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![TechCrunch Japanese アーカイブ � オーストラリア政府、表現の自由を児童ポルノと同一視](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/92584d6251feb0822f349cf0211361b2833c9939/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Ftechcrunch.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2018%2F04%2Ftc-logo-2018-square-reverse2x.png)
前の前の記事:実際に性犯罪が増えるか減るかは(あまり)問題じゃないんだってば - Chambre Resonnante 続きです。 挙証責任と悪魔の証明 kilrey 社会, リテラシ 逆逆。ポルノグラフィー規制論者が"女性に対する偏見・ステレオタイプを惹起する"ことを立証しないとダメよ。 LivingWrong 悪魔の証明, ジェンダー, 人権 現状認識としては正しいと思うが、id:kilrey氏がブコメしているように、立証を行うべきなのは規制をかけようとする側だと思う。「女性に対する偏見・ステレオタイプを惹起しない」ことの立証ってまるで悪魔の証明だよ。 いや実は、記事を書きながら「これって挙証責任は規制論者にあるんだよなあ……」とは思ったんです。ただ、挙証責任は向こうにあるんだよ〜と言うだけでは却って反規制論者の不利になる予感がしたので、あえて書きました。というのも、挙証責任について正
タイトルは半分だけ釣りです。 まず、私は誰の味方なのか? 自分でもわかりません。ただ、色々な人の主張における論点の食い違いを明らかにしたいと願う者です。 「性犯罪の数」だけが評価基準? YOMIURI ONLINEの記事に対するブックマークコメントでも何件か見られたのが「実際の性犯罪の件数が少なければいいじゃないかメソッド」。例として一件引用させていただく。 cubed-l エロゲ, 性 実際に罪を犯さない限りどのような嗜好でも自由であって欲しいな/正直この手のは広告ですら見たくはないけど、こういう嗜好を持つことそのものが犯罪のような言われようには違和感を感じる 2009/05/08 心情的には、私もb:id:cubed-lさんの意見に賛同したいところなんだけれども、おそらくこれではEquality Nowのような人たちとは議論がかみ合わないであろう。 昨日翻訳した声明をもう一度見てみよう
前の記事実際に性犯罪が増えるか減るかは(あまり)問題じゃないんだってば - Chambre Resonnante こんなにたくさんブクマしてもらったの初めてなので舞い上がってます。ブクマコメントからピックアップさせていただきます。 繰り返す:私は誰の味方なのか? よくわかりません。ただ、ずれた議論があればその原因を探りたいし、より合理的な議論に至りたいと願う者です。 「なぜエロゲだけが」の問題点 erya それ殺人ゲームにも全く同じことが言えることじゃないの?人を殺すような描写→人の命を軽視する→スパイラル metalbabble これはひどい その理屈だとありとあらゆる暴力表現に言える モンスターを狩る事は差別に繋がる? 食事シーンにすら文句が言える訳だが kaionji 性 その論理で行くと推理物は全滅しちゃうんじゃないのかな。性犯罪だけが駄目なのかな。 2005年に神奈川県が「GTA
何か女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせるゲームが問題になってるらしいんだが。 前にも書いたけど、もう一遍書いておく。お前らは地下に潜るべきなんだよ。「ひでえゲーム」と話を振られたら「ほんとひでえよな、よくそんなのやるよ」と呆れてみせながら腹の探り合い、で、家に帰って部屋に籠ってからこっそりやるべきなんだよ。表ででかい声出すんじゃない。恥ずかしいな。何で人目に触れない世界でひっそりと繁栄できないんだ? どうしてまともな世の中に受け入れて貰いたがるんだ? そういうもんじゃないだろ、そもそも。 と言う訳で、官憲には徹底した弾圧を望む。連中、ちょっと揉んでやった方がいい。何かと言うと「表現の自由が」「表現の自由が」って黄色い声張り上げやがって。市場と法律に守られないとエロひとつできんのか。違法なのは恐いっ、無法地帯で怪しいぽん引きみたいな奴を探さないと買えないとかいうの恐いっ、時々中何にも入って
二つほど。 問題は「性暴力を助長する」ではなく「性暴力そのもの」 問題は、性表現一般ではないし、性暴力一般でさえなく、とりあえずは、性暴力を肯定する表現です。性暴力とそうでないものの境界が曖昧だとしても、問題になっているのは曖昧な事例ではなく、規制派も反対派も「性暴力の肯定的表現」と認識しているものです。そのような表現を、性暴力被害者に対して今なおセカンドレイプ的言説が繰り返される社会において流通させることの問題です。 で、表現は、表現であると同時に、直接の脅迫でありえます。わからないようだからハッキリ言いますが、「性暴力を助長するかもしれない」じゃなくて、それ自体が性暴力なんですよ。レイプが、身体の自由に対する直接の侵害であることは説明の必要はありません。では、脅迫はどうか。脅迫は、身体の自由に対する侵害の予告であって、侵害自体ではありません。しかし、侵害の予告をもって実際の行動の自由を
昨日の記事に付け加えることはあまりないのだけど、「読み解く」のは難しいのでしょう。同じ事を別様に言うというのは嫌いじゃないので、書いておく。 僕は「愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし」の述べているのだが、重要なのは前半の条件節の方。脚注でも述べているように、ここまでラディカル・フェミニズムをなぞって論を立てても、規制に100%賛成するわけではないのだ。僕は、どちらかと言えば、原則論的な「言論の自由」信奉者だ。規制には「最大限」反対。100%ではないけどね。 性も、性暴力も、暴力も、差別も、殺人も、その他どんなものであれ、表現の対象にしうる。表現したらいい。表現の内容は問題にしうる。問題にしたらいい。表現も、表現を問題にする言説も、原則としては、言論の自由という土俵の上で互いにぶつかり合うことができ、それを通じて、私たちの認識は磨かれる。それでこそ「言論の自由市場
女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制が主張されていることに対して、「表現の自由」の名の元に「規制まかりならぬ」などと言う輩がいるらしい。笑うべき論、と思う。 この件に関して、佐藤亜紀氏が6月3日付の日記で述べている次の内容は重要だと思われる。 『悪魔の詩』がそういう(注意:ムスリムは表現の自由を圧殺する、というプロパガンダの)トポスにならずに済む機会が、少なくとも一度はあった、と私は考えている――冗談みたいな話だが、在英ムスリム団体があの本に冒涜罪を適用するようにと当局に訴えた瞬間がそれだ。逆説的だが、もしイギリスの法廷が、冒涜罪は国教会とその首長である女王に対する冒涜に対してのみ適用される、などという固いことを言わずにラシュディ氏を召喚していたら(かつ、表現の自由が、とか言わずに、悪意の有無を徹底して追及していたら)、ラシュディ氏はむかつきながらも西と東の狭間に立つ
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