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円安とは
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煙をモクモクあげながら、接近してくる黒船――。 蒸気船には強力な大砲が備わっていて、強引に開国を迫るペリーら外国人たちは非常に威圧的な印象を受けます。 が、実のところ、彼らも日本側に対して、相当気を遣っていました。 例えばペリーは幕臣相手に酒や料理をふるまい、ハグまでしております。 ※以下はペリーの関連記事です ペリーのあとに来日した外国人たちも、人種差別感情や高圧的な態度だけを抱いていたわけではありません。 彼らは襲撃に怯えつつ、日本人の価値観を探り、余計な刺激をしないように生活せざるを得なかったのです。 天真爛漫な人々が暮らす、清潔なワンダーランド。 日本人の庶民がそう評価される一方で、彼らは危険極まりない存在も同時に畏怖しておりました。 そうです、SAMURAIです。 【殺すと決めたら必ず実行にうつし、その襲撃を防ぐことは不可能に近い――シゲキ、スルナ――】 外国人が「SAMURAI
そんなお話があったら、どう思います? おいおい、話、作んなよ。 とツッコミたくもなるでしょうが、実は江戸時代、お伊勢参りをした犬がたくさんいたのです。 なんともワンダフルな【犬のお伊勢参り】を見てみましょう。 ※以下は伊勢神宮の関連記事となります 忠犬、伊勢を目指すその犬は、首に木札をつけ、路銀もぐるっと巻いていました。 人々はびっくり仰天と同時に感心し、お金を奪ったりはいたしません。 「おおっ、あの犬はお伊勢参りだ!」 「てえしたもんだよ、えらい犬じゃあねえか」 「ありがてえ。ありがてえなぁ……こんな犬を見るなんてありがてえことだよ」 中には犬を呼び寄せ、首の周りに銭を与えてやる者もいます。 犬はそうしてトコトコと、伊勢参拝の人にくっついて適当な宿まで行きます。 宿の者も、犬を迎えてやります。 迎えた人は、首から餌代を取り、犬に餌を与え、また心付けの銭を巻いてやるのです。 時には首に巻く
西郷隆盛と言えば、鷹揚にして些事にこだわらず、ともすれば平和的な人物に見えます。 しかし、それはあくまでピースフルな「上野の西郷さん」のイメージ。 史実においては武力倒幕を進めたのが西郷本人であり、かなり好戦的な性格の方でした。 岩倉具視や、他ならぬ薩摩藩でも内戦を回避した倒幕を模索していたのに、強引に推し進めたのは他ならぬ西郷だったのです(以下はその関連記事となります)。
◆田中新兵衛 薩摩藩:1832~1863年 ◆河上彦斎(げんさい) 肥後藩:1834~1872年 ◆中村半次郎 ※桐野利秋 薩摩藩:1838~1877年 ◆岡田以蔵 土佐藩:1838~1865年 以上の四名であり、今なおドラマや漫画では恐怖のキャラとして登場しますね。 そのうち犠牲者がいささか少なく感じられるのが中村半次郎(別名:桐野利秋)でしょうか。 大河ドラマ『西郷どん』にも登場し、西南戦争の中心人物にもなった西郷隆盛の右腕的存在。 しかし、半次郎の凶刃にかかった人物の中には、「日本を変えたかもしれない」と称される人物がいたのです。 慶応3年(1867年)9月3日に殺された赤松小三郎――。 上田藩出身の武士であり、当時、素晴らしい先見性と学識を備えていました。 彼の教えを受けた者たちは明治維新後に活躍を遂げた者が多く、時に赤松小三郎は【知られざる英雄】とも評価されたりします。 一体何者
「維新十傑」の一人であり、その中では最後まで長生きした貴族出身の政治家――岩倉具視。 幕末から頭角を現し、明治十六年(1883年)の7月20日まで享年59という天寿を全うしており、実は日本初の国葬が行われた方でもあります。 大河ドラマ『青天を衝け』では、朝ドラ『あさが来た』で大番頭の好演も話題になった山内圭哉さんがキャスティングされましたね。 近代日本史には欠かせない重要キャラである岩倉具視は一体どんな方だったのか? その生涯を振り返ってみましょう。 岩倉具視~奇抜な性格で身分は低い貴族だが岩倉は、堀河康親(やすちか)という公家の次男として生まれました。 幼少時から公家らしからぬ言動で浮いていたそうで、本名で呼ばれるよりも、「岩吉」という少々小馬鹿にしたアダ名で呼ばれるほどだったそうです。 13歳のとき岩倉家へ養子入りしましたが、岩倉家は公家とはいえ、江戸時代にできた分家だったため、多くの
2016年のマンガ大賞に続き、2018年の手塚治虫文化賞に輝いた『ゴールデンカムイ』。 2018年4月からアニメ化(→link)され、2019年には大英博物館「日本の漫画展」にアシリパさんがメインキャラとして登用。 そしてマンガ版では最終回を迎えながらも、アニメ放送で再び盛り上がっているのはご存知かもしれません。 同作品には、現代人の我々がほとんど知ることのないアイヌの生活様式やアイヌ語、料理がたくさん出てきます。 あらためて北海道の独特な地名や単語がアイヌ語由来だったことに唸ったり、野草が食べられると驚いたり。 同じ日本に住む民族ながら、その生活についてほとんど知る機会がなかったということにも、私は驚きました。 美味しいお料理や、生活の知恵は、作中のアシリパさん(※本来「リ」は小文字)に教えてもらうこととしまして……。 本稿ではアイヌの歴史を学ぶ入口として、案内させていただければ幸いです
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で菅田将暉さん演じる源義経は、登場時点から大きな話題となりました。 兄・源頼朝に加勢するため向かった富士山が見える野原で、出会った野武士をいきなり騙し討ち。 SNSでも「やばい義経が来たw」とざわついていたかと思ったら、実際、一ノ谷の戦いでも徹底的に平家を欺き、戦いの前には1ミリの倫理すらない様子をうかがわせ、しまいには壇ノ浦の戦いで幼い天皇を入水自殺へ追い込んでいた。 一方で自分の死の間際には、冷静に周囲を分析し、相変わらず天賦の才に恵まれた軍略を披露する――。 確かに義経は、史実においても天才であり、同時に常識から逸脱したヤバい人だったかもしれません。 『なぜ、そこでそうなる?』という場面が何度かあり、特に頼朝が信頼する梶原景時(劇中では中村獅童さん)とは何度か揉めていて、最終的には自らが破滅の道を突き進んでしまうのです。 いったい源義経とは何なのか。 文治
2018年の大河ドラマ『西郷どん』。 第1回放送で、主人公の西郷が「チェエエエエエエ!」と凄まじいかけ声をあげながら、木刀を振り下ろしていました。 あの剣術は、薩摩のジゲン流と呼ばれるもの。 あまりに恐ろしい威力を持つため、新選組の近藤勇は隊士にこう言いました。 「薩摩の初太刀は避けよ」
皇族だった人物が臣下にくだって「姓」を与えられることを【臣籍降下】と言います。 そのうちよく知られているのが源氏や平氏。 彼らの子孫から武士になって勢力を伸ばした者達が【源平の争い】を始め、ついに武家社会が勃興する――という話を以下の記事にまとめさせていただきました。
文久2年(1862年)1月14日は奄美大島に流されていた西郷隆盛が、鹿児島へ向けて阿丹崎を出帆した日です。 西郷はその4年前の安政5年(1858年)に、錦江湾で月照と共に入水。 二人は平野国臣らに引き揚げられ、僥倖にも西郷だけは息を吹き返しました。 ※以下は平野国臣の生涯まとめ記事となります しかし、彼は死んだも同然の立場。 薩摩藩としても、幕府から睨まれ、入水騒動を起こした人物を放置というわけにもいかず、表向きは死んだことにして、藩の流刑地・奄美大島へ島流しにしていたのです。 ほとぼりがさめるまで暮らし、いずれ戻ってこさせよう――それが藩上層部の判断でした。 かくして無念の気持ちを抱えたまま、南の島での生活を余儀なくされた西郷。 いったい彼は、どんな気持ちで暮らしていたのでしょうか。
「名は体を表す」 そんな言葉がある一方、世の中には実態とかけ離れたものがたくさんあります。 本当はゴリゴリの独裁国家なのに、“民主ナンチャラ”とか“人民ナンチャラ”など聞こえの良い国名にしてしまうとか、そういうパターン。 かような例の中でも、世界史的にぶっちぎって「名と実」のかけ離れた国がこちらです。 「コンゴ自由国」 そこにあるのは自由どころか、切断された手足だらけという、恐るべき歴史が残されていたのでした。 スタンリーのアフリカ探険が始まりだった時は19世紀――ヨーロッパは探険ブームに沸いていました。 未踏の地(といってもあくまでヨーロッパ人にとってですが)を旅して、見聞を広め、あわよくば植民地なり交易品なりを獲得できればラッキー、というわけです。 1841年、ウェールズ出身のヘンリー・モートン・スタンリーもそうした野心を抱いた探検家の一人でした。 貧しい家庭に生まれ、一時期は救貧院で
世界史の苦手な方も。 そもそも中学以来やってない! という方も。 以下のお名前を一人ぐらいは見聞きしたことがおありでしょう。 彼らに共通のキーワードは【百年戦争】。 イギリスとフランスを中心にドンパチやってる間に輩出された、欧州ではレジェンド級の有名人です。 本当に百年戦ったのかどうかはさておき、この戦争で一説には350万人を超える犠牲者が出たとも言われ、1431年の5月30日には英雄の一人であるジャンヌ・ダルクが処刑された日ともされます。 んで、戦争のキッカケは何だったのか? というと……。 「あれ? もしかして俺ってフランス王にもなれるんじゃね?」 そんなイングランド王エドワード3世の、かなり迷惑な思いつきのせいなのです。 いったい百年戦争とは何だったのか――。 イングランド王があつかましくもフランス王権を主張した理由には、ちょいと面倒な背景がありました。
篤姫と吉之助が見つめ合う大河ドラマ『西郷どん』は、当初、 「ボーイズラブに挑戦する」 ということで話題を呼んでいました。 これが、少し検索しただけでも、大量に出てきまして。 ◆「西郷どん」鈴木亮平と瑛太の“ボーイズラブ”が期待できるワケ ◆『西郷どん』見どころはBL要素か 脚本の中園ミホ氏は男性同士の愛を描く可能性示唆 ◆『西郷どん』を歴史作家が予測、ブロマンス×無敵のヒロイン力=ふんどし大河!? ◆NHK大河『西郷どん』を10倍楽しく見る方法…見どころは「男色」と「原作改変」? しかも前回4/8放送の第13話では、清水寺成就院の元住職・月照も登場して、にわかにザワザワとされた方もおられるでしょう。 というのも林真理子氏の原作で、この月照と西郷隆盛がBLの関係に陥るのです。 まぁ、常識的に考えて、エグいシーンは放送されるわけもないでしょう。 薩摩趣味(薩摩の男色のこと)は、現代の視聴者には
1967年(昭和四十二年)9月2日、シーランド公国が独立を宣言しました。 って、 『ドコの国やねん?』 と思う方が多いでしょうか。 最近はバラエティー番組等でも取り上げられるようになってきて、かなり知名度が上がった気もします。 が、【独立(仮)】の経緯についてはあまり触れられることがないような気がします。 なぜ【(仮)】なのかを含めて見て参りましょう。 国土面積は100坪にも届かない だって要塞なんだものシーランドは、もともと島でも国でもありません。 要塞です。 TOP画像に掲載された写真がそうで、国としてはムチャクチャ小さい。 国土面積は207平方メートルで100坪にも全然届きませんので、バチカンどころじゃありません。 ここは第二次世界大戦中、ブリテン島沿岸の一帯にイギリスが作った沿岸防衛拠点の一つでした。複数あったため、まとめて「マンセル要塞」と呼ばれていたものです。 現在「シーランド
戦国時代に数多いた大名たち。 その中でも武田信玄と上杉謙信が破格の扱いをされるのはナゼなのか? 日本の歴史という大きな視点に立てば、 の三英傑が与えた影響は極めて大きく、逆に信玄と謙信は重要な存在感を発揮しきれておりません。 あくまで一地方の有力者と考えた方が自然であり、例えば受験で取り上げられるような際立った功績もない。 にもかかわらず【甲斐の虎】信玄と、【越後の龍】謙信は、やっぱり別格! では、史実の武田信玄とは、どんな一生を送ったのか? 本稿では元亀4年(1573年)4月12日が命日となる信玄の、53年に及ぶ生涯をまとめました。 よろしければ最後までお付き合いください。
幕末悲劇のヒーローにして、現代女性の人気No.1志士と言えば? やはり土方歳三でしょう。 彼の所属していた「新選組」が、果たしてどれだけ幕末の歴史を動かしたか――。 そう問われたら、長州藩の「松下村塾」や、薩摩藩の「精忠組」より、はるかに役割は小さいと言えます。 所詮は負け組、所詮は捨て石、所詮は鉄砲玉。 結果だけ見ればそうなってしまいます。しかし……。 だからといって、新選組を、土方歳三を、時代の徒花的集団とは言いたくない。そんな熱量があるのも事実です。 のみならず、考えるべき役割があります。昨今、テロリズムへの対処が重視される時代となりつつあります。 新選組とは、テロリストを取り締まる特殊警察でした。テロの根絶を訴えるのであれば、板橋の新選組墓所を参拝してもよいのではありませんか。 それなのに軽視するのは、彼らが敗者となったからでしょう。 新選組は、人気だけで見れば、間違いなく幕末トッ
松下村塾を開き、キレッキレの生徒たちを引き連れた――。 吉田松陰というと、どんなイメージをお持ちですか? 理不尽な処刑をされ、幕末の志士たちに神のごとく崇敬される。漠然とそんな印象をお持ちかもしれません。 実際「吉田松陰」で検索をかけますと、候補検索でトップに上がってくるのが【吉田松陰 名言】ですから、今なお彼に学びたい現代人も少なくないのでしょう。 では、実際の松陰はどんな人物だったのか? 名言通りの方なのか。 安政6年(1859年)10月27日に享年30という若さで散った吉田松陰の人物像に迫ってみましょう。 天保元年 杉家に誕生する吉田松陰は天保元年(1830年)、長門国の萩で生まれました。 父は、長州藩士・杉百合之助常道で、母は滝。 元は、家禄26石の杉家二男であり、その妹には久坂玄瑞に嫁いだ杉文(すぎ ふみ)がおりました。大河ドラマ『花燃ゆ』の主人公ですのでご存知の方もおられるでし
鎌倉時代で最も有名な出来事と言えば、やっぱり【元寇】でしょう。 「お前ら、属国になれ」というモンゴル帝国の要求を二度に渡って拒絶。 その結果、 で【神風】吹いてバンザ~イ!と皆さん歴史の授業で習ったと思います。 ところが、台風ってどうなのよ、というのが最近の見方。 文永11年(1274年)10月5日に元軍が対馬・壱岐へ襲来して始まった――元寇とは一体なんだったのか? 本稿では「御家人たちが頑張りました」で終わりにせず、当時の背景や戦闘経過なども見ていきたいと思います。 鎌倉当時は「蒙古襲来」等と呼ばれていたまず「元寇」という名称。 後世になってから名付けられたもので、鎌倉当時は「蒙古襲来」や「蒙古合戦」などと呼ばれていました。 「元寇」という単語は江戸時代あたりに出てきたようです。 「寇」という字には「侵入してくる敵」という意味があるので、意味合いとしては「蒙古襲来」などとほとんど変わりま
勝手ながら、ここ数年(2010年代)の朝ドラで番付をつけさせていただきますと、東西の横綱はこうなります。 東(東京製作)の横綱:『あまちゃん』(2013年) 西(大阪製作)の横綱:『カーネーション』(2011年) 『あまちゃん』がユニークで軽妙な、変化球であったのに対して、『カーネーション』はどっしりと骨太。 まさしく王道を歩んだドラマであり、一本芯の通った素晴らしい作品でした。 そのカーネーションが4/10から再放送となりましたので、見どころをご紹介したいと思います。 ※午後4時20分から午後4時50分(1日2話放送・全151回) 史実の小篠綾子さん記事は以下のリンクから! 「うちのだんじり」を求めて朝ドラ定番のヒロインといえば、おてんばで男子のような行動です。 高い所に登って叱られたり、男の子と同じように振る舞えないことを嘆いたりするものです。 本作の糸子もこの例から漏れません。 ナゼ
薩摩藩主・島津斉彬の子として育てられ。 公家の養女として、十三代将軍・徳川家定の妻となり。 幕末の動乱では、故郷の薩摩が、嫁ぎ先の徳川幕府を倒す――そんな波乱万丈な人生だったことでお馴染みの篤姫。 鹿児島生まれだけあって、就寝前にお酒を飲んでいたなんて話もありますが、実際は、どんな女性だったのか? 天保6年(1836年)12月19日に生まれた篤姫の生涯を振り返ってみましょう。 薩摩の有力一族から生まれた天璋院篤姫「篤姫(篤子)」という名前になったのは養女になったときです。 実はその後に「敬子(すみこ)」と改名していいるのですが、記事中では「篤姫」で統一させていただきます。 篤姫の初名は「一(かつ)」と言いました。 大河ドラマでも「一、と書いて“かつ”」という台詞が何回か出てきていましたので、ご記憶の方も多いかもしれません。2018年の『西郷どん』では「於一(おかつ)」と記されておりましたね
『軍師官兵衛』など存在しない――。 なんて言うと黒田官兵衛ファンの皆さまには『イキナリ何だ?』と引かれるかもしれませんが、これがある意味正解。 日本に職業(官職)としての『軍師』が規定されたことはなく、今日こんにち、我々が言葉にしているのは江戸時代の軍学や軍記物などによって作られた“イメージ”です。 しかし、今なお、この言葉が我々の心に響くのは、なぜなのか。 彼らが戦術に限らず、築城や内政、外交など、様々なジャンルで才能を発揮したからであり、その代表的存在が、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとで多才な活躍をした黒田官兵衛ではないでしょうか? またの名は黒田孝高、あるいは黒田如水など、いくつかありますが、本稿では黒田官兵衛で統一。 慶長9年(1604年)3月20日が命日となる激動の生涯を、史実ベースで振り返ってみたいと思います。 果たして如何なる軍師像が浮かんでくるでしょうか。 官兵衛の若年
皇帝の深部に食い込み、シロアリのように内側からズタズタにしてしまう。 宦官――。 日本でもよく知られた中国王朝の去勢官僚ですね。 後宮に入って皇帝や妃の世話に従事し、ときに意のまま操ってしまう腐敗の極み。 そんなイメージもあると思いますが、実際その通りだということは、以前、以下の記事で記させていただきました。 本日は、そんな外道な宦官の中でも、史上No.1とも言うべき腐敗of腐敗の男をカップルで紹介したいと思います。 明代の魏忠賢(ぎちゅうけん)――。 日本であれば戦国時代にあたる隆慶2年(1568年)~天啓7年(1627年)に生きたこの男、皇帝の乳母と手を組み、宮中を思いのままに操り、最終的に明の滅亡へと導いた生粋の悪者です。 では、一体どれほど腐っていたのか? その所業を振り返ってみましょう。 キレたチンピラ、宦官になる魏忠賢は、元はバクチ打ちのチンピラでした。 ある時、チンピラ仲間に
【あらすじ】自衛隊、戦国時代でかく戦えり198X年、伊庭義明(千葉真一)三等陸尉以下21名の自衛官たち。 彼らは移動中、不思議な空間の歪みに呑み込まれて、新潟県の補給地ごとドコかへ飛ばされてしまう。 一体何が起きたのだろうか。 砂浜のような場所で隊員たちが戸惑っていると、数騎の騎馬武者が接近してきた。 「お祭りでもやってんのかなぁ」 彼らの姿を見て、訝しむ自衛官たち。 と、騎馬武者たちはイキナリ彼らに矢を射かけて来た! やむなく機関銃で応戦する彼ら。 しばらくの戦闘を経た後、豪快に笑いながら登場したのが「越後の龍」こと長尾景虎(夏八木勲)だった――。 この長尾景虎の誘いに応じて戦国に巻き込まれながら、それぞれの道を模索していくことになるのが本作のメインストーリー。 タイムスリップした現実に向き合おうとする者。 戻る道を模索する者。 適合して生きていこうとする者。 そして命を落とす者。 皆そ
では、もう一つ質問です。 西郷隆盛が死の直前まで大切に持っていた「手紙」の送り主は誰か? それは齢26にして【安政の大獄】の犠牲者となった、福井藩の天才。 橋本左内――安政6年(1859年)10月7日が命日となります。 ※以下は西郷隆盛の生涯まとめ記事となります
明治七年(1874年)2月1日は、佐賀の乱が勃発した日です。 明治初期に頻発した不平士族の反乱のひとつ――といえばそうなのですが、この乱についてはもう一つポイントがあります。 「征韓論に対する賛成・反対」です。 ※以下は不平士族の反乱まとめ記事となります
西南戦争の終焉と共に、明治10年(1877年)9月24日に亡くなった西郷隆盛――彼ほど評価の難しい人物はいないでしょう。 その生涯は、歴史の授業で習うような【薩長同盟】や【倒幕・維新】だけでは、とても収まりきりません。 若かりし頃は二度も島送りにされたり、入水自殺を試みたり、上級権力者の島津久光と仲違いをしたり……。 その一方で多くの藩士に慕われ、類まれなる政治力で明治維新を遂行しながら、ついには西南戦争で自決するのですから、まさに波乱万丈というほかありません。 しかも、です。 稀代のカリスマとされながら、江戸幕府を倒すまでには独断専行な一面があったり、冷酷苛烈な判断もあったり。 『いったい彼は大人物なのか、それとも何なのか?』 見る人によって、その印象は非常に大きく異なってくるのです。 本稿ではそんな西郷の生涯を、できるだけフィクション作品の要素を削ぎ落とし、史実を忠実に追ってみました。
織田信長の家臣には、当然のことながら様々なタイプがおりました。 柴田勝家や羽柴秀吉のように、一地方の攻略を任された者。 滝川一益や前田利家のように、織田家親族や最高責任者の与力・目付のような立ち位置で、各方面の攻略に力を発揮した者。 そして、彼らほどの責務ではなくとも、信長の信頼厚く、要所要所で登場する者です。 慶長13年(1608年)8月12日が命日の金森長近はこのタイプ。 現代における知名度は決して高くありませんが、ところどころでキラリと光る武将です。
本記事を御覧いただく前に注意点がございます。 以下の内容は、あくまで日清食品の公式見解に従ってまとめた内容です。 実はインスタントラーメンの発明が安藤百福によるものではないことは、当初は本人すら認めておりました。 それがいつの間にやら彼の発明品という話が流布され、報道各社もその内容に追随。 2018年から2019年にかけては、日清食品側の見解に基づく朝の連続テレビ小説『まんぷく』および関連番組が放映されました。 しかし、それはあくまでひとつの見解であり、史実とはみなせないものであることも指摘されております。 その点を踏まえて読み進めてください。 【以下、本文】 「人生何が起こるかわからない。カーネル・サンダースだって60過ぎてからフライドチキンを始めたんだ」 そんな台詞をハリウッド映画の中で聞いたことがあります。 いかにもアメリカっぽい喩えですが、これがもし日本であれば、ピッタリ当てはまる
◆需要喚起へ若者のアイデアを 酒類消費減少で―国税庁(→link) ◆日本の若者よ、もっと酒を飲もう 国が税収増狙い奨励(→link) 今、世界的に若者の飲酒量は減少しています。 酔うことに意義を感じない生き方が浸透してきたと指摘され、コロナ禍も拍車をかけています。 アルコール分を低くし、炭酸水や甘いフレーバーを加える。SNSで映えるパッケージや飲み方を工夫する。 メーカーや飲食店側のそんな工夫で乗り切ろうとしている状態です。 なんせアルコールには、依存症や犯罪誘発の危険性もあります。 それをよりにもよって国がプッシュするってどういうこと? 若者が酒飲まないのは良いことでは? 進歩でしょ! ホワイジャパニーズピーポー! 海外メディアからは、そう突っ込まれる事態に陥っていますが、そもそも日本では、昨今、こんなアルコール飲料も大流行しています。 ストロングゼロです。 ◆「ごん、お前だったのか。
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