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パリ五輪
osaan.hatenadiary.jp
曽野綾子さん「移民を受け入れ、人種で分けて居住させるべき」産経新聞で主張 曾野綾子がまたおかしなことを口走っているようだ。 人種差別肯定云々はとうに他の人々が言い尽くしている。しかし、この文章のキモは以下の部分にある。 黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションに、どんどん一族を呼び寄せた。白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの一区画に、20~30人が住み出したのである。 このような「実例」をひくことで誰に何を訴えようとしているのか。 それは、全て「日常」というものを基準にして考える人に、「このようにして『日常』がゆるがされたら、理屈抜きに嫌でしょう?」と共感を求めているのである。 このように、社会的な問題を「日常の感覚」に訴えるというのは、「保守」と呼ばれる人々が好んで使用する詐術である。 現にコメント欄には、その詐術に惑わされた人の発言も見受けられる
昭和7年、直木三十五が正月に「ファシズム宣言」したその年、五・一五事件が起きた。海軍将校らと大川周明によるクーデターである。犬養首相が暗殺され、気まぐれで相撲観戦に出かけたチャップリンは難を逃れた。 この事件の肝は、クーデターそのものではなく、その裁判において大川らが「民衆の窮状」を訴えると、助命嘆願運動が起きて数万通もの手紙が寄せられたことである。そのせいで、未曾有のテロにしては判決が軽いものとなり、次の二・二六を誘発した、とされる。実際それ以前に、前年(昭和6年)の三月事件及び十月事件などは、未遂とはいえクーデター発覚についてほとんど処罰らしい処罰がなされておらず、首謀者はこうしたことについて、ほとんど軍をなめていたと思われる。なお、三月事件と十月事件については軍で内々に処理されたため、一般に知られるようになったのは戦後のことである。 さて、大川らが訴えた「民衆の窮状」だが、当時は高橋
昭和7年1月8日(金曜日)、読売新聞に以下の宣言が掲載された。その年の文芸時評の一回目である。 ▽僕は、光輝ある読売新聞を通じて、僕が一九三二年より、一九三三年まで、ファシストであることを、万国に対して宣言する。 ▽「中央公論」新年号「現代一百人」の中(うち)で「反省しなけりゃ、お前も駄目だ」と、書いてあったので、毎日、女のことと金使いの事で、反省ばかりしている僕は反省くらい何でも無い、と、その新聞(この名を書くと、無料広告になるから、書いてやらない)を見ると馬鹿野郎が「階級闘争をかいてない」とか「斉彬を神様扱い」にしているとか、そして、僕の「戦争と花」とを、ファシズムだとかーー君らが、そ、そういうつもりなら、ファシスト位には、いつでもなってやる。それで、一二三ん、僕は、一九三二年中の有効期限を以て、左翼に対し、ここに、闘争を開始する。さあ出て来い、寄らば切るぞ。何(ど)うだ、怖いだろう、
エコノミック・アニマル、という呼び名が死語となって久しい。 それは高度成長期の日本人に対する蔑称とも尊称とも言われたが、他からそう呼ばれた期間よりも、日本人自身がそう自称した時期の方が長かった。経済的な利益を追い求める「アニマル」という呼び名に、肉食動物的なイメージを重ねて誇らしく思えたのだろう。 エコノミック・アニマルを、そのまま中学生のように直訳すると、「経済動物」となる。現在、「経済動物」といえば、家畜のこととされている。もちろん、エコノミック・アニマルは家畜livestockの意味ではない。しかし、はからずもここに、本質をとらえた呼び名がこだまのように返ってきている。 日本人は、自己家畜化ならぬ、自己「経済」動物化している、ように思う。 市場原理の浸透 ブラック化する、この国 http://www.asahi.com/articles/DA3S11100991.html >経済的合
「貴族主義者であると同時に民主主義者であり、革命的であると同時に反動的、プロレタリアと同時に反プロレタリア、平和主義者と同時に反平和主義者である」 これはどのような人間だろうか。ついでに「左翼であると同時に右翼でもある」というのも付け加えてみようか。 ネット上で自ら「中道」と名乗る人はこのように語ることを好むように見える。 これは思想や理念ではなく、ただの「気分」であり「ポーズ」であり、まあ言ってみれば「かっこつけ」である。 そうした人たちが口にするのは、どこまでも自己肯定的な「ロマンのようなもの」でしかない。 「貴族主義者であると同時に民主主義者であり、革命的であると同時に反動的、プロレタリアと同時に反プロレタリア、平和主義者と同時に反平和主義者である」 と名乗ったのは、ムソリーニである。ムソリーニは、こうあることが即ち「ファシストである」と定義した。 ムソリーニは、あらゆるイデオロギー
「レイシストを批判するのは差別だ」という噴飯物の論について、「そんなことを言うからおまえはバカなんだ」と罵る前に、なぜこんなバカなことを言ってしまうのか少し考えてみよう。 まず、バカとは何か。簡単なようで難しい。 一つ言えることは、誰でもバカになる可能性がある、ということだ。それは何十年も立ってすっかり脳が老化することを待たずとも、なんらかのきっかけでまったく言葉の通じない国に独りで放り出された時を想像してみればいい。 現地の人間にとってわけの分からないことをしゃべる人間は、ほぼバカと同じに扱われるだろう。たとえノーベル賞級の頭脳の持ち主でも、まったく言葉が通じなければ、文盲や知的障害者と同レベルだ。つまり、われわれはいつでもそうした「バカ」になってしまうことがありうる。 そこで、社会にはそうした「バカ」を受け入れる寛容さがもとめられる。文盲や知的障害者にはもちろん、言語の通じない外来者に
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