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世界はどこにあるのか―津村喬のインターナショナリズム - KAZUO NAKAJIMA 間奏
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世界はどこにあるのか―津村喬のインターナショナリズム - KAZUO NAKAJIMA 間奏
昨日京都大学で行われたシンポジウム「日本からみた68年5月」でのスピーチを、以下に掲載します。 4... 昨日京都大学で行われたシンポジウム「日本からみた68年5月」でのスピーチを、以下に掲載します。 400人を超える超満員! 「68年」をテーマに埋め尽くされた会場は、正直壮観でした。 聞けば聞くほど、話せば話すほど、それぞれの「68年」がある――。 主催者の方々やパネリストの皆さんをはじめ、スタッフ、そして当日お集まりの皆さん、本当にありがとうございました。 私は、六八年の五月生まれです。ですから、「六八年」についての具体的な経験や記憶はありません。 そういう私が「六八年」を意識したのは、やはり文芸批評家のすが秀実さんの影響でした。あれは確か、すがさんの「革命的なあまりに革命的な」(以下「革あ革」)が、まだ単行本になる以前に「早稲田文学」誌上で連載中のことだったと思いますが、あるシンポジウムがありました。その席上、浅田彰さんが、例によって切れ味鋭い全共闘批判を展開されていた傍らで、すがさんは