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共同体に関するlotus3000のブックマーク (27)

  • 『イスラームのロジック』イスラームと世俗国家

    中田考先生の『イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで』について続けます。 第二章「イスラームと現代社会」から、イスラームと世俗国家について。 存在する社会集団と個人の多様性を暴力的に抹消し、無理やりに均質化することによって成立した「国民国家」は、「国民主権」、「一般意思」等のフィクションの下に、「国民」の集合体、総意の化身として、人格化、神格化される。 アメリカの宗教社会学者ユルゲンスマイヤーが指摘する通り、世俗的ナショナリズムは「信仰の表現」であり、教義、神話、倫理、儀礼を持つ「部族宗教」の一種である。 地上における不死の神「リヴァイアサン」たる西欧国民国家概念ほど、イスラームの世界観から遠いものはないが、それは範疇をまったく異にする、という意味ではなく、むしろ範疇を同じくして対極にあるものなのである。 西欧近代主権国家概念における主権は、そもそも国内的に最高権力を、対外的に独

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    2024年夏 かばんの中身記録 みんな大好きかばんの中身。 当然私も大好きで、人様のブログ記事やSNS投稿を飽きもせず読み込みまくっています。なぜこんなにも見飽きないのか… 自分も以前同じようにかばんの中身の記事を書いたんですが、気づけばもう3年前!去年くらいの気分だった、月日がたつの…

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    lotus3000
    lotus3000 2010/09/21
    上野俊哉のあずまんdis.
  • 右翼/左翼(メモ) - Living, Loving, Thinking, Again

    http://kyoto-edu.bne.jp/~althusser/blog/index.php?no=r260 『重層的非決定』というblog。「たとえばモーニング娘。とアルチュセールを*同時に*語る、ということ」とある。でも、「重層的決定」ならぬ『重層的非決定』は吉隆明だし、というのはともかく、曰く、 「右翼」「左翼」を論じる際にはまずは経済的な立場と思想的な立場(イデオロギー)はとりあえず切り離しておいた方がすっきりする。そしてこの対談の趣旨からしてもここで問題にしているのはイデオロギーとしての「右翼」だろう。イデオロギーと経済的な土台とは整合しない方が普通である。それがイデオロギーのイデオロギーたる所以だ。 こうしていったん切り離した上でイデオロギーとしての「右翼」「左翼」を考えれば、私は「一君」ではなく、「共同体」をキータームに据えるのがよいと思う。閉ざされた共同体の価値を尊

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    晴天の価値 2月中旬に出張で千葉へ行った。5日間の滞在中はずっと快晴で、気温は20℃に迫る春のような暖かさだった。仕事は朝から晩まで現場を走り回る過酷なもので、身体的にも精神的にも追い込まれた。毎朝、京葉線から見える美しい景色を眺めて正気を保っていた。太平洋へ燦々と…

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  • 「弁証法」? - Living, Loving, Thinking, Again

    http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20100625/1277477865 曰く、「「武装した農民」が身分としての「武士」になるには、それこそ弁証法的展開が必要となる」。また、「「武装した農民」から「武士」への弁証法的展開の触媒となったのが軍事貴族である」。 「弁証法的展開」とか「弁証法的展開の触媒」というのがよくわからない。上のエントリーで述べられていることは清和源氏が自らを「武家の棟梁」として確立していく多世代的なプロセスであり、それ自体としては明瞭である。しかし、「弁証法的展開」とはこれ如何に? 上のエントリーによれば、源氏が自らの「武家の棟梁」としての地位を固めた契機は前九年の役/後三年の役である; 頼義は安倍氏との12年戦争の中で東国の武士と関係を深め、武家の棟梁としての地位を確立して行く。逆に言えば、皇族出身の頼義と結びつくことで、「武装した農民

    「弁証法」? - Living, Loving, Thinking, Again
  • なぜみんなは喫煙に寛容だったのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    なぜ人々はたばこに寛容だったのか pikarrr*1: たばこってほんとに迷惑なものだよね。臭くて有害な煙をところかまわず撒き散らす。驚きなのが最近まで制限がなかったことだ。なぜいままでみんなたばこに寛容だったのか。 kiddoei*2: 多分、個人主義的権力と生ー権力の台頭によるものではないでしょうか。良くも悪くも。 pikarrr: 個人主義的権力とは? kiddoei: つまり、個人が共同体としての利害よりも個人(自他を含む)の快不快の都合を優先と考え始めた事に起因するものかと。 pikarrr: それでは以前は共同体の利害を優先したようですが? kiddoei: はい。以前は優先していたと思います。程度の問題ではありますが。 pikarrr: 以前の人々はいまより思いやりがあったとか? kiddoei: う〜ん、どうでしょうか。分煙やバリアフリーなんかの機能としての思いやりは増加し

    なぜみんなは喫煙に寛容だったのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 共同体というものをどう想像するか

    1 「歴史主体」論争とポストモダニズム 加藤典洋の「敗戦後論」とそれに対する高橋哲哉の批判から始まった「歴史主体」論争と呼ばれる論争で提起された重要な問いは、日人というネイションを名指しした他者の訴えに応答することと、ネイションという枠を脱構築することを、どのようにつなげることができるのかという問いであったように思う。すなわち、この論争の特徴は、国民としての主体化を拒否し、ネイションといった共同体を超えることを目指していた戦後世代の「ポストモダニスト」たちのあいだで起こった論争だという点にある。そして、そこが、質的にはポストモダニズムを国民意識の基盤への攻撃者とみなす排他的なナショナリストたちの運動である「自由主義史観」や「新しい歴史教科書をつくる会」と、それを日歴史修正主義として批判する側とのあいだの対立とは根的に違っていた。 しかし、先の問いは、加藤の議論と「自由主義史観