寺伝によると弁基上人が修行していたときに、愛用の水晶の壺坂の上にある庵に納め、感得した像を刻んで祀ったのが始まりとされる。 山門には仁王像もおられ、古寺の風情を十分に感じる。しかし、一たびこの門をくぐれば三重塔や本堂の前に、白く大きな大釈迦如来に普賢、千手観音、文殊菩薩など石造りの仏像がたくさんおられ、古刹というよりはむしろ新しい印象すら受ける。 門自体は鎌倉時代の建立だが、平成10年の台風により屋根が半壊するダメージを受け、その後解体修理がなされ、平成15年に旧参道の入口から現在の場所に移築されてきた。 全長20m・全重量1200tもの大観音石像は、前住職がインドのハンセン病救済事業に尽力されたという縁で、インド国民の協力と南インド・カルカラの三億年前の古石がインド政府や様々な方のご支援で提供された。インドの文化勲章受章者シェノイ氏及びその一門の指揮のもと、延べ7万人のインドの石工により
1052年に関白・藤原頼道によって創建された宇治・平等院。中でも有名な鳳凰堂の当時の姿が1年半の大修理を経て、現代によみがえった。 960年前の人々が思い描いていた「極楽浄土の姿」とは、いったいどのようなものだったのだろうか。 飛鳥時代に日本に伝わり平安前期に広まった仏教は、現世での救済を求めるという考えであった。しかし平安時代後期になると、日本では「末法思想」が広く信じられるようになっていた。末法思想とは、お釈迦さまの入滅から2000年目以降は、廃れてしまうだろうという思想である。 ちょうどその頃には天災や人災が続いたため、人々の不安は一層深まりこの世の終わりとさえ言われるようになった。そんな不安から逃れるように、仏教の思想も現世での救済から来世での救済へと変わっていくこととなった。 平等院が創建された当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たり、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の
三門をくぐれば目の前には、おびただしい数の楓の木が広がる。今の季節は深い緑色でマイナスイオンを感じることができるし、秋になれば他ではなかなかお目にかかれないほど真っ赤に紅葉する。 とかく秋の行楽シーズンの京都市内の観光寺院は、人混みでごった返していて思うように回れなかったりすることが多いが、市内から車で30分ほど走るだけで静かに素晴らしい紅葉が楽しむことができるのがこのお寺の良いところだ。 アニメや実写版でおなじみの一休さんは一休宗純(そうじゅん)というお名前。今から約620年前、南朝と北朝が足利義満によって統一された後、一休さんは第100代・後小松天皇の側室であった母が南朝方の出身だったことから宮中を追われ、京都の嵯峨野で誕生。その後6歳の時に出家させられることになった。 アニメの中とはいえ、年端もいかぬ小坊主に天下の将軍・足利義満が直々に「これ一休、この屏風の虎を退治してみせよ」などと
日本に正しい仏の教えを授けるために命を懸けて、鑑真和上(がんじんわじょう)が唐から来日したのは753年12月のこと。東大寺大仏殿にて聖武上皇・孝謙天皇らに正式な受戒を行い、日本の仏教の基礎を作り上げた。その鑑真和上によって創建された唐招提寺は、建築物も仏像も天平時代からの一級品を数多く揃えているだけでなく、その清く正しい不屈の精神をも今の時代に伝え続けているお寺といえる。 この唐招提寺は南大門から一歩境内に踏み入れると、ものすごく空気が優しい。正直これは文字で表すことはできないので、現地に来て頂かないと分からないのだが、とにかく癒される。金堂はこのお寺の本堂であり、天平時代の金堂建築として唯一現存する貴重な建物である。寄棟造、本瓦葺きで、左右に鴟尾(しび)を飾る。円柱の中ほどに膨らみをもつエンタシス式の柱が並ぶ姿は雄大で温もりがある。 解放された扉の奥には、御本尊の毘盧遮那(びるしゃな)仏
仏教には「放生会(ほうじょうえ)」という、捕えた魚や獣を池や野に放つことで殺生を戒め、万物の生命を慈しむ儀式がある。この猿沢池は天平時代に、興福寺での放生会を行うために造られた一周約350mの人工池だ。 今でこそ興福寺の境内とは三条通をはさんで向かい合っているように見えるが、かつてはここまで興福寺の寺領であり、その権勢ぶりが分かるというもの。もちろん今でも普通に鹿が歩いているので、のんびりとお弁当を食べようものなら、たちまち鹿たちが寄って来るかも。 現在は、近鉄奈良駅からも徒歩10分だし「ならまち」にも近いこともあって、観光客はもちろんのこと地元の人たちにとっても憩いの場となっている。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く