(お気に入り登録される方は右記プロフィールを一読していただくよう御願いします) という話が「STSって何なのよ」という話へ変遷していった。 基本は自分用。(タイトルは迷ったので見たときに笑ったものを採用)
(お気に入り登録される方は右記プロフィールを一読していただくよう御願いします) という話が「STSって何なのよ」という話へ変遷していった。 基本は自分用。(タイトルは迷ったので見たときに笑ったものを採用)
あ〜る菊池誠(反緊縮)公式 @kikumaco SF大会の懇親会で出た話題について。比喩というのは、それが比喩として機能する相手にしか意味を持たないわけです。たとえば、「フラクタル」を比喩とするなら、その言葉で「雪の結晶みたいな形ね」と思う人と「フラクタル次元はいくつなんだ?」と思う人とでは機能のしかたが違う @hazuma あ〜る菊池誠(反緊縮)公式 @kikumaco 比喩はそのものずばりではないことによって、相手の知識次第でまったく違う受け取られ方をされうるし、もちろん、時代が変われば受け取られ方も変わる。この点は比喩を使う側が当然負うべきリスクなわけです @hazuma あ〜る菊池誠(反緊縮)公式 @kikumaco 僕の考えでは、科学的な用語を「比喩」として使うのがいけないのではなく、たとえば「フラクタル」を比喩としたときに、フラクタルに詳しい人から「フラクタルのどの側面を比喩に
荘子は先秦(戦国時代)における最も特異な思想家のひとりである。 彼は孔子を祖とする「儒家」の人々が強調する仁義道徳をこざかしい人 間の作為として排斥し、あるがままにあること――「自然」を愛し、何 ものにもとらわれることのない精神的自由の境地――「道」の世界にあ こがれをよせた。しかも彼はその思想を、彼一流の風刺や皮肉や寓言に 託して表現したのである。その著『荘子』の中の「天地篇」にあるこの 話も、そうした彼の「寓言」の一つとして読むべきであって、むろん史 実ではない。 その昔、聖天子として聞こえの高かった堯が、華の地方に巡幸された ときのことである。その地の関守役人がうやうやしく堯の前にまかりい で、ご挨拶を申し上げた。 「おお聖人さまよ。謹んで聖人さまの将来をお祝し致します。まずは あなた様の御寿命の幾久しくあられますように。」 「いやいや。」 堯は思慮深げに
このたび以下の訳本が出ることになりました(共訳です)。 進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works) 作者: エリオットソーバー,Elliott Sober,松本俊吉,網谷祐一,森元良太出版社/メーカー: 春秋社発売日: 2009/04/01メディア: 単行本購入: 9人 クリック: 135回この商品を含むブログ (44件) を見る 版元の紹介ページはこちらです(Apr.19)。また、BK1のリンクはこちらです。[リンクが間違っていましたので直しました。ブクマで指摘して頂いたbk1checkitさん、ありがとうございました。(Apr. 17)] 著者はザ・生物学の哲学者と言っていいエリオット・ソーバーです。 この本は一般的にいうと生物学の哲学の入門書ということになります。しかし、わたしがこの本を手にとってほしい人の一つは、生物学に興味があるが哲学に興味のない(
前半から続く・・・ Q:次に今回のセミナーについて話を移していきたいんですけれど、ある人にとっての価値あるものが、他の人には受け入れがたいという状況が現在あると思います。この価値対立の調停をどう考えていくのか、というのが今回の「マックスバリュー」というテーマ設定につながってくるのですが、先生はこの現状をどう見ていらっしゃいますでしょうか。 この点については、実は従来の古典的な対立より問題はさらに深刻化しているというのが、一部の法哲学者がすでに言い出していることです。建築には詳しくありませんが、たとえば東京駅みたいなものは綺麗だから残したいという声があるとする。一方でモダニズム建築も建築史的に価値があるし美しさがあるんだから保存しようよ、という声があったとき、これに対して「いや、僕はロマン主義者だからモダニズムに美は認めないよ」という対立があったとします。これは美しいものは保護すべき
考え方はいろいろあって、まず「マルクスの思想は現代経済学・ゲーム理論と整合的である」という大前提から出発する。そうするとここで「だからマルクスも再読に堪える」という考え方も出てくれば、逆に「だったらマルクスイラネ」という考え方も出る。この違いはどちらが正しいか、という問題ではない。要はそれぞれの受け手の側での事情の違いである。マルクスを含めた「思想」によりなじみの深い人文系インテリにとって「だからマルクスも再読jに堪える」という結論には十分に意味がある。こうした層にとってはマルクスと併せ読むことによって、現代経済学・ゲーム理論の理解がはかどる可能性があるからだ。 ただそれだけで済ますわけにもいかない。 山形の場合も「だったらマルクスイラネ」という結論は、何の気なしに出されているわけではない。マルクスには激烈な副作用があり、その副作用を勘案するならば、なくてすませられるなら敬して遠ざけるに越
ここんとこ毎日10年ぶりの英語論文を書いていて時間がないのでこんなことしている場合じゃないのだが(お約束)。 http://cruel.org/other/matsuo/matsuo.html#sec2 少しでもまともな仕事をやったことがある人ならすぐわかるけど、最終的な財の生産につながらずにひたすら設備投資だけが「自己目的」として増えるなんてことがあるわけないだろ! 設備ってたいがい、何か作るためのものなんだから。 これにはそれなりの解釈が可能。松尾さんは日本では珍しい小野善康シンパのマルクス主義者なので、この設備投資論は小野理論の応用編として理解が可能なのでは。すなわち、資産バブルの一種としての「不毛な設備投資」の可能性、がここで展望されているのでは。 まあしかしそうすると松尾には、マルクス主義的な物神性論とケインズの貨幣論とをきちんと結びつけるという任務が課されてしまうのだが。 ht
ダーウィンとデザイン -進化に目的はあるのか?- 作者: マイケル・ルース,佐倉統,土明文,矢島壮平出版社/メーカー: 共立出版発売日: 2008/03/07メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 42回この商品を含むブログ (12件) を見る 本書「Darwin and Design」は科学哲学者マイケル・ルースによるダーウィニズムと進化に関する3部作の3巻目ということだ.前2作はMonad to man: the concept of progress in evolutionary biology (1996),Mystery of mysteries: is evolution a social construction? (1999)で,いずれも残念ながら翻訳されていない.副題などを見る限り,前者は進化における「進歩」概念を扱ったもので社会科学者が進化を進歩と捉えたことなどを
池田信夫氏がさらりと間違ったことを書いている[via 進化論と創造論についての第1掲示板]ので、指摘しておく。 間違ってる部分は、エントリの本論とは無関係に記述されたところ:では、なぜスミスは人々が「よい均衡」を選ぶと信じたのだろうか? その答は、おそらく本書が言及していない理神論にあると思われる。これは神を人格的な存在と考えず、世界の秩序そのものが神の具現化だと考える教義で、ニュートンがその影響を受けていたことはよく知られている。彼の発見した古典力学の完璧な規則性は、まさに神の存在証明ともいえるものだった(いわゆるintelligent designは、理神論の現代版だ)。 [池田信夫: "「見えざる手」は誰の手か" (2008/03/24)]間違っている点は以下の2点: Newtonは確かに理神論の影響を受けているが、理神論とは違う立場にあった(神の介入を主張する点で) インテリジェン
The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature 作者: Steven Pinker出版社/メーカー: Viking Adult発売日: 2007/09/11メディア: ハードカバー購入: 2人 クリック: 120回この商品を含むブログ (105件) を見る さてここまでヒトが物事を理解しているフレームについて,そしてそれが言語にどう表れているかを,物質,空間,時間,因果とみてきた.本節はそのまとめになる. そしてヒトの心はこれらがヒトの目的に沿う形で適用されるようにデザインされている.つまり私達は哲学や理学の世界にいるのではなく,工学の世界にいるのだというのがピンカーの説明だ.そしてその例として取り上げるのは,いかにもピンカーらしくトイレのサイフォンにかかるHow Stuff Worksのウェブサイトの説明だ. そこ
The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature 作者: Steven Pinker出版社/メーカー: Viking Adult発売日: 2007/09/11メディア: ハードカバー購入: 2人 クリック: 120回この商品を含むブログ (105件) を見る 人の心がどのように物事を認知しているのか.もの,空間,時間ときて最後は「因果」だ. ピンカーは,私達が毎日因果についての感覚を使って,いったい何が起こっているのか,そしてこれからどうすればいいのかを考えていると指摘した後,それが実は非常に脆い土台の上にあると主張する.(脆い土台の例としてボストントンネルの材料があげられていて笑える) 因果について良く精査すればするほどそれは意味が無くなってくるし,一部の哲学者は科学は因果と別れを告げるべきだといっているそうだ. 私
「現代的な英米哲学で、男を誘惑する10の方法を大特集」 授業の席で、論理実証主義に乗せた手をそのままゆっくりとクワインの「経験主義の2つのドグマ」のほうに持っていっちゃえ! 翻訳の不確定性を口にくわえてさりげなく頭から落としちゃえ!男の子が「グァヴァガイ!」って言ったら、強引に首元に根源的翻訳しちゃおう!! 男の子と二人っきりになったら、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」って言って視線をかぷっと食べてしまおう。「論理哲学論考!」っとなって、男の子は自然と反形而上学な気分になっちゃう 男の子に数学基礎論の読ませすぎは注意!あそこが、ふにゃふにゃになってしまうから。程よい量だったら問題なし。むしろ、手の届かないようなフランス現代思想から抱かれてしまうかも(笑) 彼氏が中々積極的になってくれない貴方は、『心の概念』にチャレンジにしてみよう。機械の中で二人っきりのときに、すっと立ち
「現代思想的なポストモダニズムで、男を誘惑する10の方法を大特集」 1.授業の席で、構造主義に乗せた手をそのままゆっくりとリオタールの「ポストモダンの条件」のほうに持っていっちゃえ! 2.無知のヴェールを口にくわえてさりげなく頭から落としちゃえ!男の子が「原初状態!」って言ったら、強引に首元に思考実験しちゃおう!! 3.男の子と二人っきりになったら、「○○くんって権力を内面化してるよね」って言って視線をかぷっと食べてしまおう。「パノプティコン!」っとなって、男の子は自然と規律訓練型権力な気分になっちゃう 4.男の子にフェミニズムの読ませすぎは注意!あそこが、ふにゃふにゃになってしまうから。程よい量だったら問題なし。むしろ、手の届かないような保守主義者から抱かれてしまうかも(笑) 5.彼氏が中々積極的になってくれない貴方は、動物化するポストモダンにチャレンジにしてみよう。部屋の中で二人っきり
The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature 作者: Steven Pinker出版社/メーカー: Viking Adult発売日: 2007/09/11メディア: ハードカバー購入: 2人 クリック: 120回この商品を含むブログ (105件) を見る さて今日から第4章だ.章題は Cleaving the air.大気を切り裂くという不思議な題だが,これはカントの純粋理性批判の一節からきているようだ. 軽やかに飛ぶ鳩は,自由に飛翔しながらその大気を切り裂いていて,その抵抗を感じているだろう.もしかしたら鳩は空気がなければもっと容易に飛べるのにと想像しているかもしれない ピンカーの言いたいことは,「私達は世界を,心の中の物質,空間,時間,因果の認知にしたがって認識しているのであって,世界をそのまま理解しているわけ
ソーカル事件(ソーカルじけん、英: Sokal affair)とは、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカル[注釈 1]が、1995年[注釈 2]に現代思想系の学術誌に論文を掲載したことに端を発する事件をさす[1]。 ソーカルはポストモダン思想家の文体をまねて科学用語と数式をちりばめた「無内容な論文」を作成し、これをポストモダン思想専門の学術誌に送ったところ、そのまま受理・掲載された。その後ソーカルは論文がでたらめな内容だったことを暴露し、それを見抜けず掲載した専門家を指弾するとともに、一部のポストモダン思想家が自分の疑似論文と同様に、数学・科学用語を権威付けとしてでたらめに使用していると主張した。 論文の発表につづいてソーカルは、フランスのポストモダン思想家を厳しく批判する著作を発表し、社会的に大きな注目を浴びた。 1994年、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカルは、
日本はクオリアなる言葉が一般にも知られている奇妙な国だが、しかしその一般的なクオリア理解はもともとの哲学的なクオリア理解とはあまりに異なっていてとてもおかしい。日本でクオリアなんて用語が流行ったのは、小泉旋風真っ只中のポピュリズム時代でのある脳文化人Mの活躍のせいなのだが、未だにその後遺症はあちこちに残っている。それを正すのがこの論考の表向きの目的だ*1。 もうひとつの目的は、心の哲学における機能主義を正しく理解してもらうことだ。今でも機能主義は心の哲学どころか認知科学でも主流の立場だ。日本ではごく少数の例外を除くと心の哲学における機能主義がろくに受け入られておらず、まともな擁護どころかましな解説さえろくに見かけない。まともな解説も理解もされてないから、まともな批判がされているといえない。クオリア概念はもともと機能主義批判として現われたのだから、クオリア解説と機能主義解説をセットにするのは
以前今はなき玲奈さんのご厚意でアップしていただいていたものだが、消滅して久しいのでこちらにアップする。 ======================== 少々長い旅になったが、このあたりでいったん筆は置かれる。その前に、少し違った角度からこれまでの議論を総括してみよう。 本書前半で提示した私なりの権力概念はかなり常識的なものであり、とりわけそれが権力を振るわれると感じ、それに服従する側の主体の自覚、了解を媒介としてはたらくものと定義されている点で、少々時代遅れである、と少なからぬ読者の方は思われたかもしれない。とりわけ私は要所要所でミシェル・フーコーの所論をどちらかというと肯定的に参照しているのであり、彼フーコーこそは20世紀後半の科学的権力概念の革新者と見なされているのだから。 フーコーの権力概念が人を惹きつける理由のひとつは、不可視の、意識されず、了解されないままに作動するものとしての
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