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「鍵善良房」の水ようかん「甘露竹(かんろたけ)」。 青竹にようかんを流し込んだこのお菓子は、京都の夏の風物詩として知られている。今となっては、京都のみならず、いろんな店がこのスタイルで水ようかんを販売しているが、「鍵善良房」が始めたのは昭和初期。京都の中でもかなり早かったと聞いている。 青竹を蓋しているのは、一枚の笹の葉。シュルっと笹の葉をほどくと、青い香りが鼻をくすぐる。錐(きり)で底の節に穴を開けて、そっと振るとようかんがすべり出てくる。 「甘露竹」の販売期間中は、本店喫茶室でおうす(抹茶)と一緒にいただくこともできる。 つるん、と寒天が口に入るところまでは覚えているのだが、そこからが早い。みずみずしく口の中でほどけて、すっと消える。あんのやわらかな甘みが、わずかに舌の上に残るのみ。 この”はかなさ”を何にたとえよう…と思ったら、それこそが菓銘「甘露竹」なのだと腑に落ちる。笹の葉に浮か
この記事をご覧になっている方の中には、美術館や博物館などに行った際、古代中国の青銅器を目にしたことがある方も多いと思います。謎めいて神秘的なこれらの青銅器は、今から約三千年前、殷周時代に生み出され、国や時代を超えて多くの人を魅了してきました。 そんな魅力的な中国古代の青銅器ですが、一見、何に使っていたのか想像もつかず、文様なども奇想天外であるため、どうやって鑑賞すればいいか分からない、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。 今回は、世界でも屈指の青銅器のコレクションを所持する泉屋博古館の学芸員、山本堯(やまもとたかし)さんに、青銅器とは何かというところからその奥深さまで、広く語っていただきました。 ※美術品として特に評価が高いのは殷周時代の青銅器で、泉屋博古館には殷周青銅器のほか、後の時代の青銅器も所属されています。なお、この記事で「青銅器」という場合、殷周とその周辺の時代の青銅器を
「八百万(やおよろず)の神」という言葉があるように、日本の神様は数が多いですが、「電気・電波」の神が祀られる日本で唯一の神社があります。 場所は、多くの観光客を惹きつける京都嵐山の渡月橋近くに位置する名刹、法輪寺です。 このお寺の境内には、電電明神を「電気・電波を司る祖神」として祀る電電宮(でんでんぐう)があります。 老舗の家電メーカーから新進のIT事業者まで、電気や電波に関連する企業から参拝者が足しげく訪れる電電宮とは、どのような所なのでしょうか。実際に訪れてみました。 「嵯峨の虚空蔵さん」と親しまれる法輪寺 嵐山ふもとの地域は、古くは葛野と呼ばれ、4~5世紀の応神天皇の治世には、中国からの渡来人によって開発がなされ、繁栄を謳歌していました。 くだって奈良時代に元明天皇が、行基菩薩に命じこの地に木上山 葛井寺を建立しました。713年のことだそうです。 平安時代の初期、道昌(どうしょう)僧
能ときくと、ゆっくりした動き、低くうなる声などを想像してしまう。だが、しかし! 足利義満や世阿弥の時代、能のテンポは今の2~3倍速かったという衝撃の研究があるらしい。 なぜ今の能は遅くなったのか? さっそく研究者に聞いてみよう。お話を伺ったのは、早稲田大学演劇博物館顧問・早稲田大学名誉教授の竹本幹夫先生。秀吉の時代の資料を集め、当時の速いテンポとメロディーの能を復元した経験がある先生だ。 尚、聞き手はオフィスの給湯室で抹茶をたてる「給湯流茶道(きゅうとうりゅうさどう)」。「給湯流」と表記させていただく。 「演技がノロすぎる!」と徳川幕府に通報され、出禁になった能楽師もいた? 給湯流茶道(以下、給湯流):今の能に比べて、世阿弥のころの能は2~3倍の速さで演じられたと聞いたことがあります。しかし、映像データが残っていない室町時代のことをどうやって調べているのでしょうか? 竹本幹夫先生(以下、竹
暗闇で「暗くてお靴が分からないわ」と履き物を探す女性に第一次世界大戦後に造船業で成功した恰幅の良い実業家(船成金)が火をつけた百円札をかざし「どうだ明るくなったろう」というセリフの描かれたインパクト絶大な風刺画。歴史の教科書で見たことがある!という人も多いのでは?この風刺画を書いたのが和田邦坊(わだくにぼう)なのです。この作品は発表して90年以上もたちますが今でも様々なメディアで取り上げられ、令和になった今でもSNSでバズったりもしているのです。邦坊とはいったいどんな人だったのでしょうか? 和田邦坊「成金栄華時代」※全ての作品画像提供:灸まん美術館和田邦坊画業館 小説家、商業プロデューサー、画家とマルチな活躍 和田邦坊は香川県出身(1899~1992年)で時事漫画家、小説家、商業プロデューサー、讃岐民芸館館長、デザイナー、画家として活躍しました。 和田邦坊 1929年(昭和4年)に東京日日
あなたは「イケメン日本画」をご存じだろうか。立派な、この図屏風…… ▲男子楽園図屏風/木村了子 よく見ると現代のイケメンが描かれている。しかも農作業中! この作品を描いたのは、木村了子さん。椎名林檎や坂本冬美の作品にも絵を提供する売れっ子作家だ。東京藝術大学の出身で、西洋画を学んだそう。しかし今は、日本画の手法で現代のイケメンを描いている。木村さんが描く男性は美しい顔なのに、よく見るとじわじわ笑いがこみあげる。この独特のおかしみはどこから来るのか……日本美術史の研究者に聞いてみた。また、記事の後半では木村さんご本人も登場! なぜ油絵から日本画に転向したのか、涙と笑いあふれる経緯をきいた。お二人に話を伺うと、日本美術の歴史にもいろいろな「男女問題」があったことが判明。そんな件も含め、ぜひお読みいただきたい。 尚、聞き手はオフィスの給湯室で抹茶をたてる「給湯流茶道(きゅうとうりゅうさどう)」。
鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡(あずまかがみ)』にはこのように書かれています。 矢口の餅を用意したのは、北条義時(ほうじょう よしとき)です。一枚のお盆の左側に黒色の餅が三つ、中央に赤色の餅三つ、右側に白色の餅三つが置かれていました。餅の大きさは、長さが八寸、幅が三寸、厚さが一寸です。このお盆は三枚用意されて、頼朝様の御前に置かれました。 こんなカンジですかね……? 最初に工藤景光(くどう かげみつ)が呼ばれて前へ出てきて、蹲踞(そんきょ)しました。 蹲踞とは、当時の武士が目上の人に対して改まった座り方です。相撲や剣道の試合前の座り方ですね。 そして白い餅を真ん中に置き、赤い餅を右側に置き直しましました。 あらあら、義時が間違えちゃったんでしょうか それからそれぞれを一つづつ取って、黒が上、赤が真ん中、白が下になるように重ね、座っている左側の横に倒れた木の上に置きました。この分は山の神に供
犬王(いぬおう)をご存じだろうか。足利義満の時代にめちゃくちゃ人気があった能楽師だ。世阿弥が美少年だったころ、義満にかわいがられたエピソードをご存じの方は多いだろう。しかし世阿弥が大人になったころ、むしろ義満は犬王のほうを推していたとか。 当時の大衆人気もすさまじく、犬王が出るステージはいつも満員。一目でも犬王を見ようと、近くの屋根にのぼって見る客もいたというからすごい。しかし今、犬王の記録はほとんど残ってないという。そんな謎に包まれた犬王が主人公として歌い踊るアニメが2022年5月28日(土)から全国の映画館で公開されている。 ▲©2021 “INU-OH” Film Partners 監督はアニメ『映像研には手を出すな!』の湯浅政明、脚本は『アンナチュラル』野木亜紀子、キャラクター原案は松本大洋、音楽は『あまちゃん』大友良英、と、人気者たちが名を連ねる。さらに声優は、アヴちゃん(女王蜂
藤子不二雄Ⓐの『まんが道』。 1970年に『週刊少年チャンピオン』に連載された「あすなろ編」にはじまり、2013年に続編『愛…しりそめし頃に…』が完結するまで43年にわたって描かれた半自伝的作品。 フィクションの要素が多いながらも、藤子不二雄(ふじこふじお)両名をモデルとした満賀道雄(まがみちお)と才野茂(さいのしげる)の歩む青春が、戦後草創期のマンガと共に描かれていく。マンガ家ならずとも、なにかの志を持って上京した人には欠かせない、生涯何度も読み返す作品だろう。 誰もが成功するわけじゃない『まんが道』 でも『まんが道』は単なる成功の物語ではない。今なお伝説として語られるトキワ荘に集う若きマンガ家たち。 彼らのすべてが成功したとは言い難い。 例え成功しなくても……創作に人生を賭ける者は絶えない 中でも読み進めるうち次第に気になってくるのが、同じくマンガ家を志していた森安なおやである。 藤子
こんにちは。いくつかのシリーズで私を認識している読者の方は、なんとなく「承久の乱の朝廷方推しなのかな?」と感じている人もいるでしょう。そうです。めちゃくちゃ朝廷方推しです。 2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、北条義時が主役なので、朝廷関係者はどれほど出るのかは不明ですが……。承久の乱を描くには外せない貴族が4人います。それが、乱の首謀者として処刑された、葉室宗行(はむろ むねゆき)、葉室光親(はむろ みつちか)、高倉範茂(たかくら のりもち)、源有雅(みなもと ありまさ)です。 彼らは承久の乱の後、源有雅は東山道(とうざんどう=近世の中山道)、他3人は東海道を通って鎌倉に護送されますが、その途中で処刑されてしまいました。 そこで今回は東海道で鎌倉に向かった3人の貴族を追ってみました! 葉室宗行の半生 葉室宗行さんは承安4(1174)年生まれ。後鳥羽上皇の側近で権中納言(ごん
もし「東京の城といえば?」と問われたら、何と答えますか? たいていの人は「江戸城」と答えるでしょう。現在の皇居を含む、日本最大の城跡です。「では、江戸城以外では?」と重ねて問われたら、どうでしょう。「他にもあるの?」というリアクションをする人が多いかもしれません。そもそも世界有数の大都市東京と、昔の城跡のイメージは結びつきにくいものです。しかし実際のところ東京には、23区内に約100、多摩地域を含めた東京都全体では約200もの中世の城がありました。ちょっと驚きませんか? たとえば八王子市の滝山城や八王子城、町田市の沢山(さわやま)城など、多摩地域には当時の姿をよく留める山城や丘城の跡がいくつもありますし、23区内でも世田谷区の世田谷城や、練馬区の石神井(しゃくじい)城などは、土塁や堀などが比較的わかりやすいかたちで現存しています。 さて、それら都内の城の中で、戦国時代に山内上杉(やまのうち
みなさんは「武士」と聞いたら、いつの時代を思い浮かべますか? 鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代か……意見が分かれそうですね。武士はそれだけ長い間、日本の支配階級として権力を持ちつづけていました。 武士スタント逢坂くん!(1) (ビッグコミックス) 武士の起源はどこにある? 平安後期に、武士はそれまでの支配階級だった貴族に代わって実権を持つようになりました。やがて鎌倉幕府が誕生し、武士は日本社会の中心的存在となっていきます。 もちろん、彼らはある日ひょっこり誕生したわけではありません。平安時代に台頭した武士の起源は諸説あり、以下のように言われています。 貴族に支配される都に対し、地方では有力な農民が豪族として力をつけ、彼らが自衛のために武装するようになった。 もともと都には、武芸を生業(なりわい)とする家系に生まれ、武の専門職(武官)として朝廷や貴族に仕える下級貴族たちがいた。 問題の
「歴史にifはない」と申します。確かに、過去や今は変えられません。日々の小さな出来事の積み重ねで、私たちの「今」があるのですから。 しかし、未来は変えられます。歴史を紐解き「もし、あのときこうだったら」を考えれば、新しい未来が見えてくるかもしれません。NHK大河ドラマ『青天を衝け』の舞台となった激動の幕末・明治から「何が起きなかったか」を一緒に考えてみませんか。 ※本シリーズは歴史ライター・大山格氏のご寄稿によるものです。
アニメ『鬼滅の刃』の舞台としても登場する遊郭。そこで働いていた遊女たちにはいろいろな格付け、仕事上の階級がありました。立場によっては、働きかたも大違い。 遊女の格、そして格上の遊女に必須の資質とは? 遊郭ってどんな場所? 豊臣秀吉が天下を統一したのち、1585(天正13)年に大坂に、1589(天正17)年に京都に遊女(ゆうじょ)を集めた場所をつくったのが遊郭(ゆうかく)の始まり。女好きの秀吉は、遊女を集めて武士たちを慰労しようと考えたようです。 江戸時代にはそれを引き継ぐように江戸吉原、大坂新町、京都島原、長崎丸山など全国に約20カ所の遊郭が設けられました。実は最初、幕府は徳川家に敵対心を持つ浪人が遊女たちを隠れみのに集まるのを警戒し、江戸から遊女を追い出そうとします。が、それをあきらめて遊女を1カ所に集めるという形で、取り締まることにしたのです。 遊郭の郭とは城の囲いのこと。遊郭が周囲を
日本人には知られていないが、海外では人気の日本製品。 そのような内容の記事を、筆者は他のメディアでも書くことがある。日本人は、案外自分たちのことをよく知らない。たとえば「海外では日本のこんな製品が話題になってるんだよ」と書くと、時折その記事がバズってしまう。疑い深い人は「澤田はまた嘘をついている」などとSNSに書いたりするが、まあそれだけこのネタはよく読まれるということだ。 今回は、ナイフの話である。 肥後守(ひごのかみ)と男子小学生 さて、筆者澤田真一はナイフコレクター。 ナイフは文明の礎である。道具を作るにも料理をするにも、ナイフは絶対に欠かせない。また、ブレードの製造は高度な技術がなければできない。人間が人間である所以、それはナイフの存在である。 昔の子供は、それを直感的に理解していた。 兵庫県三木市の企業永尾かね駒製作所は、『肥後守(ひごのかみ)』という折り畳みナイフを製造している
「日本語研究を大成した人は誰ですか」 「本居宣長」 本居宣長の功績は歴史や国語の教科書にも記されている。多くの人々はそう答えるかもしれない。 日本にキリスト教をもたらしたイエズス会もまた日本語研究に多大な貢献を果たしていたことはご存知だろうか。 驚くべきことに、外国出身でありながらイエズス会の宣教師が成し遂げた功績は、天才国学者として讃(たた)えられた本居宣長を凌駕するものであったのだ。 イエズス会の宣教師は日本文化の翻訳者だ イエズス会の宣教師は、キリスト教の伝道師のみならず、いわゆる日本文化の翻訳者でもあった。 イエズス会は活版印刷技術の黎明期に、実に多くの日本語研究書や教義書を総集成し、天草や加津佐(かづさ)の地にてポルトガル式ローマ字本や国字本を刊行。宣教師たちは『平家物語』や『伊曾保物語(いそほものがたり)』、『金句集(きんくしゅう)』を日本語教材にするために、室町時代の話し言葉
みなさん「おから」と聞いて思いつくのはどんなお料理でしょう? 私が1番に思いつくのは、お野菜が具材でお出汁で甘辛く味付けした炒り煮。最近では、ドーナツやケーキに混ぜてあったり、ヘルシー食材としてポテトサラダの代わりにも使われていますね。 私は、おからが大好きで、特にお葱と浅利を具材にして炊いたものが大好物! しかし、子供の受けがあまり良くなく、張り切って作ってもあまり食べないので悩んでいました。 おからで「やったー!」と喜んでほしいと思うのは贅沢かしら、と思いながら試作を重ねて出来たのが今回のお料理です。 これを出すと初めは不思議そうだった子供達も、今では「やったー!たくさん食べる!」と大喜び。朝におやつに夜ご飯に、大好物になりました。意外なことに、私の両親もお気に入りで、教えたところよく作っているそう。おつまみやサラダの具にもぴったりなんです。 (材料) 生おから 300g 玉ねぎ 1
今までに体験したことのない自粛生活。自分を律することの難しさやリアルに人と会えない、話せない生活は、否応なしに自分自身と向き合う時間となった。「美味しいものが食べたい!」「外に出たい!」「喋りたい!」など、あまりに当たり前だったことができないことの辛さ、もうこれは修行以外の何物でもない! そう思い、血迷いながら占いにはまったり、瞑想してみたりするものの、心落ち着かない私は、考えあぐねた結果、一つの答えを得た。「そうだ、仏像を彫ろう!」。仏教美術の知識にうとい私でも、仏像を見るとなんだか心落ち着くではないか。しかし思い立ったのもつかの間、すぐに壁にぶち当たった。何を隠そう、私は子どもの頃から家族もあきれるほどの不器用だったのだ。その顛末は最後に書くとして。 この仏像を生涯に12万体も彫ったといわれる人物がいた。江戸時代に生きた円空上人だ 「善財童子立像」(神明神社所蔵)円空自身と言われる善財
最近、何気なくtwitterを見たら、トピックスに有名タレントの訃報を伝えるニュースがあってびっくり、ということがあります。 「最新ニュースの情報源って、SNSが発達する以前は何だったんだろう? テレビ、ラジオ? 新聞? その前は……?」と遡っていったところ、江戸時代には「瓦版(かわらばん)」というメディアがありました。瓦版とは、地震・火事から仇討(あだうち)・心中事件といったワイドショー的なネタを記事にして街頭で売り歩いた印刷物のこと。これとは別に、「死絵(しにえ)」と呼ばれる訃報を伝える錦絵もあったとか。 そこで、この記事では「死絵」を取り上げ、どのようなものだったのかを紹介します。 そもそも、「死絵」とは? 「死絵」とは、歌舞伎役者など、人気のある人が亡くなった時に訃報と追善を兼ねて作られた錦絵のこと。江戸中期から明治後期にかけて出版されました。 その特徴は、役者の似顔絵に亡くなった
「初めてフランスに来た日本アニメ」、「日本アニメの火付け役」、「ジャパンポップカルチャーの伝道師」。なんのアニメかわかりますか? フランス名は「ゴールドラック(Goldorak)」、日本では「UFOロボ グレンダイザー」と呼ばれています。 それでも、ピンと来ない方は「マジンガーZ」の3シリーズ目と聞いたら、少しイメージが湧くでしょうか。日本ではあまり馴染みがないけれど、フランスでは誰でも知っていて、今もなお絶大な人気を誇っています。日本でロボットアニメといえば「鉄腕アトム」、「鉄人28号」が先駆けとなり、「マジンガーZ」で更に飛躍したといわれています。そんな「マジンガーZ」の3シリーズ目が、製作45周年という節目にパリで続々とイベントが企画されています。なぜフランスでそこまで人気なのか、その秘密に迫ります。 フランス人が半世紀近く愛する「ゴールドラック」とは 2021年9月15日(水)から
サムネイル画像は日本海海戦後に凱旋した第一艦隊幕僚たち。秋山真之会編『秋山真之』(昭和8年。国立国会図書館デジタルコレクション)より はじめに 日露戦争の発端は何処にあるのでしょうか? 日本がロシアを仮想敵国として強く意識しはじめたのはシベリア鉄道の着工がきっかけです。そのことは【日英同盟の回】で詳しく書きました。鉄道が開通する前、すでにロシアの版図は沿海州にまで及び、さらに領域を拡大しようとする形勢にあって、欧州と極東が鉄道で結ばれれば、さらに進出してくるだろうと予測されていました。 日本が恐れていたのは、かつてモンゴルが九州を襲ったときのように朝鮮半島が列強の基地になることでした。理想からすれば、日本は清国、朝鮮国と提携して列強の東アジア進出を食いとめることが望ましいのですが、現実には【日清戦争】に至ってしまいました。そして、戦争には勝利したものの、三国干渉によって領土は獲得できません
秋です。おいもの美味しい季節です。 いもくりなんきんは女性の好きな食べ物といわれていますね。江戸時代の女性も同じような嗜好をしていたようで、ついついふかし芋を食べてはおならをしてしまうということが多くあったようです。 しかしそれは、当時の身分の高い女性にとって死活問題。人前でおならをしてしまった恥ずかしさから自殺をしてしまったり、引きこもりになってしまう人がいたほどといわれています。おならの身代わりをする職業も誕生したとか? 一方で、庶民の女性のあいだではおならをすることは日常的なこと。人に聞かれてもへっちゃらなだけでなく、屁こき合戦までしてしまう始末。 そんな江戸時代のおなら事情についてご紹介します。 女性達のミスを華麗にカバーする「屁負比丘尼」 江戸時代、身分の高い女性たちはメンツを保つことがとても重要でした。そんな女性たちにとっておならをするのはメンツ失墜の危機。そんなはしたないこと
はじめに 明治時代には、米欧列強のアジア進出のことを「西力東漸」(セイリキトウゼン)と呼びました。インドのムガール帝国がイギリスの侵すところとなり、その東にあるビルマもまた独立の実態を失い、インドシナ半島は仏領に組み込まれ、北からはロシアがシベリアを呑み込んで沿海州まで手を伸ばすに至りました。 世界の東の果てと呼ばれた日本とて、幕末には「西力」が及びはじめ、このままではイケナイと明治維新を迎えたのでした。この場合、朝鮮国や清国とは仲良くして、列強に対抗した方が良いに決まってるんですが、なかなかそうは行きませんでした。 イギリスやフランスはアフリカの喜望峰を経由してインド洋を横断し、マラッカ海峡を経て西太平洋に出ます。西洋の軍隊は物凄く強いけれども、数は多くないのであります。だから、極東の三つの国が連盟したら、見通しは明るいハズですけれども、実際には戦争するほどこじれてしまいました。どうして
はじめに 明治元年3月、まだ江戸開城交渉が妥結していなかったとき、明治天皇は 「広く会議を興し、万機公論に決すべし」 と、天地神明に誓いました。このとき撒いた種が芽生え、育ち、花開き、実を結ぶまで20年以上をかけて数々の段階を踏んできました。 それが現実のものとなったのが、明治憲法の制定と国会の開設です。 多くの血と涙を流しながら歩んできた20年余の足取りを、たどってみましょう。 やっと「公議」が実現したけれど まず明治新政府は明治元年閏4月21日(1868年6月11日)に政体書を公布、「天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス」ことを宣言しました。今後は政令すべて太政官(ダジョウカン)から発せられるということです。そして、太政官制の下で立法、行政、司法の三権を分立すべきことを政体書に盛り込んでいました。このとき江戸開城で戊辰戦争は終結すると期待していたんじゃないかと思われますけれど、東北・北越戦
明治23(1890)年9月16日夜半、トルコ軍艦エルトゥールル号(以後「エ号」と称する)が和歌山県沖で座礁・沈没した事件は、死者が500名を超える(生存者69名)という大惨事となりました。このとき献身的に救助にあたった当時の大島村(現串本町)の住民の行動を始めとする日本側の対応は、その後のイラン・イラク戦争における救援機の派出というトルコ政府の恩返しともいえる美談とともに日本・トルコの友好の証となっています。 参考:日本とトルコの絆をつないだ物語|串本町 生存者69名は、軍艦「比叡」と「金剛」によって本国に送還されますが、それは少尉候補生の遠洋練習航海を兼ねてのトルコへの航海でした。その派遣の決定からトルコへの航海について、あまり知られていないことを紹介したいと思います。 エルトゥールル号 『土耳其國軍艦エルトグルル號』駐日土耳其國大使館(海外印刷所 昭和20年刊行)国会図書館デジタルコレ
東京都心から電車とバスを乗り継いで約1時間半。神奈川県との県境に近い、町田市の鶴川にある「武相荘」という、一見冗談のような名前のミュージアムをご存知でしょうか?正式名称は「旧白洲邸 武相荘」(きゅうしらすてい ぶあいそう)といい、数々の名著で知られる作家・白洲正子と戦後の名宰相・吉田茂のブレーンとして日本国憲法制定と戦後復興のキーマンとして活躍した白洲次郎が亡くなるまで暮らした家として知られています。 実はこの武相荘、2001年の創刊時から繰り返し取材を重ね、その魅力を読者にお伝えしてきた、「和樂」にとって非常に思い入れのある取材先の一つなのです。そんな「武相荘」が2019年秋から雑誌「和樂」で定期購読者向けに発行している「和樂パスポート」の提携先に加わりました!(※詳細は本記事の最後をご参照ください) 和樂Webでは、これを記念して、和樂本誌とともにミュージアムの歴史を共に共有してきた「
みなさんはご存知でしょうか、日本語の「鮭(サケ・シャケ)」が、アイヌ語の「シャクイペ(sak-ipe)=夏の食べ物」に由来しているということを。(※諸説あります)そう、鮭の本場はなんといっても北海道、そして鮭料理の本場はなんといってもズバリアイヌ料理です。 この度東京都九段下にて、鮭をまるごと一匹調理する本格アイヌ料理教室が開かれると聞きつけ、さっそく参加してきました。北の大地で培われたアイヌ料理には、体を温めるための知恵がいっぱい。寒い冬を越すのが怖くなくなる、絶品料理をレポートします。 講師の宇佐照代(うさ・てるよ)さん。(チタタプ仕上げ中)関東アイヌの一人として、日本中、世界中でアイヌ文化継承活動をされています。またアイヌ料理屋を営む料理のプロフェッショナルでもあります。 アイヌにとって鮭は「神の魚」 今回お料理する鮭は、アイヌ語で「カムイチェプ=kamuy(神の)cep(魚)」また
8月15日、終戦の日。昭和20年のこの日、昭和天皇による終戦詔書の音読がラジオで流れました。この終戦から4年前の昭和16年10月30日。「時局にそぐわない」とされた落語の台本が落語家たちによって「はなし塚」に埋められていました。 はなし塚に葬られたのは53の落語の演目。その後、落語家たちは扇子ではなく銃を持たされ、戦禍へと巻き込まれていきます。 全ては御国のためという名の下に、思想までもが軍事統制されていた時代。笑いを求めることすら罪となった時代が、確かに存在していたのです。 噺家が自ら自粛した禁演落語 「禁演落語」とは、戦時中に「戦意高揚を妨げる」として、噺家達が演じることを禁じた落語をいいます。 現在のテレビなどのメディアで放送できない「艶笑落語」や「差別用語、偏った思想が入った落語」は「放送自粛」されているものであり、禁演落語とは別のものです。「禁演落語」とは、あくまでも第二次世界大
まだテレビのない昭和の初め、子どもたちの娯楽といえば街頭紙芝居だった。その人気の火付け役となったのが、1931(昭和6)年に登場した「黄金バット」。ドクロの仮面をつけた正義の味方バットがナゾー率いる悪の組織と戦う物語は、今に続く変身ヒーローものの原点と言える。空飛ぶヒーローとしては米国のスーパーマンよりも登場が早かった。描いたのは永松健夫(1912-61)という人物。当時、東京高等工芸学校で図案を学ぶ学生だった。 永松健夫が描いた紙芝居「黄金バット」より(1931年ごろ 谷口陽子さん提供) その原画を見て驚かされた。当時の日本に存在しなかった超高層ビル群、巨大ロボット怪獣、UFOのような空中砲台、殺人光線、山脈を貫く地下鉄道、最先端ファッションに身を包んだ男女の姿。どれもリアルなタッチで細密に描かれ、とても子ども向けの紙芝居とは思えない未来的な空想科学の世界が繰り広げられている。 永松健夫
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