歴史[編集] 二代目 歌川広重『諸国名所百景 奥州そとが浜』(1859年・安政6年) 古くはさらに広い範囲を指して、西は津軽半島の日本海沿岸を含むとする説や東は下北半島の尻屋崎までとする説がある[1]。 中世以来「東は奥州外浜、西は鎮西鬼界島」[2] は日本の境界を指す慣用句であり、穢れの思想が強くなった中世においては日本と相容れない鬼(中央に同化しない蝦夷などを指す)の住まう地として解釈されることもあった。 また、歌枕の地として知られ、西行や藤原定家など多くの歌に詠まれた。 「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風」(西行) 「みちのくの 外が浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた」(藤原定家) 平安時代末になって国郡制が本州北端にまで及んだ段階で、津軽三郡ないし津軽四郡と称されて「津軽」の名を冠された地域は、津軽鼻和郡、津軽平賀郡、津軽田舎郡および津軽山辺郡だけで