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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/hotokeya (563)

  • ぶらり四日市その四十八 三重軌道敷設計画 - 花の四日市スワマエ商店街

    GGシニアさんが、昭和11年の1枚の絵葉書の謎をアップしていただきました。 (1) 「四日市の写真で/昭和11年にタイムスリップ/ 四日市港沖には・・・!!」 - YouTube さて、たいじゅさんからお預かりした貴重書類です。 明治42年10月、三重軌道敷設にあたり取締役社長の九鬼門七氏は、当時の総理大臣 桂 太郎氏と県知事宛てに申請書を出しています。たいじゅさんは、その時の書類を取得されてみえたのです。驚きです!何という根性でございましょうか。 右から②右から① 三重軌道敷設は、室山方面の糸、味噌、醤油などを四日市へ運び、港から地方へ輸出するのが目的でした。従って、始発は阿瀬知川沿いで計画されました。そこから、関西線の線路沿いに北へ、町踏切の手前当たりに三重軌道四日市驛を設置、西へ折れて諏訪神社へ向かう真っすぐの道沿いに沖ノ島(郵便局あたりか)・諏訪(三菱UFJ銀行付近)。南へ折れて

    ぶらり四日市その四十八 三重軌道敷設計画 - 花の四日市スワマエ商店街
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    quick_past 2023/06/22
    “三重軌道敷設にあたり取締役社長の九鬼門七氏は、当時の総理大臣 桂 太郎氏と県知事宛てに申請書を出しています”この九鬼一族が四日市公害の一端を担った企業の経営者一家なんだよなあ・・・
  • ぶらり四日市 その四十九 ダイヤモンドクロッシング① - 花の四日市スワマエ商店街

    「日露戦争が終わる明治の末期になると、政府は鉄道政策を打ち出し、全国に軽便鉄道ブームが起きた。」椙山 満著“ふるさと点描”より 「当時、自動車はなく、完全な道路もなかった時代、鉄道の開発は地域開発、農村振興のための急がねばならぬ国策の一つであり、多くの地域社会が鉄道の導入を熱望していた。時の鉄道員総裁 後藤新平は、全国の私鉄の国有化と合わせて、民間の投資と運営による地方の鉄道敷設に補助金を出しその発展を促した。明治43年“軽便鉄道法”が施行される。」 明治43年1月15日 三重軌道は四日市・室山間の鉄道敷設を願い出る。(たいじゅさんの持ち込まれた資料から)そして、この時は前回ご紹介の通り“諏訪前道路に軌道布設の件”とある。この段階では、諏方神社から東へ、諏訪新道・沖ノ島・四ツ谷の道に敷く予定だった。 ところが、明治43年3月18日に四日市鉄道から三重軌道の申請コースと交差するので危険である

    ぶらり四日市 その四十九 ダイヤモンドクロッシング① - 花の四日市スワマエ商店街
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    すんごい資料だ
  • ぶらり四日市その三十八 湊小路② - 花の四日市スワマエ商店街

    たいじゅ様からコメントをいただき 湊座東 線路を背に川村座があったことが 大正期の地図からわかります。湊座に比べて可愛らしい小屋だったようです。 町の水谷宜夫様からお借りした地図でゴザイマス たいじゅ様のコメントです 母方の祖母がまだ健在で働いていた頃、祖母の住まい(借家だったと思う)がまさにこの新町内にあり小さい頃よく遊びに訪れました。地図で言うと線路沿い「川村座」北の三叉路の北西側の一角(東側)だったと思います。記憶の中にわずかに残る程度ですが、旅籠?遊郭?を思わせる不思議な家屋の作りだったことを思い出します。湊座が空襲で焼失したならば至近だった祖母の住まいだった場所も焼失したでしょう(祖母は戦後移り住んでいる)。とすれば、子供心に古く感じたあの家ですらまだ新しい昭和20年後築ということか・・・ 戦争直後の空撮 赤丸のあたりだと思いますが すっかり焼けているようです “旧四日市を語る

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  • ぶらり四日市 その四十 四日市西駅 - 花の四日市スワマエ商店街

    あすなろう鉄道編が アップされました GGシニアさんでご覧ください (129) 「日で4路線しかないナローゲージ/あすなろう鉄道に乗ってみた」 - YouTube 昭和11年 町の踏切から西方向に撮られました(四日市の100年より) 西駅前から北方向 左に物産館が建ちます 昭和11年 バスが停まっています 西駅舎入り口の右に売店 左に電話ボックスでしょうか? 広場一面に水が撒かれます 駅前はバスとタクシー乗り場になっていました 菰野自動車や三重自動車のボンネットバスが並びます 遠くに見えるのは善光寺山門? 向かいには四日市自動車があります 左の広告塔には 国産振興博覧会 の文字が 昭和11年 開催中です

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  • 市街地への大学誘致構想スタート - 花の四日市スワマエ商店街

    JR駅前に?と噂になっておりました 大学誘致の件が ようやく策定事業に進みます。もともと四日市大学は 郊外にあり 今後の人口減少に伴って生徒数も減り 利便性の良い市街地への移転が話題になっておりましたが、これで 昭和31年以来地盤沈下が進んできた諏訪、町・沖ノ島町に 一筋の光明が見えてまいりました。 昭和31年頃の航空写真 大学キャンパスは 赤丸のあたりか?

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  • ぶらり四日市 その三十一 四大事業 - 花の四日市スワマエ商店街

    四日市は、明治30年8月市制実施をしました。そして、稲葉三右衛門翁の遺志を引き継ぎ、明治39年に市は港の四大事業に取り掛かったのです。(椙山 満著“四日市市史より) その四大事業とは、 1.阿瀬知川の開さく(川口の築港化で、のちに末広川と呼ばれる運河になる) 2.入江の浚渫(港―蓬莱橋―開栄橋―思案橋に至る運河の浚渫のことで、のちに浜町運河と呼ばれるもの) 3.海面の浚渫埋立(高砂町から南方の海浜を埋め立て、南納屋町との間に納屋運河を造成し、1.の末広川と結ぶ。 4.訪新道の近代化(諏訪神社-沖ノ島―四日市駅(国鉄)間道路の近代化と、更に高砂町まで延長して新しい港新道をつくる。 明治43年四日市港起工式 この四つの大工事は、幾多の難局(シーメンス事件や第1次世界大戦)を乗り越え、大正期になってようやく完成されました。 四大工事の内2.によって埋め立てられた尾上町と東海電線のあった西末広町と

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  • ぶらり四日市 その二十八 諏訪新道① - 花の四日市スワマエ商店街

    “四日市史”四日市市南町 伊藤善太郎 著・明治40年5月13日発行 (町・水谷宜夫 所有)の“運輸交通”の項目に、 町 水谷宜夫氏所有 諏訪前道路・・・諏訪前より停車場(国鉄四日市駅)に通ずるものにして、戦後(日清・日露戦争)各種の事業勃興すると共に、戸口劇に増加し、遂にこの新道路改修の止むを得ざるに至り。今や改修功成るや成らざるに、既に新築家屋、両側に櫛比し、繁栄なる新一市街を形成するに至れり。その将来の発達、蓋し括目して観るべきものあらん。 明治40年 とありました。浜往還、南浜往還に続く諏訪町の新道の誕生です。明治末期には、関西鉄道の四日市駅が町に出来るに従い、四日市鉄道と三重軌道の線路に並行して、諏方神社から港へ伸びる道路が賑わいを見せ始めていました。これが諏訪新道から沖ノ島、町に続く道路です。 明治44年の地図では 三重軌道と四日市鉄道の路線が計画されています

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  • 伝説の一向宗 大橋館 - 花の四日市スワマエ商店街

    日の中日新聞より“いなべ大橋屋敷跡”として、鈴鹿セブンマウンテンの北の端、藤原岳山頂にあった大橋屋敷跡のガイドマップ記事があった。信長天下統一に最後まで抵抗した一向宗の屋敷跡でアリマス。 藤原岳は若い頃登ったことがあり、山頂はなだらかな平地であったと記憶しています。藤原セメント工場が麓にあって、山の形状はどんどん変わっています。三岐鉄道が富田駅まで通っていて、セメントを運ぶために出来たのが始まりだった。ロマンです!

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  • ぶらり四日市 その二十三 阿瀬知川 - 花の四日市スワマエ商店街

    阿瀬知川(畦地川)は浜田村の田畑にとって、また 四日市の下水の役割としても大切な川でした。では、その源流は何処からでしょうか? 明治44年の地図を見ると、旧東海道から突然現れ、まっすぐに東へ流れ出ています。 逆にさかのぼることにします。 5番 末広橋の処にあるポンプ場では、強制的に阿瀬知川の水を昌栄橋から運河へと送り出しています。 4番 JRをくぐります。 3番 浜田から流れてくる川と、四日市の市街地から流れてくる川とが,合流する地点です。鯉が泳いでいて、ゆったりとした時間が流れています。 2番 浜田方向から流れてくる川。東漸寺さんがあります。手前で直角に曲がっていますが、昔はまっすぐ流れており、旧東海道を横断していたそうです。そこの橋を境に、南側を橋南と呼ばれています。 1番 久保田町にある「窪田神社」。堤防の下に祀られていますが、取水地点であることに対して神社が作られたと想像できます。

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  • ぶらり四日市 その十八 合同駅 - 花の四日市スワマエ商店街

    「男の囲炉裏端の会」で、街歩きの映画館巡りを仰せつかっていて、その第9回が3月23日に迫っております。お天気が悪そうですが、“小雨決行”否“小雨も結構”となっておりますので、執り行われることは間違いがないと思われます。 今回は、幻の合同駅(椙山満先生曰く・・・)の説明もしようと思っていますので、再々掲載をさせていただきます。 大正5年3月には、三重軌道と四日市鉄道の合同駅が出来ていました。年表によると大正2年に出来たとあります。 これは“あすなろう鉄道”さんが復刻版として出版された当時の鳥観図です。合同駅から西へ、諏方駅まで伸びて、そこから二つに分かれているのが分かります。 町の水谷宜夫さんからお借りした地図です。四日市駅(省線)から出発した二の線路が、善光寺さん北側を通過して諏訪駅へ延びています。 これも水谷さんにお借りした絵ハガキ。正面に建つ合同駅から西へ下がった写真で、右に善光寺

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  • ぶらり四日市 その十九 西駅?おかしい? - 花の四日市スワマエ商店街

    国鉄西駅の歴史を写真で追ってみました。昭和2年伊勢電鉄の駅として、国鉄線路の西側に新駅ができました。それにしても古そう・・・ 昭和5年。熊澤ビルの屋上から見た新西駅。駅へ入って右が伊勢電鉄のホーム。陸橋を上がると省線でした。 昭和6年。入口左にしゃれた電話ボックスが建っています。 確か昭和11年とありましたが、前の舗装が出来ていません。調べてみます 戦後、新しく建て直された西駅 雰囲気は変わっていません。

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  • ぶらり四日市 その二十 三和商店街 - 花の四日市スワマエ商店街

    GGシニアさんが、番外編の第3話を立ち上げていただきました。お楽しみください! (97) 「四日市街歩き番外編/第3話、昔を深掘り、映画館など」 - YouTube 昭和21年2月、海山道に港湾関係の会社重役が映画館経営に乗り出して『松竹映画劇場』を新築開業、戦前のヒット作「愛染かつら」大会や実演で周辺の観客を集めていたが、素人の経営が災いして1年足らずで取り壊し、その建物をJR四日市駅前に移築してマーケットにした。(三和商店街か?) 尚これは、日活劇場西に建てられた「四日市松竹」とは別でした。 樹林舎刊の「四日市の今昔」より 昭和30年から40年代の三和商店街でアリマス。国鉄四日市駅前に「銀座通り商店街」があり、町への通路でした。このファサードをご覧ください。いかにも劇場入り口といった感が致します。その隣が「月賦販売の丸武」さんでした。 昭和43年頃の町通です。右に踏み切り、左に

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  • ぶらり四日市 その二十一 昭和7年の空撮 - 花の四日市スワマエ商店街

    昭和7年の空撮でゴザイマス。昭和7年4月10日夜半、文豪 丹羽文雄氏が崇顕寺からこおりを担いで家出をされた年です。前に、菜の花が満開の暗闇を駅へと走ったと書きましたが、意外に田畑は少なそうです。それよりなにより、丹羽文雄氏には、故郷の菜畠が印象に残ったのでしょう。父親の顔と共に・・・。 この年1月、上海事件が起きています。前年には満州事変が勃発、急速に太平洋戦争へと向かう頃です。3月には、傀儡政権である満州国が建国され、5月には5・15事件が起きて犬養首相が暗殺されます。 四日市では3月に四日市銀行が預金の払い戻しを停止し、4月になると休業します。一方、豪州の定期航路船の四日市港寄港が復活したり(10月)、四日市倉庫専用の繋船岸壁が完成されたりして(12月)、産業面での港の動きは活発でした。

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  • 小島剛夕氏は諏訪 栄だった - 花の四日市スワマエ商店街

    前田憲司氏からお借りした資料より 小島剛夕氏は、昭和3年11月3日(手塚治虫氏と同年月日)、三重県四日市市に生まれる。昭和25年、上京、加太こうじ永松達夫氏らの指導によって、紙芝居画家となる。漫画家としては、昭和32年「隠密黒妖伝」(ひばり書房)にてデビュー。次々と時代劇・忍者ものを発表し、白土三平と人気を二分していた。昭和42年「週刊漫画アクション」創刊号より「おぼろ十忍法」を連載開始、筆を使った、力感、躍動感のあるタッチ、さらに巧みな構成力には定評があり、小島ブームを作った。昭和45年「子連れ狼」(小池一夫原作)スタート、爆発的なヒットとなる。 諏訪 栄のこと 小島剛夕 わが誇り高き故郷、三重県・四日市市。西に広大な丘陵地帯を山とし、東は水のきれいな伊勢湾に抱かれた、人情豊かな街である。 諺に謂く“近江商人・伊勢乞”・・・これはお隣りの近江の方で気遣ってくれ、伊勢乞うぃ“伊勢子正直

    小島剛夕氏は諏訪 栄だった - 花の四日市スワマエ商店街
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    quick_past 2023/03/09
    “小島剛夕”白土三平の右腕でもあり、女性劇画漫画家を育ててきた人でもある
  • ぶらり四日市 番外 刃傷事件 ⑧ - 花の四日市スワマエ商店街

    GGシニアのまち歩き第3回は、皆様のご協力の成果です。楽しい動画がでけました。 (59) 「たけちゃんの四日市街歩き/第3回、四日市、四つ(数えたら五つ)の橋の物語」 - YouTube 四日市宿での刃傷事件 出納帳編 天保5年10月10日、四日市宿の旅籠屋徳右衛門方で起きた刃傷事件。桑名藩は事件発生後四日市宿に役人を派遣し、その後被疑者16名の江戸護送に携わっている。要するに、事件調査の運営は、桑名藩によって行われた。その経費明細が現在も残っていると上野秀治氏は“四日市市史 第1号”で述べている。 事件直後から翌月にかけて、桑名藩士7名が交代で四日市宿に赴いている。この出張費は使用人も同額で1人1泊 銀1匁2分。他に雨具や駕篭持ち人足の費用も発生していて、総計40両近い金が藩から支払われている。 次に、すべてが終了したのちに慰労金が藩より支払われている。表にまとめていただいてあるので掲載

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  • 閑話休題 GGシニアのまち歩き 兜鉢のこと - 花の四日市スワマエ商店街

    時間稼ぎのため、鵜の森神社に残る兜鉢の事もご紹介いたします。 十六間四方白星兜鉢(じゅうろくけん しほうしろのほしかぶとばち) 兜鉢の遺物は非常に少なく、この兜鉢は『日の美術』、『日の甲冑』など、わが国の甲冑に関する書籍には必ず所載される代表的な一点である。かつて日甲冑会の権威であった山上八郎氏は、三重県が全国に誇り得る物の一つだと述べられた。 そして文部省において詳細に研究調査の結果、重要文化財に指定された。 鵜の森神社は、田原(俵)藤太秀郷をはじめ、浜田城主であった浜田家四代の霊を祀る神社で、この十六間四方白星兜鉢は、田原家にゆかりのあるものとして奉納されたといわれ、現在、鵜の森神社で社宝として保存されている。 これはかつて万治二年(1659)に奉納されて以来、鵜の森神社にあったが、同社は神主不在で盗難の恐れがあるため、寛保二年(1742)8月8日諏訪神社に預けられた。その後、1

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  • 閑話休題 GGシニアのまち歩き 第2回 - 花の四日市スワマエ商店街

    (46) 「たけちゃんの四日市街歩き/第2回、近くで中世の城跡が見られる公園」 - YouTube まち歩きご案内の第2回が配信されました。GGシニア様のおかげでゴザイマス。良いめぐり逢いを頂戴して、感謝!感謝!であります。お時間の許される方は是非ご覧ください。そこで、鵜の森神社境内に掲示の、俵藤太物語を、再掲載させていただきます。(今、四日市宿で起きた刃傷事件で、経費の出何処がどこなのか勉強中です。今しばらくお待ちください。) 秀郷 父から太刀を譲り受ける 醍醐天皇の時代に、俵藤太秀郷という有名な武士がいました。大織冠(だいしょくかん)藤原鎌足の末裔、阿部左大臣魚名公から五代の孫、従五位上(じゅうごいじょう)村雛朝臣(むらおあそん)の嫡男でした。14歳で元服、その名を藤太秀郷と称しました。秀郷は若いころから朝廷に仕え、下野国(しもつけのくに)(栃木県)の領主となりました。ある時、父の村雛

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  • “昭和のくらし”昭和のおもちゃ展Ⅱ 開催 - 花の四日市スワマエ商店街

    今日から四日市市立博物館で、昭和のおもちゃ展Ⅱ が始まった。注目は、四日市代官所跡出土品展 が同時開催されることでアリマス。 代官所跡地展は常設展(白里亭)ですので、ここだけ見るのは無料ですカナ?(まぁ、そんな連れないことをおっしゃらずに、上の階も見て行ってください)一般400円です

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  • ぶらり四日市 番外 刃傷事件 ① - 花の四日市スワマエ商店街

    四日市宿での刃傷事件・発端編 天保5年10月10日、四日市宿で刃傷事件が起きた。桑名宿の飯盛り女をめぐって4人が負傷した事件である。この事件の顛末を上野秀治氏が“四日市市史 第1巻”に書いてみえるので紹介させていただきます。 東海道分間延絵図より“四日市宿” 天保4年、桑名宿の飯盛り女“花香”と懇ろになった名古屋久屋町の“太七”は、桑名の旅籠屋“仙助”の処から“花香”をひそかに名古屋へ連れ出した。しかし、見受けするお金もなかったので、武家である尾張藩家臣“大塩安五郎”に泣きつく。(ここで疑問がわく。町人の困りごとになぜ武士が絡んだか?)一旦“花香”を預かった大塩は“利兵衛”と“平八”を立てて見受けの交渉をすることにした。一方の“仙助”は、これを受けて無宿人“丈助”と共に名古屋へ出向いた。(やくざを取り込んでの事態となった)。後に“仙助”は、“丈助”が無宿人だったとは知らなかったと話している

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  • ぶらり四日市 その十七 伝七邸 - 花の四日市スワマエ商店街

    国登録有形文化財(建造物) 伝七邸(旧伊藤伝七別邸)登録2010年9月10日 お正月でしたので、かたく門は閉ざされておりました。休邸日?南の金砂神社とセットでまた訪れます。 紡績王と称された「第十世伊藤伝七」の別邸として、1896年(明治29年)当地に移設された歴史的建造物。約600坪の敷地に2階建て木造建築と日庭園を擁し、威風堂々とした「玄関棟」と切造りの「さつき棟」は国の登録有形文化財となっている。 1906年(明治39年)より「料亭 浜松茂」として四日市繁栄の象徴であり続けたが、2017年に閉店。取り壊しの危機にあったが、11代目九鬼紋七に引き継がれた。 現在は「伝七邸」として、伊藤伝七ゆかりの企業である東洋紡グループ各社をはじめとした地域企業の支援により、文化交流の拠点となっている。 第17世 伊藤伝七(1852~1924) 日の紡績業界の名門「東洋紡績株式会社[名付け親は渋

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