続けるだろう」というひとと、「岡田が言うように昔ながらのコアなオタクが死んだとして、だからどうだというのだ」というひとに大きく分かれています。けれども、それはどちらも浅い主張だと思います。 そもそも、なぜ論壇はオタクに惹かれるのか。いろいろな側面はあると思いますが、いちばん単純な理由は戦後の問題です。東浩紀さんがずっと言っているように、オタクというのは戦後日本の価値を凝縮し、かつ大きくねじ曲げた文化階層として
倉科遼問題。 それは、だれもあまり問題にしてないが恐ろしい問題である。 過去にも何回か問題にしてきたが、どうせブログの過去ログなんてみんな読みやしないだろうから、繰り返し書くことにする。 ・その1 以前、某大御所マンガ評論家(っていうか、呉智英だったかな?)が「倉科遼のような、一般人が読むようなマンガを評論家はもっと評価すべきではないか」というようなことを言っていた。 それに対する、ネット上での「今頃倉科遼とか言ってるけど、そこら辺の人でも普通に読んでるし、そもそも『評価されてない』ってだれに評価されてないってこと?」という反論めいたテキストを読んだことがある。 ここにはいろいろな問題が含まれている。たとえば、マンガ評論家が必ずしも優れたレビュアーとして機能しきれていないという現実があることをまず、表している。 優れたレビュアーとして機能していれば、それがいい意味で「権威」となり、「倉科遼
賃貸暮らしのわが家の地震対策【揺れから命を守る編】 以前のブログでも記載した、防災の優先順位に基づいて対策を進めています。まだ手をつけられていない部分もありますが、ある程度まとまってきたのでざっくりとご紹介していきます。 優先順位別に改善していっているため、今回は主に地震の揺れ対策がメインになります。…
概要 NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本 『思想地図(vol.1)』は、NHKブックス別館から新創刊された雑誌*1だ。帯に「<知>の最前線」「ゼロ年代のアカデミズム」と書いてあるように、本格派の言論誌である。「性急な処方箋」ではなく「抽象的思考」によって、思想に取り組むという方針なので、かなり読み応えがあるが、人文系や社会学や思想の動向に関心があるなら読んでおきたい。 共同討議「国家・暴力・ナショナリズム」前半 密度が濃く全体を代表している、冒頭の共同討議「国家・暴力・ナショナリズム」を見てみよう。 まず北田暁大氏が、「社会構成主義(社会構築主義)」の議論平面からの離脱という、議論の出発点を提示する。単に国民国家の共同幻想性を指摘するのではなく、むしろ幻想に還元できない機能を認識し、現代のリアルな国家論を展開しようという問題提起だ。 白井聡氏は、フォーディズム以後のポスト
原稿に四苦八苦していて、更新が滞ってました。すみません…。 『思想地図』ですが、うちの大学の本屋には人文系新刊、NHKブックス、思想系の棚、それぞれに2〜30冊くらいがどどんと陳列されており、今週の月曜日に指折り数えてみると83冊もありました。あのオレンジが人文の棚を食いつぶしている光景は、なかなか壮観、というか率直に言ってシュールです(笑)。皆さん買って下さい… で、僕の原稿ですが、ある程度予想していたこととはいえ、ポジティヴな反応は限りなくゼロに近いですね。たぶんテーマが「台湾のラノベ」とかいう時点で、70%くらいの読者は脱落してるんじゃないかと思う。しかも、政治については何も語っていないので、いまの中国のホットな話題とも全然繋がっていない。ついでに、同業者からはくだらない批判メールが来る。まぁ冷静に考えれば、九把刀なんて名前の読み方もわからない謎の台湾人とか(現地では「ジウバーダ
円堂都司昭 評論集『「謎」の解像度(レゾリューション) ウェブ時代の本格ミステリ』−−見出し一覧 (略称:なぞレゾ) *スペースや制作進行の都合上、本の目次に細かい見出しまで載せられなかったので、ここに紹介しておきます。 はじめに プロローグ 基本感情 現実への抗いとしてのミステリ――有栖川有栖 合理と不合理を腑分けする手つき/現実に一泡ふかせるために/「ペルシャ猫の謎」『幻想運河』での逸脱/答えてくれないものへの問い/江神二郎というキャラクター/探偵という存在 I.場所 シングル・ルームとテーマパーク――綾辻行人1 Mの密室とディズニーランド/大邸宅と1DK/家族の解体と個室/子ども部屋の誕生/シングル・ライフの確立/ウォークマンと犯人のモノローグ/「館」とテーマパーク/ドストエフスキー、『哲学者の密室』/ダーク・ライドと叙述トリック/「館」という人格の完成/個室からストリートへ プラ
1月22日に行われたシンポジウムのまとめ。当日のメモを元にした主観からのまとめであるため、発言者の意図を完全にくんでいるわけではないことをご了承ください。オフィシャルな議論のテクストは、『思想地図』に掲載されると思われるので、この議論に興味を持たれた方はそちらを購入しましょう。 第一部:報告編 東 『思想地図』創刊にあたって考えていたこと。思想は政治性を持たなければならない。95年以降、思想が具体的な実効性を問われる言葉に縮減していったと認識している。だが思弁的な言葉で考えてもいいはず、そういうものを取り戻したい。現実との繋がりは「あればいい」けど、ことさらに強調する必要はない。ほかの論壇誌ではできない、抽象的だけど具体的な思考を載せていきたい。 「日本」と「国家」というのは、どっちも生活に関わるものでありながら抽象的なテーマ。まずはそれぞれの報告を経て、ディスカッションを行う。会場からの
批評家ならぬ雑文家が、批評について考えてみる「2008-01-17 - 研究会日乗」の続き。きょうは、「批評不要論」の存在について。 僕はむかしから、日本のオタク作品のすばらしさに対し、それについて語る言葉の貧困さに苛立ってきた。批評や評論というと、オタクには顔をしかめるひとが多い。「そもそも評論って必要なの?」と問うひとも多い。そういう人々は、評論についてなにか勘違いをしている。*1 私の守備範囲である推理小説の領域では、哲学的な用語で作品を分析したり、潜在する問題性を読み取ろうとする批評は、しばしば内容の当否以前に感情的な反発にさらされる。理由のひとつは、推理小説が明確な目的意識に沿って技巧的かつ自己完結的に書かれているという一種無邪気な信念だろう。トリックは読者を騙す目的で書かれたのだから、作者が意図していない「哲学的」意味をトリックに読み込むのは見当外れだ、という具合だ。これに自分
本書は、グラモフォン(蓄音機)、フィルム(映画)、タイプライターというテクノロジーが、いかにメディアに影響を与えるか、広く言えば人間の精神活動に影響を与えるかを、ラカンの理論等を用いながら具体的に例証してゆく本である。 たとえば手書きの文章と、キーボードで打った文章と、携帯電話で入力した文章は、同じ人が書いてもかなり違うものとなるし、入力ソフトウェアや出力される形式によってもまた変わってくるだろう。そんなことはクドクド説明しなくたって、ブログをせこせこ更新し、さまざまなwebサービスを使っている我々が今一番身にしみて感じていることではないだろうか。 その割にはテクノロジーの進化がメディア(例えば文学)などにいかなる影響を与えているのかを問うている論考というのは意外なほど少ない。ややもすれば精神主義の立場をとる人から叩かれるほどだ。 さてそんな議論を展開するキットラーだが、大いなる先人マクル
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く