日本と中国との間の歴史認識問題での共同の認識を記した文書が公開された。報道では、南京において、1937年に万の単位の人が死んだことは確認されたが、人数をめぐって一致が得られなかったという。 人数での一致など必要はないと思う。必要なのは、沖縄の平和の礎のように、犠牲になった人をその名前で記憶することだ。中国は膨大な数を上げているが、それを認めさせたいのであれば、犠牲者の名前や性や年齢などを示し、その数が積みあがったところが、犠牲者数マイナスα、ということだ。毎年、沖縄でそうであるように、α分が掘り起こされ、戦争の記憶が新に刻まれていく。数の一致が得られたところから、歴史の風化が始まる。 中国ではどの程度の国民が、中国人被害者の数をあれこれ言う、数で歴史を語る、その結果被害者を政治の道具にする、といったことは被害者を冒涜しているのだ、ということに気付いているのだろう。