サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
セキュリティ
tkshhysh.hatenablog.com
再び近作 Christopher P. Chambers and Takashi Hayashi, Can everyone benefit from innovation? の紹介である.pdfはこちら. 貿易自由化や経済統合については,それが何らかの意味で「良い」ものだとしてもその「良さ」は何らかの価値判断に基づくもののはずだ,という了解がまだおぼろげながらに働きそうなものだが,技術革新に関しては,それが「良い」ことは価値中立的な「科学的真理」だとして捉えられがちであり,ラッダイト運動の評価を引き合いにだすまでもなく,これに反対する人はほとんどバカ呼ばわりされていると言ってよい.曰く,ラッダイトの誤謬,労働塊の誤謬,ゼロサムの誤謬:一時的に今の職は失うかもしれないが,長期で見たら他の生産性の高い職に移れるのであり,社会的には生産物がより安価に得られるのだから全員得するはずだ,云々. だ
今回は,近作 Christopher P. Chambers and Takashi Hayashi, Can everyone benefit from economic integration? February 2017.pdfはこちら の紹介である. 経済と経済とが統合することによって誰も損をしないような資源配分ルール,より広く言うなら,所謂「グローバリゼーション」によって誰も損をしないような資源配分ルールというのは可能であろうか? 競争均衡解がこの性質を満たさないことは容易に示せる.2財の交換経済を考えよう(生産経済を考えることもできるのだが,これから書くのは不可能性の話なので,交換経済でさえ不可能なのに,いわんや生産経済においてをや,である).の3人は で表現される同一のコブ・ダグラス型選好(これに意味はない)を持つとしよう. 3人の初期保有は ,, で与えられるとしよう. こ
不確実性のもとで選択の評価を社会的にどう集計するか,という問題を考える.具体例はいくらでも浮かぶだろうが,敢えて言及しない. 静的な社会的選択論と異なり,ここでは「選択=帰結」ではない,なぜなら選択の帰結は諸々の不確実な要因に左右されるからである.そこでは,二種類の意見の不一致がある.*1 まず,選択の帰結の評価が人々の間では異なる.一つの帰結がある人にとっては望ましいがある人にとっては望ましくない,そして他の帰結については逆,などなどというのが常態だ.これは静的な社会的選択論で既にカバーされている話である. もう一つは,不確実要因についての確率的予想の不一致である.*2究極的な意味においては,「正しい確率」などというものは存在せず,あくまでも確率は主観的なものに過ぎない. この主観的確率と帰結評価の二重不一致が存在するときには,「見た目の全会一致」が起こる.Gilboa, Samet,
観る前に私は不覚にも,これは「周りは誰も自分の言うことを信じないけれども,信念を貫き通して最後に一発逆転」系の話だと思っていた.つまり,大いに間違っていたわけだ. この話の中心は,「自分の予測が正しいということは,即ち数百万の人が家と職を失うことに他ならない」のであり,自分の行う(クレジット・デフォルト・スワップ=CDSの購入を通じた)住宅ローン債権の空売りは「母国の危機が起こることに賭ける」ことに等しい,ということが分かってしまった(複数の)主人公の苦悩だと言えよう.たとえ自分が正しかったと明らかになった後でも,「それみたことか」などと喜んではいられないのだ. それは後輩を叱るブラピのセリフに明瞭に示されているし,スティーブ・カレルが土壇場で部下に説得されるまでCDSの売却に踏み切れなかったのもそういうことであるし,クリスチャン・ベイルがこのディールを最後に自分のファンドを解散してしまっ
今回のセンター試験の政治経済で,いわゆる囚人のジレンマゲームについての問題が出された. http://www.toshin.com/center/s-keizai_mondai_0.html といっても,「囚人のジレンマ」という用語もゲーム理論の前提知識(特定の解概念についての)も問題を解く上では必要なく,読解力と推理力のある受験生ならば問題文と表に書かれていることのみから解答を導ける推理問題として受け取るのが至当である.このような分析的思考力を問う出題がセンター試験の社会科でなされたのは歓迎すべきことであるし,今後もそうして欲しいところだ. だが残念なことに,問題文と表から導けることといくぶんでも整合的な選択肢は1つもなく,推理問題としては破綻していると言わざるをえない. これについては中島大輔さん @D_N_1975 はじめツイッター上で十分指摘されているし,私の発言も含めてまとめも出
かなり長い間更新が滞ってしまった.個人的事情もあるが,どうやら自分の興味に引きつけてしかモノを考えられなくなっているようで,そこから外れたことについて包括的にまとめる意欲が格段に落ちてしまっているようである. 今回は以前書いた記事の続編ということで更新作業のリハビリとしたい. で,タイトルに戻るが,もちろん古典的答えはイエスである.というのも,開かれた市場に参加することで損をするような人はそもそも参加しないからだ(これを経済学では資源配分機構の「個人合理性」と呼ぶ). だがここではそういうことを問うているのではない.前記事にあるように,「すでに一定数の種類の財が取引していたものが、そこから取引の対象がより広がったら、人々は得するか?」ということを問題にしているのだ. これに対する"positive analysis"としての一般均衡理論の答えはノーである.貿易理論の文脈では負の交易条件効果
人間が通常の経済学が想定するような意味で合理的ではない、という主張は受け入れたとして、それでは社会科学における人間行動の研究はいかなるものであるべきだろうか? 異なる主観的価値の貫徹あるいは充足(最大化とは言わないまでも)を目指す異なる個人が社会においてどう折り合うかあるいはどう相克するか、という社会科学の基本(唯一とは言わぬが)テーマを離れて、合理性を全く問わずに行動あるい心理の現象的な法則性のみを追求することは、事実分析のあり方として現実的ではないし、また少なくとも社会科学をやる上では意味がないと筆者は思っている。これは経済学における共通見解でもあると思う。首尾一貫的でないながらもそれなりの価値基準を持った個人が、完全でないながらもそれなりの推論能力を以って行動を選択する限定合理性の研究が追求されているのもその故にであろう。 そうした限定合理性の研究は2つのジレンマを抱えている。よく知
生産経済における資源配分の公平性について述べる。 能力の差異がない場合 人々の間に能力の差異がないならば、交換経済における議論をそのまま容易に拡張できる。選好の対象に「余暇」を含めるだけである。そのうえで「原始状態」においては、交換経済と同じく、人々は自分の選好以外のものには責任を持たないと考えられる。つまり、ここで許容される「格差」=異なった労働時間によって異なった消費が人々の間でなされることは、純粋により多く時間を余暇に回したいか労働に回したいかの選好によってのみ説明される範囲に限られる。 よりフォーマルに、個人の消費と余暇の組み合わせをと書き、彼の余暇へのそれを含んだ選好をと書こう。このとき、個人が個人を羨むとは、たることを言う。つまり、が自分の消費・余暇よりもの消費・余暇を好む状態を指す。そして、消費と余暇の配分が無羨望であるとは、誰もが誰もを羨まないことを言う。 この意味での無羨
資源配分の公平性について、書けるところまで書いてみようと思う。 意図的にそれと標榜している人でない限り、一般に経済学者は公平性について議論することがない。それは主観的には、「本分を超えたことは言わない」「特定の倫理的価値判断には関わらない」という一種の良心からなのであろうが、それは客観的には、公平性の議論が論題に上らないおかげで説得力を保持しているような言論に加担していることになりかねない。 しかし、特定の倫理的価値判断に肩入れせずとも、種々の漠然とした理念を定式化し、それらの成立可能性、それらの間の論理的関係・両立可能性・不可能性を調べ、公平性に関するフォーマルな議論の共有を助けることは可能なのであり、それはまさに経済学者の職分の一つだと言えよう。 さて、「何が公平か」というのは結局のところ、「人は何に責任を負うか」ということに帰着する。このことについて誰もが一致して受け入れられる基準が
部分均衡分析の一般均衡理論的基礎 学部の入門講義では、「他を一定」とした上でとある1つの財の市場に話を絞って、その財から生ずる「便益」が金銭単位で測られると考え、各消費者は「余剰=便益+所得の増減」を最大化すると考える。簡単に定式化すると、当該財の単位からの消費からの便益で表記し、所得の増減をで表記すると、余剰はで与えられる。特に、この財の競争的市場での購入を見るにあたっては、1単位の価格をと表記すると、余剰はとなり、最適な消費ではが成り立つ。この条件、限界便益=価格、をプロットしたものが(逆)需要曲線である。これらを用いた分析手法を、部分均衡分析という。 一方、そういう単純化を行わず、「全てが全てと相互連関している」ことを認めた分析を一般均衡分析という。もちろん、「一般」の度合いにも濃淡があるが、要素間の相互連関が大きいほどモデル分析は困難になる。計算技術の進歩により、一般均衡モデルをじ
学校選択制のデザイン―ゲーム理論アプローチ (叢書 制度を考える) 作者: 安田洋祐出版社/メーカー: エヌティティ出版発売日: 2010/03/29メディア: 単行本購入: 3人 クリック: 45回この商品を含むブログ (8件) を見る NTT出版様より献本。 「ゲーム理論アプローチ」と銘打ってあるからには、ゲーム理論がrelevantでなければならない。経済学を専門としない読者にとって気になるのはおそらくそこだろう。「要は制度設計の実務に飯のタネを得たいミクロ・ゲーム理論家達が我田引水ででっち上げたプロジェクトではないのか?」と。 しかし本書は、ゲーム理論の取り扱う戦略的行動が制度設計においてまさに中心的な問題であることを示してくれる。そのことは、本書第3章でも紹介されている以下の例で明瞭に語られる。 一郎・二郎・三郎の3人の生徒、1中・2中・3中の3つの中学校があるとする(ただし定員
経済学には、その言明だけを見ると珍妙な現実離れとしか思えないような、しかも時には矛盾に見えるような仮定がしばしばある。 経済学者の多くはこうした仮定の使用を、いわゆる"as if"論法=「記述的理論の価値はその仮定の現実的妥当性にあるのではなく、それが統一的に説明できる事柄の豊かさによって決まる」によって正当化するわけだが、それでは満足できない人は多いだろう。また、"as if"で正当化できるのは記述分析のみで、それでは厚生分析もできなければ政策的含意も出てこない。またなにより"as if"では、「なぜそうでなければならないか」という必然性が説明できない。 経済理論は仮定の必然性について議論するとき、しばしば極限論法を取る。これは、仮定を所与として受け取るのではなく、背後に何らかのプロセス(動的な行為のプロセスにせよ、静的な推論・思考実験プロセスにせよ)があると考え、仮定の言明をそうしたプ
前回、Thaler-Sunsteinによるリバータリアン・パターナリズムは、彼ら自身が思っているよりもパターナリスティックなものだということを述べたが、こうしたパターナリズムは、個人の厚生基準を完備な順序で与えようとする限り、不可避のものである。*1 簡単な例で話を進めよう。X,Y,Zの3択ではXを選んでいるが、X,Yの2択ではYを選んでいるような個人を考えよう。この人にとって、XとYではどちらが良いのだろうか?「より大きな選択機会から選ばれたことの方が重要だ」という立場に立つならば、Xが良い、ということになるし、「直接比較で選ばれたことの方が重要だ」という立場に立つならば、Yが良い、ということになる。どちらを取るしてもこれは、どちらの問題に接した「自分」がより重要なのかについてのパターナリスティックな判断たらざるを得ない(「同等に」好ましいと結論付けるのも、やはりパターナリスティックな判
次のような見解は、隣接社会科学においては以前から支持されていたであろうものだが、90年代中盤以降、経済学のメインストリームにおいても一定の支持を集めているものである:(1)人間は必ずしも従来の経済学の想定するような意味では「合理的」ではない;(2)しかも合理性からの乖離は、結論の定性的性質に影響を与えないような副次的要素あるいは誤差ではなく、定性的影響を持っている;(3)そうした乖離は決してランダムなものではなく、それ自体一定の規則性を持っている。 ここでまず、経済分析に関する限りでの「合理性」の範囲を確認しておくとそれは、各個人が(I)彼自身の整合的な優先順位・達成目標を持ち、(II)それを達成するために必要な、外界に対する正確な認識と情報とを持ち合わせ、(III)それらを論理整合的に処理し、自分の優先順位にとって最適な選択を導き出すことができる、というものである。*1あくまで個人レベル
マクロ経済に関わっている人達は、GDP(国内総生産)の上昇(と下降)および上昇率に一喜一憂するわけだが、GDPは記述論的にはともかく規範的には重要な指標なのだろうか? 外部性(=市場でカウントされないサービスや効果。例えば家事労働などのシャドウワークや環境効果)がカウントされていないからダメだ、と言いたいのではない。もちろんそれはそれで問題なのだが、ここで問題にしたいのはもっと内在的なことである。 GDPはフローの指標である。フローとは、ある期間の間になされた活動を計測したものである。簡単のために国内の民間部門だけを考えると、支出面で勘定した「ある期の」GDPは「その期の」消費プラス「その期の」投資だ。これはあくまでも「その期の」ものだ。しかも、消費だけを考えるならば、その期にみんながエンジョイしたものの評価としてそれはそれで理解できるが、投資を勘定に入れるとはどういうことだろうか?我々が
「得させるに決まってるじゃないか。それが経済学の教えじゃあないのか?」と思われるかもしれない。 確かに、市場はそこに参加する人が全員、参加しない場合と比べて得するような配分をなす。そうでなければ、交換で損するような個人は最初から市場に参加しないからだ。この条件を参加条件あるいは個人合理性という。しかし、「すでに一定数の種類の財が取引していたものが、そこから取引の対象がより広がったら、人々は得するか?」というのはまた別問題である。例えば新たに金融商品が登場するとか、とある農産物の市場が開放されるような状況を考えるとよい。 「あらゆるものとあらゆるものとが交換できる」ことを市場の完備性という。一方、必ずしもあらゆるものとあらゆるものとが交換できない市場を不完備市場という。例えば、金融市場ではさまざまな不確実性をヘッジすべく金融商品が取引されているが、当然、それで世の中のすべての不確実性がカバー
経済学はなぜ合理的な主体を想定するのか?という問いについて、Friedmanによる有名な答えがある。それは、「非合理的な主体は間違った投資選択をするので長期的には損を被り、市場から淘汰される。したがって、非合理的な主体は長期的な経済の挙動に影響を及ぼさないと考えられ、合理的な主体を想定しても分析上失うものはない」というものである。これをFreedman仮説と呼ぶことにしよう。*1 これは決して自明ではないし、なおかつ解釈に注意を要する命題である。というのは、長期的将来において淘汰を勝ち抜き市場をdominateすることと、何がしかの目的に照らして合理的に振舞うこととは全く別物だからである。 例えば、割引効用選好をもつ人々からなる経済では、最も割引率の低い=最もpatientで将来に重きを置く個人以外は、長期的な将来においては所得がゼロに収束することが知られている(Becker (1980)
「効率」という言葉が言論において出てくるのはたいてい、「効率優先」を慨嘆するような文脈においてである。もう一方で、「効率」概念が積極的肯定的に用いられる場面においては、「これに同意できないのはバカだ」と言わんばかりに、あたかもそれが「科学的」な基準であるかのごとく言及されている。いずれにしても、こうした形で登場する「効率性」はある一元的な基準として用いられており、肯定も反発もそこに向けられているように見受けられる。 しかし、経済学においては本来、効率性それ自体はそんなに強い含意を持っていない。むしろ含意が弱すぎることの方が問題だと言っていいくらいである。*1もしこの効率性が何がしか一元的な基準に見えるようであるならば、それは「効率性 plus something」が語られているのであり、語っている当人がこの something に気づいていないかあるいは意図的に触れていないかのどちらかの理
今日からブログを始めることにした。経済理論に関する雑文を載せる予定である。 さて、少なくとも日本語の言論においては、論敵を「効率至上主義」者あるいは「競争原理主義」者・「市場原理主義」者呼ばわりすることは、オーディエンスを味方に引き入れるのに極めて有効な手段の一つである。 何であれ相手の立場を「○○至上主義」「○○原理主義」へと仕立て上げて批判の的にすることはよくあることではあるが、「競争」「市場」「効率」については殊にその当てはまりが良いようである。おそらく、人々がそれらの言葉自体に画一化された社会と人間の姿 ――― とある優先順位を与えられた価値に資するもの以外は「無駄」と切り捨てる社会と、物事の多様性に無理解な人間の姿 ――― を想起するからだろう。 「競争」「市場」「効率」を鍵概念として用いる経済学を専攻する一人として、私はこの事態に苛立ちを覚える。たとえ肯定的に用いられる場合にお
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『Metaeconomics』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く