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中東情勢
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*2007年度首都大学/東京都立大学大学院集中講義(9/11〜9/14)の講義ノートです。ただし、「5.交換可能性/交換不可能性と真正性の水準」は時間が足りなくなって、実際には講義できなかった部分です。 上野千鶴子さんは、『脱アイデンティティ』の序章で、「社会集団が包括的帰属から部分帰属へと変化するにつれ、断片化されたアイデンティティのあいだを、一貫性を欠いたまま横断して暮らすことも可能になった。この複数のアイデンティティのあいだに、強い『隔離』や『非関連』が成立した状態を、私たちは『多重人格』とか『解離性人格障害』と呼ぶが、それは病理である以前にポストモダン的な個人の通常のありかたではないだろうか」と述べて、さらに「アイデンティティの理論の革新は、アイデンティティ強迫や統合仮説と対抗してきたが、それらの努力は、『宿命』としてこの強いられた同一性から逃れたい、または逃れる必要があると考え
タイトルについての説明からしておこう。「社会の二層性」ないしは「二重社会」という視点は、最近、湖中真哉さんが、『牧畜二重経済の研究』[湖中 2006]によって見事によみがえらせた、J・H・ブーケの「二重経済」論の前提となっている「二重社会(dual societies)」という用語を、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準(niveaux d'authenticite)」の議論の帰結を表すのに援用したものである。この講演では、この視点を、グローバル化に直面して絶望的な困難さを抱えながら生きている「小さなもの」たちが、その生をまっとうするための実践を理解するのに必要かつ重要となる視点として、提示したいと思う。そして、副題として付けている「小さなものの敗北の場所から」というのは、思想史家の市村弘正さんの「小さなものの諸形態」というエッセイから取ったものである。
「文化人類学からみたカルチュラル・スタディーズ」は、それぞれ論文として刊行されましたので、削除しました。
この10年間ぐらい、人類学における「共同体」概念の脱構築/再構築を研究テーマのひとつにしていますが、今回の発表の目的は、共同体概念の脱構築/再構築を現代社会のイデオロギーとしてのネオリベラリズム文化批判と結びつけることにあります。それは、具体的には、バタイユの影響の下で展開されたジャン=リュック・ナンシーの「共同体」論以降の新しい「共同体」論の系譜を、ハイデガー以来の〈個〉の「代替不可能性」(交換不可能性・単独性)の議論と結びつけるという試みになります。そして、そのような共同体概念の脱構築/再構築のためには、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」という区別の導入が重要となることを示したいと思います。 まず確認しておきたいのは、「共同体」という概念が、近代のオリエンタリズムと同型の思考によって創られたものだということです。オリエンタリズムとは、近代の支配的な主体を自律的で能動的で合理的な
トップページにもどる オンライン書籍の目次にもどる 5章 戦略的本質主義から生活の場の戦術へ 1.戦略的本質主義のアポリアと「戦略/戦術」 ホブズボウムやサイードに対してもその本質主義的側面を批判するといった反本質主義の徹底化の一方で、西洋の学者たちが「伝統の発明」論のような脱構築を、世界システムの中で明らかなヘゲモニーをもつ自分たちの文化や伝統にではなく、植民地化された地域における再構築された伝統に対して適用するとき、構築主義に対して、現地の民族主義者たちから新植民地主義であるという批判が寄せられるということを、キージングとトラスクの論争で見てきた。トラスクの批判は、自己肯定的なアイデンティティの確立をめざす土着主義的な民族主義運動を「伝統の発明」と指摘する構築主義の議論は、抑圧されてきたネイティヴ自身によるアイデンティティの確立の基盤を破壊しようとしているという批判であった。けれども
文化人類学を学ぶことは何の役に立つのか、という質問を受けることがあります。最近では、学生からだけではなく、社会からそのように聞かれたらすぐに答えられるような講義が望ましいといった、くだらないことを大学内で言う人もいます(実際に「社会」がそんなことを大学教員に聞くなんてことはないのですが)。そのような質問への答えは、役に立つというのがどういう意味で聞いているのかにもよりますが、まあ、ふつうこういった質問は、直接に何かすぐに役にたつ(「お金になる」とか「就職が有利になる」とか「もてる」とか)ということを想定しているのでしょうから、その答えは何の役にもたたないということになるでしょう。けれども、あえていえば、文化人類学は、すぐに役にたつか立たないかという基準で生きていくような生き方とは違った生き方を想像するうえで、とても役に立つ学問だともいえるでしょう。というのも、文化人類学は、ひとつの社会での
文化人類学、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル理論に興味のある人向けのサイトです。小田亮の既発表の研究論文改訂版や口頭発表原稿、未刊行の原稿、一般向けのエッセイや書評などを載せています。 意見交換のための掲示板も設置しました。
1 「歴史主体」論争とポストモダニズム 加藤典洋の「敗戦後論」とそれに対する高橋哲哉の批判から始まった「歴史主体」論争と呼ばれる論争で提起された重要な問いは、日本人というネイションを名指しした他者の訴えに応答することと、ネイションという枠を脱構築することを、どのようにつなげることができるのかという問いであったように思う。すなわち、この論争の特徴は、国民としての主体化を拒否し、ネイションといった共同体を超えることを目指していた戦後世代の「ポストモダニスト」たちのあいだで起こった論争だという点にある。そして、そこが、本質的にはポストモダニズムを国民意識の基盤への攻撃者とみなす排他的なナショナリストたちの運動である「自由主義史観」や「新しい歴史教科書をつくる会」と、それを日本版歴史修正主義として批判する側とのあいだの対立とは根本的に違っていた。 しかし、先の問いは、加藤の議論と「自由主義史観
後期講義の最初で述べたように、この講義では、現代社会の特徴を、「個人化」による社会全般の「液状化」にみてきた。繰り返せば、「個人化」とは、ウルリッヒ・ベックらが言うように、社会の規範や慣習や規制といった、人びとの行為を律する枠組みが崩れ、あらゆることが個人の選択の対象になってきたことを意味する。選択の対象が増えれば増えるほど、その選択の失敗によるリスクも増えていき、不安も大きくなる。そして、伝統的な規範や従来の慣習などは自己選択や自己決定には役に立たず、かえってしがらみになって自己決定を妨げるだけだとされるため、個人化が進展すれば、社会の既存の規範はますます崩れていく。それが社会の液状化である。 この「個人化」「リスク化」「液状化」は、現代のネオ・リベラリズム(新自由主義)や新資本主義に限ってみられることではないが、ネオ・リベラリズムと新資本主義が社会の液状化を推進していることはたしかで
世界的にみて現代社会が新しい段階にきているということはしばしば指摘されている。この段階は、経済的には「新資本主義 new capitalism」、政治的には「ネオ・リベラリズム」の時代と呼ばれており、社会学的には、新たな「個人化」(「非線形的な個人化」)[Lash 2001]によって社会のあらゆる面での「液状化」[バウマン 2001]が始まっている段階とされている。「個人化」とは、職業やライフスタイルや人間関係や消費などのあらゆることが、社会の規範や規制といった枠組みによらずに、個人の選択の対象になってきたことを意味する。それ自体は、19世紀に始まる「モダニティ=近代」の特徴の延長線上にあるといっていい。しかし、現代の「個人化」は、19世紀から20世紀半ばすぎまでの「個人化」とでは(延長線上にあることは間違いないが)その様相が異なっている。 ドイツの社会学者のウルリッヒ・ベックは現代の社
アンリ・ルフェーブルは『都市革命』の冒頭で、街路(ストリート、rue)を礼賛する意見とそれに対する反−街路礼賛論の両方をどちらにくみすることなく並べてみせています。街路礼賛派は、街路が活気あふれる「出会いの場所」であり、使用価値が交換価値に取って替わる場所であり、日常的な秩序から解放される場であると、つぎのように説きます。 街路、それは無秩序なのだ。……固定され、冗長な秩序のなかに凍結された都市生活の全要素は、解放され、街路のなかで、街路によって、中枢へと流れ込む。それらは固定的な住居から離れて街路で出会うのである。……街路のなかで、またこの空間によってこそ、ある集団(都市自身)は明らかにされ、姿を現わし、さまざまな場所を占有し、占有した空間‐時間を実現するのである。このような占有は、使用と使用価値とが交換と交換価値とを支配しうることを示すものである。革命的な出来事はだいたい街路で起る。
カルチュラル・スタディーズの生みの親の一人であるリチャード・ホガートは、『読み書き能力の効用』のなかで、イギリス労働者階級の「伝統的な民俗文化」の没落を指摘する(ホガートが本当の「民衆文化」を語るとき、自分が子どもの頃の個人的な体験を交えながら、ノスタルジックに語っている)一方で、当時のイギリス労働者階級の若者たちがアメリカの大衆文化を受け容れていることを批判しています。つまり、ホガートは、伝統的な民衆文化(ポピュラー・カルチャー)と大衆文化(マス・カルチャー)との区別をしているわけです。ホガートのいう大衆文化とは、ミルク・バーのジュークボックスやラジオから流れるアメリカのポップスやテレビ番組や、大衆雑誌やセンセーショナルな日曜新聞などに掲載される暴力小説やマンガや犯罪記事などを指しており、それらは、パブや労働者特有の言葉づかいやコミュニティ活動に支えられた労働者の身近な社会的な絆や日常的
「歴史主体」論争への人類学的介入 ――共同体というものをどのように想像するか―― 1 「歴史主体」論争とポストモダニズム 加藤典洋の「敗戦後論」とそれに対する高橋哲哉の批判から始まった「歴史主体」論争と呼ばれる論争で提起された重要な問いは、日本人というネイションを名指しした他者の訴えに応答することと、ネイションという枠を脱構築することを、どのようにつなげることができるのかという問いであったように思う。すなわち、この論争の特徴は、国民としての主体化を拒否し、ネイションといった共同体を超えることを目指していた戦後世代の「ポストモダニスト」たちのあいだで起こった論争だという点にある。そして、そこが、本質的にはポストモダニズムを国民意識の基盤への攻撃者とみなす排他的なナショナリストたちの運動である「自由主義史観」や「新しい歴史教科書をつくる会」と、それを日本版歴史修正主義として批判する側とのあいだ
日常的抵抗論 Web版 2003/12/10版 このところ時間のあるときに加筆してきた『日常的抵抗論−〈いま・ここ〉を生き抜く術のために』の草稿です。あまりに増殖しすぎていつまでも完結しないため、まったく違った形で本にまとめることにしました。ただ、ここまで増殖したものを放棄するのはしのびないので、紙の本になるものとは別のものとして、オンライン書籍の形で公表することにしました。ひまなときにでも目を通していただければ幸いです。また、近いうちに刊行される単行本(時期は未定ですが、枚数は3分の2くらいになり、内容も大きく変わります)との異同やどっちが良いかなど、比較してみるのも一興でしょう。 目次 序章 日常的実践と〈顔〉のある関係性 1. 「日常的なもののやりかた」への注目 2. 共同体/公共圏/親密圏 第1章 異種混淆性とクレオール 1. 境界や起源に先行する異種混淆
*本稿は、『国立民族学博物館研究報告』21巻4号に掲載された論文の短縮・改訂版です。 ポストモダン人類学の代価−ブリコルールの戦術と生活の場の人類学 序論 問題の所在 本論文の目的は、ポストモダン人類学(1)の研究動向をサーヴェイすることではなく、ポストモダン人類学におけるオリエンタリズム批判や文化の構築論が基づく、本質主義(essentialism)と構築主義(constructionism)の対立という枠組みが見えなくしていることを明らかにすることにある。ポストモダン人類学は、従来の人類学が問うことなしに前提としていた「文化」や「伝統」や「民族」や「ネイティヴ」といった諸概念を疑問視し、特定の他民族(他者)の文化の本質を客観的かつ全体的に表象できるとする民族誌的リアリズムを批判することから始まった。さまざまに分岐するポストモダン人類学には、本質主義への批判という共通点がある。 ポストモ
トップページにもどる 論文・口頭発表の目次にもどる 成城大学文芸学部・学術講演会(2002/6/20)での口頭発表原稿をもとにしたもの。加筆して『日本常民文化紀要』に発表予定。 文化人類学からみたカルチュラル・スタディーズ ――文化・民族誌・ポストコロニアル―― 小田 亮 1.はじめに――カルチュラル・スタディーズの移入 日本で「カルチュラル・スタディーズ」という言葉が注目されはじめたのはほんの数年前の1996年のことである。1990年頃にアメリカ合衆国でカルチュラル・スタディーズが新しい分野として広まり、1990年代にイギリスやアメリカの大学でカルチュラル・スタディーズの「学科」や「学部」が設立されていったことの影響もあって、1996年に、カルチュラル・スタディーズの代表的存在であるスチュアート・ホールやメディア研究でのオーディエンス論を展開したデイヴィット・モーリー、フェミニズムの立場
エッセイ・書評目次に戻る 「遊び」へのまなざし はじめに 「遊び」というと何をイメージするだろうか。自分がする「遊び」ならば、競馬やパチンコやマージャンといったギャンブルかもしれないし、バイクでのツーリングや温泉旅行といったレジャーや、ゴルフやスキーや草野球などのスポーツかもしれない。あるいは、人によっては、盛り場での「夜遊び」のこともあるだろう。けれども、最も遊びらしい遊び、純粋な遊びとはと言われて、おとながゴルフやマージャンをしている場面や盛り場で女性相手に酒を飲んで口説いている姿を思い浮かべる人は少ないのではないか。「遊び」ということばが最もしっくりくるのは、やはり子どもが無邪気にブランコに乗っていたり、鬼ごっこをしていたり、凧揚げや石蹴りやこま廻しをしているようすなのではないだろうか。私たちは、どうも「純粋」な遊びとは子どもの遊びなのだというイメージをもっているようだ。つまり、
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