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明清の検索結果1 - 3 件 / 3件

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明清に関するエントリは3件あります。 japanhistorychina などが関連タグです。 人気エントリには 『月イチ連載「山本一郎の#台湾の件」第2回:長崎平戸に生まれた鄭成功と明清交代に見る台湾史への憧憬 - The News Lens Japan|ザ・ニュースレンズ・ ジャパン』などがあります。
  • 月イチ連載「山本一郎の#台湾の件」第2回:長崎平戸に生まれた鄭成功と明清交代に見る台湾史への憧憬 - The News Lens Japan|ザ・ニュースレンズ・ ジャパン

    1973年東京都生まれ。1996年慶應義塾大学法学部政治学科卒業、新潟大学大学院現代社会文化研究科在籍。社会調査を専門とし、東京大学政策ビジョン研究センター(現・未来ビジョン研究センター)客員研究員を経て、一般財団法人情報法制研究所上席研究員、一般社団法人次世代基盤政策研究所理事。著書に『読書で賢く生きる。』(ベスト新書、共著)、『ニッポンの個人情報』(翔泳社、共著)など。ブロガーとしても著名。 東アジアの歴史の立役者台湾を語る際に、日本人としてどうしても視野に入ってくるのは鄭成功が彩ったわずか22年の鄭氏政権であります。いまの長崎県平戸市の貿易商の娘さん・田川マツさんと海賊・海将の鄭芝龍との間に生まれた鄭成功(1624–1662年)が歩んだ歴史が、実はこんにちの台湾の国家としての原形を作ったんだよという話は歴史が紡ぐロマンを感じさせるんですよね。 明朝末期、騒乱のさなかで最終的には明は滅

      月イチ連載「山本一郎の#台湾の件」第2回:長崎平戸に生まれた鄭成功と明清交代に見る台湾史への憧憬 - The News Lens Japan|ザ・ニュースレンズ・ ジャパン
    • 中国の王朝(殷・周・秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国)と日本|shun_ei

      中国を統治した王朝、政府を概観すると次のようにまとめられます。 夏 :最古の王朝だとされています。 殷  :殷墟(いんきょ)、青銅器、甲骨文字を残しました。 周 :前1100頃~前256 封建制度で中国北部を統治しました。 ・春秋時代 前770~前403 周が衰え、諸侯が争った時代です。 ・戦国時代 前403~前221 七国(韓・魏・趙・斉・秦・楚・燕)が争った時代です。 秦 :前221~前206 始皇帝が中国を統一しました。貨幣や文字を統一し、万里の長城を築きました。 漢(前漢) :前202~後8 劉邦が項羽を倒して建国しました。武帝のときに儒教を国教としました。 新 :後8~23 王莽が前漢を乗っ取った王朝です。 漢(後漢) :25~220 光武帝が漢王朝を再興しました。 ・三国時代 :220~280 曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀が争った時代です。 ・・魏 :220~265 蜀を滅ぼし

        中国の王朝(殷・周・秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国)と日本|shun_ei
      • なぜ薩摩藩は琉球を攻めたのか?~明・清との関係と貿易利益

        幕府の威光として利用された琉球 江戸時代になると、薩摩藩は琉球支配を強化するために、強硬な手段に出ます。慶長7年(1602)冬、島津氏は、幕府の命令で奥州の伊達政宗領に漂着した琉球人を琉球に帰しました。ところが琉球が、そのお礼の使者を出さないという理由で、慶長14年(1609)、幕府に琉球国への軍事行動の許可を願う事態になったのです。 理由は何でもよかったのでしょう。薩摩はどうしても琉球国を手に入れたかったようです。 というのも、関ヶ原の戦いに西軍として参戦して家康と対立した島津氏は、後年、許されて江戸幕府の下に入ることになったものの、敗戦による痛手は大きく、藩財政立て直しのために、琉球の貿易利権に目を付けていたからです。 薩摩に琉球出兵を嘆願された幕府としても、秀吉が行った対外戦争の負の遺産を何とかしたいという思惑がありました。このときはまだ、名目上、明との戦争が続いている状態でした。

          なぜ薩摩藩は琉球を攻めたのか?~明・清との関係と貿易利益
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