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脳死に関するbigpoppaのブックマーク (4)

  • 『臓器移植の人類学』生死の境界線は変わっていくか - HONZ

    私たちの価値観はマクロな世論や制度設計、人々の具体的な実践や意識から影響を受け、知ってか知らずでか変化している。ひときわ新しい技術の導入は、私たちの価値観に不可逆な影響を与える。2つの異なる身体間での臓器の取引を可能にした臓器移植医療もその一つである。 著者は臓器移植医療における一番の当事者であるドナーとその家族、レシピエントから生の声を得ると同時に、歴史、理念、政治、制度、およびグローバルな秩序の生成を系譜学的に描き出して、俯瞰した視点から観察された個人の経験及び出来事を解釈していく。賛成・反対の立場をとるのではなく、臓器移植という主題に私たちが見ようとしてきたもの、そして見落としてきたものをできる限り広く収集し、深く突き詰めている。 脳死という言葉は、そもそも臓器移植をおこなうために生み出され、普及したというのが正しい 脳死が先だったのか、臓器移植医療の成立が先立ったのか、著者は複雑な

    『臓器移植の人類学』生死の境界線は変わっていくか - HONZ
  • まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利:脳死の子どもから見えてくる「生命の哲学」

    『生命倫理のフロンティア』(粟屋剛・金森修編 シリーズ生命倫理学第20巻 第6章)、2013年、95~114頁 まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利 :脳死の子どもから見えてくる「生命の哲学」 森岡正博 * PDFダウンロード *【数字】の箇所で、印刷頁が変わります。数字はその箇所までの頁数です。 はじめに 章では、脳死臓器移植を素材としながら、人間にはまるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利があるということを述べていきたい。私がこの考え方をはじめて公にしたのは、臓器移植法改正についての国会審議が大詰めを迎えていた2009年7月7日の参議院厚生労働委員会の参考人発言においてであった。いまから振り返ってみれば、この考え方は、20年以上脳死臓器移植に関わってきた哲学者としての私の思索が凝縮されたものだった。以下の考察で、このテーマを掘り下げて考えてみたい。なお、章で焦点となるのは、

  • Titled "Untitled". – 植物状態の人と、今日も会う。 仕事で。 ナースでぇーす☆命救ってまぁーす☆ ...

    植物状態の人と、今日も会う。 仕事で。 ナースでぇーす☆命救ってまぁーす☆ って昨日の合コンで言って、「実演!」なんつって脈を測るふりして手を握ったりして、 すごい楽しかったその翌日に、真顔でここにいて、気で脈を測っている。 その脈はとても規則正しく、きれいに打っているけど、 目の前の人は、目も開けない。いや、たまに半目。なんの意識もない。 何も喋んない。何もべない。自分で息すらできてない。 人工呼吸器の一定の吸気排気のリズムと、心電図モニターの音と、たくさんの点滴がぐるぐると彼を囲んでいる。 その人は、私の彼氏でもなければ、親御でもない。ただの一期一会。私はこの人を知らない。 ある日、玄関で倒れた。脳出血だったみたい。 1人暮らしで、家族はいなかった。地方から1人出てきて、兄弟からも絶縁されていた。 色々な機関をあたって、やっと連絡先を見つけて連絡を取った家族は 「いやぁ~あの~」を

  • ナッジの視点から見た改正臓器移植法: 極東ブログ

    改正臓器移植法が13日に成立し、これで日人にとって死は脳死ということになったと言ってよいだろう。もちろん、死のとらえ方は個人の領域の問題でもあり、改正法によってもその人の生前意思として脳死は死ではないのだと言うに等しい余地は残されている。それでも私は違和感が残った。「脳死は人の死か」というこの難問の根幹についてではない。その問題についてなら、いささか奇妙な視点ともいえるが、「[書評]昏睡状態の人と対話する(アーノルド・ミンデル)」(参照)、「極東ブログ: [書評]記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記(クレア・シルヴィア他)」(参照)、「極東ブログ: [書評]内臓が生みだす心(西原克成)」(参照)などともあわせて、自分なりの考察してきたし、今後も機会があれば進めたいと思っている。 違和感は、衆院選挙に向けて拙速に決めてしまった政治屋や、来こうした問題こそ政党に問われるべきことが党議拘束を

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