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レイングッズ
d.hatena.ne.jp/F1977
あっと言う間の一日でした。 まずは「ルート181」から。 270分という上映時間は、少しも長くありませんでした。長いのは、今もパレスチナで起こり続けている現実の方で、私はフィルムが終了し映画館を出れば、「オモニに会わなくちゃ!」と慌てて電車に乗り、ほんの数十分でオモニたちの笑顔に接することができる、そんな幸福な星の下に生きているのだから。故郷から離れていても、理不尽な殺され方をするわけではない、そんな平和な日本社会に生きているのだから。「ルート181」を見終えて、私は「う〜ん」と伸びをしてこわばった自分の体をほぐしながら、自分の条件的幸福性と現実の理不尽性を思い、映画館を出て見上げた曇天の空模様と、映画で見た地平線をみはるかすパレスチナの空の青さと、でもカメラを引けば、常に有刺鉄線や分断壁越しに見上げなければいけないパレスチナの空と、ただ高速道路の騒音と共に目に映る、自分の憂鬱を反映し
「サイレントマイノリティ」という言葉があるそうです。 三ヶ月ほど前に「ヂンダレ」の講演会に行った時、ある「在日」の詩人さんから聞いた言葉です。その詩人さんが使われていた意味では、「サイレントマイノリティ」というのは、マイノリティであることを伝えることができない、マジョリティが支配する社会で、何か差別されたり、抑圧されたりしているマイノリティであるのだけれど、自分がそのような差別や抑圧を受けていることすら話すことができず、マイノリティであることを隠して生きている「語らないマイノリティ」、それが「サイレントマイノリティ」なのだということでした。 その詩人さんが出会った「サイレントマイノリティ」それは、「在日」の「サイレントマイノリティ」のことでした。詩人さんは、ある大学で朝鮮語を教えていらっしゃるそうなのですが、詩人さんの朝鮮語の授業を受けている学生さんの中に「在日」の学生さんがいらっしゃる
少し前まで、民族教育がなぜ必要なのか分かりませんでした。 わたしも、保育園と小学校の民族学級で民族教育というものを、ごくわずかですが受けたことがあります。保育園の時は、それが、わたしが「在日」であるということで、与えられている「朝鮮」「韓国」という「民族」固有の文化や伝統などとは、分かるわけがありません。保育園の先生から教わる「朝鮮語」や「朝鮮の歌」「朝鮮の遊び」なども、同じく保育園で教わる、例えばカタカナ英語などの他の言葉、日本の童謡、遊びなどと同じものとして、いわゆる民族教育というものを受けていたのだと思います。 それが、日本人とは異なった、わたしたち「民族」、「在日」固有の文化や伝統であるということを体系的に、また「民族」の自覚性を促すように教えてくれたのが、小学校の民族学級でした。民族学級の先生は「わたしたちの」という言葉を用いて、「わたしたちの」言葉、「わたしたち」の歴史、「わ
オモニたちの前では、なるべく朝鮮語を持ち出さないようにしなければならないと思いながらも、わたしは時々、自分が覚えたカタコトの朝鮮語をオモニたちの前で話してしまうことがあります。 特に、わたしが木曜日に担当をしている一階のオモニたちは、解放後しばらくして、もしくは60年代くらいに済州島から日本に渡って来られたオモニが三人いらっしゃり、そのオモニたちは日本語もお上手ですが、でも済州島で生まれ育ったことから韓国語の方が、よくご存知でいらっしゃると思います。だから、私は授業中、自分が覚えている韓国語の単語を確認してみたいという思いから、ついうっかり、「『わるい』は、漢字で『悪い』と書きますね。韓国語では『ナプダ』ですねー」などと、オモニたちの前で韓国語の言葉を持ち出してしまいます。そんな時、オモニたちは、くすくす笑いながら「そうそう、韓国では『나쁘다』と、とても流暢な発音で韓国語を話してください
今年から、お手伝いをさせていただいている「パレスチナの平和を考える会」の定期刊行誌『ミフターフ』(Vol.24)がでました。そこに、今回2本原稿を書かせていただいたので、こちらに転載しておきます。できれば、定期購読してくださいね。 「沈黙を破る」(土井敏邦監督) 映画「沈黙を破る」は、イスラエルの元将兵だった青年たちが、自分たちが占領地で行なったことを告白し、また今現在も、占領地で現実に行なわれていることを、イスラエル社会に告発する姿を描いたドキュメンタリーです。映画では、数人の元イスラエル将兵たちが登場し、自らが犯した罪や、その罪を犯すに至る内面の変化、そして、罪を自覚し、どのようにして破壊された人間性を取り戻していくかの、真摯な問いと語りが描かれています。 元イスラエル将兵たちが、占領地での加害行為を告白する「沈黙を破る」という運動は、イスラエル社会にとって、とても大切なことだと思
いがいと、そうさできるのが、はてなの、いいところです。 そろそろ、ブログやめようと、おもいます。 もう、じゅうぶんな気がしてきました。 実践としてのハッキョをやめるワケでは、ないですので、あんまり、何も変わらないと思います。 というよりは、ブログを書いていても、何も変わらないということがよくわかりました。いまごろ!かもしれないですね。
わたしは、少しだけ、日本人の気持ちがわかると思ったことがありました。それは、わたしが「加害者」であったかも知れない、ということを知ったときでした。 わたしは、ずっと自分を「被害者」だと思っていました。朝鮮半島は日本に侵略され、植民地にされ、言葉を奪われ、名前を奪われました。そして、日本が戦争に負け、朝鮮半島が、日本の植民地から解放された後も、日本に残り続けた「在日」は、様々な権利を与えられないまま、差別され抑圧されながら生きてきました。わたしは、「在日」は、過去においても、現在においても、圧倒的な「被害者」であり、日本社会や日本人は、わたしたちに対して、絶対的な「加害者」でありながらも、でも、その「加害」性を認めることなく開き直り続け、また、日本人は、自分たちの「加害」性を知ることなく、わたしたちのそばで平気で生き続けている。わたしは、この許しがたい不公平さのようなものを、かなり幼い頃か
おとといの土曜日、わたしは、超親イスラエル的な行為をおかしてしまいました。 少し前の、パレスチナの会の人たちとの集まりでのこと。メンバーのMさんが、ものすごく驚いたような、大真面目なお顔をされながら、わたしたちに話してくださいました。 Mさんは、ある夜、たまたま家にあったクッキーを食べたそうです。食べてみると、そのクッキーが、とてもとてもおいしかったらしく、いったい、どこのメーカーのクッキーだろうと、パッケージの表示を見てみたそうです。すると、そのパッケージの生産国には「イスラエル」と書かれていて、思わず、持っていたクッキーを手からポトリ落としてしまったそうです。というのは、わたしの脚色なのですが、でも、その話を聞いたわたしたちは、みんなビックリして「ええ!イスラエル産のクッキーが日本にあるんですか!」「いったい、どこで見つけて来はったんですか!」「ってか、なんで、そんなん、買ってるんで
先週の金曜日で、入管法の改悪に反対する、火・金の夕暮れ行動は、ひとまず終了いたしました。 ゴールデンウィーク明けから、わたしも参加をできるときには、参加をしていたのですが、火曜と金曜日といえば、ズバリ、舞踊とチャンゴの日です。入管への反対行動と、わたしの「民族教育」、どちらも、わたしにとっては反ニッテー運動みたいなものなんですが、それがまったく同じ日に重なるなんて、なんちゅう因果なこっちゃやと、火曜日と金曜日の夕方はいつも苦笑しておりました。でも、夕暮れ行動は5時半から6時半までで、火曜日の舞踊は、8時からだったので、火曜日のビラまきの方には、問題なく参加をすることができていました。問題は金曜日の方で、金曜日のチャンゴは、初級クラスなので6時半からなのです。夕暮れ行動の場所にもよるのですが、金曜日のビラまきに参加をすると、チャンゴの授業に行けなくなってしまいます。だから、金曜日の夕方は、
わたしは、小さいときから、漠然とですが、なにか「不公正」なものを感じていたように思います。 小さいときから、わたしは特に意識をして「在日」として生きてきたわけでは、ありませんでした。むしろ、意識的には「在日」であることを、わずらわしいもの、できれば「在日」としてなど、生まれてこなければよかったと、そのように認識をしていたように思います。「在日」であれ「日本人」であれ、日本社会のなかでふつうに生きていると、何かの「差異」が「差別」につながるということを、誰もがふつうに看取して、できることなら「差異」をなくそうと努めていくように思います。わたしも、小学校に入る段階から、圧倒的に日本人に囲まれて生きるようになって、特に学校という閉鎖的空間において、「差異」が「差別」につながるということ、とりわけ「在日」という属性は、なにかの「差異」が「差別」に変化する以前に、「在日」というだけで、それは「差別
月曜日、わたしは、Oオモニから、一生わすれられない言葉をいただきました。 日曜日のヤユフェ(野遊会)は、朝方まで降っていた雨がやみ、お昼に近づくにつれてお天気もだんだんよくなって、本当に楽しい一日でした。オモニたちと一緒に、なんばの湊町リバープレイスから、水上バスにのって、大阪城公園の船着場まで、ゆらゆらと川をわたっていきました。水上バスにのったことがあるというオモニも、何人かいらっしゃいましたが、ほとんどのオモニが、なんばからの水上バスに乗るのは、生まれて初めてとのことでした。オモニたちは、川をそよぐ心地よい風にあたりながら、ゆっくりと進む船の上から、川の両岸の景色を、うっとりと見つめていらっしゃいました。そうして、オモニたちはみんな、日本にきて、60年も70年もなるけれど、大阪にこんなところがあるなんて、ぜんぜん知らなかったこと、川の上からこんな景色を見ることができるなんて、夢にも思
「在日」として生きているわたしをすくってくれて、わたしに「在日」として生きていく勇気をあたえてくれた、ふたつの言葉があります。 ひとつは、オモニがおっしゃられた「日本語おぼえても、朝鮮人」という言葉です。 わたしは、オモニハッキョでオモニたちと一緒に、日本語の読み書きを学ぶのが、本当に、ずっと、つらかったのです。朝鮮語がわからないわたしが、オモニたちに日本語を「教える」。オモニたちから言葉をうばった国の言葉を、同じうばわれた歴史をもつ、同じ朝鮮人のわたしが「教える」。いくら、オモニたちの生活のためと、自分を納得させようとしても、いつも、こころは納得してくれませんでした。頭では理解していても、どうしても、こころが日本語に向き合ってくれないのです。だから、わたしは、オモニから、「日本語おぼえても、朝鮮人」という言葉を教えていただくまでは、オモニたちと一緒に日本語の読み書きを学びながらも、どこ
九条のシネ・ヌーヴォXにて「王母鄭氏 チョンおばさんのクニ」を見てきた。 鄭おばさん(鄭順伊さん)は、17歳の時に「仕事があると」騙されて故郷である朝鮮半島の忠清道江景邑を離れ、その後強制的に「慰安婦」とされる。解放後、中国人の王氏と結婚をし、以来ずっと湖南省双峰県にて家族と共に暮らしてきた。鄭おばさんは、それ以来一度も帰ったことがない鄭おばさんのコヒャン(故郷)へ死ぬまでに一度帰ってみたいという思いがあった。その思いが班忠義監督監督を含む支援者に伝わり、1997年の春、ようやく鄭おばさんの願いが叶い、鄭おばさんは韓国へ帰郷を果たす。けれども、鄭おばさんの知っていたコヒャンの面影はそこにはなく、朝鮮語を忘れてしまった鄭おばさんをとりまく周囲の韓国人たちともうまく意思疎通ができない。初めは祖国に戻れて喜んでいた鄭おばさんも次第に家族のいる中国に帰ることを希望する。しかし、韓国側は一度戻った
数年前、今現在の北朝鮮のことを知りたいと思って、ネットでさがしたところ、ひとつだけ、いいなと思ったサイトがありました。 それは「朝鮮民主主義研究センター」さんというサイトでした。「北朝鮮」という国家の名称である「朝鮮民主主義人民共和国」のうちの「朝鮮民主主義」と「民主主義」の部分まで、ちゃんといれてあって、いわゆる、日本のメディアなどで支配的な「独裁者国家」とか「収容所国家」という言葉づかいをしていなかったので、信頼できるサイトかも知れないな、と思ったからでした。でも、しばらく読ませていただいていたのですが、やはり、わたしが知りたいと思っていた「北朝鮮」のことについては、あまり書かれていなかったので、いつのまにか、読むのをやめてしまって、アクセスすることもなくなりました。 だから、まさか、その「朝鮮民主主義研究センター」さんが、わたしのブログを読んでくださり、そして、わたしの文章に対して
人間関係というのは、ふしぎなものだなあ、と最近、あらためて思うようになりました。 たとえば、こうやって、ブログを書くなかで、実際には一度も会って、話したこともない人が、わたしが書いていることや、感じていることを、よくわかったり、知ってくれたりすることがあることです。とてもつたない言葉で、論理も脈絡もむちゃくちゃなことを、書いているにも関わらず、共感してくれたり、伝わったりすることを、いつも不思議に、そうして、ありがたくうれしく思います。ぎゃくに、もう何年も、実際に会って話したり、くわしくは語らなくても、わたしが感じていることや、考えていることを、聞いてもらっていたにも関わらず、実は、何もわかったり、知ってもらえてはいなかったりすること、それを、とても残念にかなしく思います。 でも、それは、わたしの責任でもあります。わたしも、自分が本当に思っていることや、感じていることを、ちゃんと知って
結果からみれば、わたしは「つみびと」ということに、なるのでしょう。 トーロク(外国人登録証)の常時携帯義務を「違反」していますので、もし指摘されたら民事罰が課されることになります。「見せろ」と言われて「イヤだ」といったら、提示義務に「違反」して、刑事罰になるのでしょうか。よくわかりませんが、とりあえず、わたしは、トーロクを常時携帯させる法律そのものが、よっぽど「罪深い」ことだと思っていますので、わたしは「トーロク」を不携帯にしています。以前は、失くすことを懸念して不携帯にしていると思っていましたが、やはり、それよりも、トーロクを常時携帯しなければいけないということそのことが、わたしが「正しい」と思っていること、わたしのなかの「倫理」に反することだと、そのように思うようになりました。それが、結果として「罪」となり「罰」が下されるかもしれないとしても、わたしは、今のところ、トーロクは持たずに
というわけで、きのうは、大阪文学学校に行って、金時鐘さんたちのお話をきいてきました。 大阪文学学校には、十年以上前に一度行ったことがありました。クロード・ランズマン監督の「ショアー」を九時間ぶっとおしで見るという企画があって(BSで放送されたものをビデオに収録したものを、普通の家庭サイズの大きさくらいのテレビで見るというものでした)、その時はじめて、文学学校を訪れたのでした。そうして、あの日、文学学校の教室に入ると、広めの部屋にゴザのようなものが敷いてあって、参加者はそのゴザの上に座ったり、疲れてきたらゴロンと寝そべったりしながら、あの「ショアー」を見るという風になっていました。緊張しながら、文学学校を訪れたわたしは、教室に入った瞬間、なに、このまったりとした空間は・・・、とちょっとヒョウシ抜けしたのですが、でも、いま思えばうまいセッティングだったなあと思います。九時間イスに座って見続け
オモニたちは、生野をとっても愛していらっしゃるようです。 先週の月曜日の授業のときのこと。また、いつものように、お勉強をしながら、オモニたちといろいろお話をしていました。オモニたちは、せんせい、もっといっぱい、お勉強しましょう!とおっしゃられるわりには、いったん、話に火がつくと、もう完全に井戸端オモニになってしまわれて、あんなんあって、こんなんあって、とみんなめいめいにお話を始められます。オモニたち四人全員こられているときなどは、いつのまにか、二人ずつペアになって話し込んでしまわれて、ホワイトボードの前にたっている、オモニでないわたしなどは、まったくカヤの外。あそこのネエさんが、あんなんゆっててな、とか、あそこのお店は、あれがおいしいねん、などと、学校というよりは、情報交換のためのバザールのようになってしまいます。わたしは、遠くのほうから、お、オモニたちー、そろそろ学校にもどってきてくれ
わたしたちは、「<朝鮮>をやめる。」ことが、はたしてできるのでしょうか。 「朝鮮」という国家と「朝鮮人」とを、わけて考えることが、できるのでしょうか。「朝鮮人」ではなく、「朝鮮」だけを批判し、「朝鮮」という国家を否定することができるのでしょうか。 高校のとき、朝鮮学校を卒業して、わたしと同じ日本の高校に入学をしてきたIさんという人がいました。Iさんは、本名の日本語読みの名前で通っていたので、名前を聞いてすぐに「在日」の人なのだと思いました。ただ、Iさんが本名を名乗っていたからといって、「在日」であるだろうということはわかっても、朝鮮学校出身の人だということがわかるわけではありません。でも、わたしはIさんが朝鮮学校を出た人だということを、Iさんとお話をする前から知っていました。それは、Iさんが高校の入学式に、チマ・チョゴリの制服を着て式に出ていたからでした(私服だったので、入学式の服装は
わたしは、「在日」なのですけれど、「韓国籍」なので、中国に行くには、中国領事館にビザをもらいにいかなければなりません。 わたしは、日本で生まれて、日本で育って、日本の学校教育を受けて、通名で社会生活を生きている「在日」です。だから、文化的にはほとんど日本人ですし、見ためも結構、日本人っぽいので(よく、朝鮮人を描くときに戯画化される、目が細くてつり上がっているような顔ではない、という意味です。時々、同胞どうしの集まりなどで、いわゆる戯画化っぽい「在日」がいると、「アンタ、バリチョー(バリバリの朝鮮人顔)やなあ」などと、言いあったりしますが、文脈まちがえると「差別語」になるので、注意してつかいましょう)、日常生活で「在日」だと思われることは、少ないように思います。ただ、自分の中で、わたしは「『日本人』ではない」、「『在日』である」という意識は、とても強くもっているのですが、ぎゃくに、まったく
先日、書いた「『帰化』について」の文章に、いくつかのコメントとトラックバックをいただきました。ありがとうございます。 まずは、トラックバックをいただきました、タケダ君の「リムジン江」――내 인생을 바꾼 노래 id:mujigeさん、いつもありがとうございます。「朝鮮人になりたい」にも、こころをゆさぶられましたが、この文章にも、なにかこう、ひとりひとりが生きているということの歴史というか、それぞれの生の深遠のようなものを感じました。「帰化」するか/しないか、ということは、単に、日本国籍をとるか/とらないか、という問題に還元できるものではないと思っています。歴史というものを、たったひとつの要因に還元できないのと同様に、「在日」が日本国籍をとるということは、単に居住国の国籍をとる、というニュートラルな態度をふるまうこととはちがう、とわたしは思っています。でも、「帰化」する理由を考えることは
わが家には「キョーイクチョクゴ」がありました。 それは、わたしが小学校に入る頃くらいからだったでしょうか、ことあるごとに母親から、くどくどと言われていました。それは「にほんじんよりも、えらくなりなさい」という言葉でした。その意味するところは、「おまえは、にほんじんではないのだから、にほんじんとおなじくらいのできでは、さべつされて、まともなしごとにつくことはできません。だから、にほんじんよりもうんとえらくなって、そして、さべつされないような、じぶんのぎじゅつでたべていけるような、そんなりっぱなしごとにつけるようになりなさい」というものでした。わたしは、小さいときから、母親からそんな教育をほどこされていたので、こども心にも、そっか、にほんじんよりもうんとえらくならないと、いい仕事につくことが、できないんやあ、お父さんとかお母さんみたいな、そんな小さい工場で働くような仕事しかできへんねやあ、と
わたしの兄は、何年か前に「帰化」をしました。 大学を出て就職をして、しばらくしてからのことでした。もともと「在日」であることに、それほどこだわりを持った人ではなかったのですが、大学に入ったばかりの頃、とある同胞サークルに入ったことがありました。わたしは、まさか兄がそんな「在日」サークルに入るような人だとは、思ってもいなかったので、それを聞いたときは、とても驚いたものでした。そして、この人にも「在日」意識というか「民族」意識というか「政治」意識みたいなもんがあんねんなあ、と意外にも感心してしまったのでした。というのも、わが家では、オリンピックとか何かのスポーツの世界大会のようなものがあるとき、必ず、日本を応援するか韓国を応援するかで、家族内国家間紛争が勃発していたからでした。兄は、ふだんテレビなどで応援している、自分の好きなチームで活躍している日本の選手を応援したいようで、日本を応援してい
きのうの「か組」さんでの授業のことです。 授業中、わたしは、入管法が変わって「トーロク」の代わりに新しい「トーロク」みたいなカードを持たないといけなくなるかもしれないです、というお話をオモニたちにしてみました。オモニたちはみんなキョトンとしたお顔をされながら「せんせい、なんですか、それ?」とわたしに聞いてこられます。わたしは「わたしら『特別永住者』には、あんまり変わりがないんですけど、でも『トーロク』の常時携帯義務とか残ってますし、もしかしたら、今までよりも、とりしまりがキビしくなったりして、警察に『トーロク』みせなさい、っていわれる可能性がたかくなるかもしれないですよ」と、オモニたちに説明をしました。 すると、I美オモニは笑いながら「そんなん、せんせい、『トーロク』みせなさい、って言われたら、そしたら、家にありますから、一緒に家にきてください、って言えばいいだけちゃいますのん」と、もし
きのうの、デモの報告です。 きのうは、集会やデモをするには、もってこいのいいお天気でした。集合時間の3時ちょうどに、新町北公園に着くと、公園の前には、パポパポと赤いランプをぐるぐるさせたパトカーと、おまわりと、公園を取り囲むように、不気味な姿でたたずんでいる公安たちがまず目に入りました。五月晴れの、すがすがしい青空にもっともそぐわない、風景ぶちこわしのものどもです。わたしは、職業に貴賤ナシという、近代的平等主義の価値観を、まがりなりにも持っていると思っていますけれど、わたしは、公安に対してだけは、世界中にある、ありとあらゆる差別的、侮蔑的な言葉をあびせかけて、賤しめてやってもいいと思っています。批判をまったく恐れずに大声で叫べます。「公安」というものの存在を許さないぞー!「公安」なんて、●△◆×▲◎■!!!(←あまりにも、ひどい言葉すぎて、電波にのせられません) そんな風に、さわやかなデ
きょうは、これから「5.9入管法等改悪反対デモ」に行ってきます! 5.9入管法等改悪反対デモ 入管法等改悪の審議が始まり、反対の声がなかなか届かない事がもどかしくてなりません。何としても廃案にしたいですね。「在留カード」を申請し、常時持たされている自分を想像すると「げっ」とはきそうになります。それぞれの立場からそれぞれの怒りを持って精一杯の行動をせねば。今が踏ん張り時!と言う訳で、以下のようにデモを行います。ぜひぜひたくさんお誘いあわせ参加してください。日 時 5月9日(土) 午後3時集合 集合場所 新町北公園(厚生年金会館向かい、最寄り駅は地下鉄長堀鶴見緑地線西大橋、又は心斎橋) 主 催 カトリック大阪司教区・シナピス http://www17.plala.or.jp/kyodo/shiryo2_110.html ちょうど、ひと月ほど前に、この「入管法・入管特例
わたしは、自分のことをモノシリだと思っていました。 20代初めの頃から、読書会などを通じて、自分よりもひと回りから、ふた回りくらい年上の方々とお付き合いをすることが多かったせいか、わりと昔のこととか、わたしの世代では知ってるほうが珍しいような言葉を、聞いたり知ったりする機会が多かったように思います。だから、会社などでもよく、上司や先輩たちから「なんで、アンタの年でそんなん知ってるんや。年、ゴマかしてんのんちゃうか?」などと言われてきたので、わたしは、わたしってモノシリや、わーい、わーい、などと心の中でひそかに、モノシリな自分を自負していたりしました。けれども、最近、わたしは、自分がかなりなモノシラズであることに気がつきました。ええ!そんなことも知らんかったん!と驚きアキれかえられることが、とても多くなってきたのです。まさに、井の中のカワズ飛び込むみぴょこぴょこです。きのうも、そのように、
金石範さんが、1994年に「週刊金曜日」(!)に書かれた「天皇制とチマ・チョゴリ」という文章があります。 金石範さんは、その昔、強制されていた外国人登録証の指紋押捺を拒否されていた方であり、トーロク(わたしは、こう読んでいます。外登証とは言いません)の「常時携帯」にも反対をされていて、ふだんは、机の引き出しの片隅へ放りこんだままにされていたそうです。もし、外出先などで「不携帯」が見つかり、警察へ連行されたとしても、それなりに対処しようと思われていたそうで、それよりも、毎日トーロクを軀(からだ)にまとって歩くことのほうが、面倒なだけでなく、他に原因のない気分の悪さに見舞われたりする、だから不携帯であった、そのように書かれていました。 この「天皇制とチマ・チョゴリ」の冒頭部のこのくだりを読みながら、わたしは、とてもうんうんとうなずいていました。わたしも、普段はトーロクは不携帯で、もし「不携帯
DVDで、エルンスト・ルビッチ監督「生きるべきか死ぬべきか」をみました。 かなり傑作なコメディ映画だったのですけど、1942年にこんな作品をつくれていたアメリカって、どんなとこやねん、と思ってしまいました。「ハムレット」の「To Be or Not to Be」というセリフを、風刺的につかっていて、オチがまたサイコーでした。 主演のキャロル・ロンバートさんは、たいへんお美しゅうございました。 きょうは、あまり時間がないので、このへんで。 連休中は、あちこち奔走してますけれど、本屋さんに行って、四冊ほど本を買いました。 「朝鮮人強制連行の記録」(朴慶植著・未来社) 「だれにでも故郷(コヒャン)はあるものだ」(徐勝著・社会評論社) 「『日の丸』『君が代』『元号』考[起源と押しつけの歴史を問う]」(佐藤文明著・緑風出版) 「アジェンダ第24号2009年春号『特集・裁判員制度で司法はど
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