本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、明智光秀[注釈 4]が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した事件である[12]。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたことを悟ると、寺に火を放ち、自害して果てた[12]。信長の嫡男で織田家当主の信忠も襲われ、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、やはり建物に火を放って自害した[13]。信長と信忠の死によって織田政権は瓦解するが、光秀もまた6月13日の山崎の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れて命を落とした。事件は秀吉が台頭して豊臣政権を構築する契機となり、戦国乱世は終焉に向かった。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、多種多様な説がある(各説については変の要因を参照) 天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼・信勝親子を天目山に追い詰めて自害[14][注釈 5
