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yaseikaifuku.hatenablog.com
考えてみれば、自立した個人にとって同種他個体が必要なのは、再生産のためだけである。個人の生存にとって常時必要なのは、同種ではなくむしろ異種たちの存在である。 したがって、個人にとっては異種たちとの関係のほうが桁違いに切実であるはずで、日常的には、異種関係をよりうまく結ぶためだけに同種関係はあるといってもいいくらいなのだ。それが、高度に分業化し、そのため個人の生が幾重にも間接化された社会では、同種関係のほうがより重要だと受けとられるのが慣例となる。 分業は、個人の生の効率を向上させる。が、分業が高度化することで、本来異種関係に張られるはずの個人の存立の根は、同種関係に張られることになり、それが自明視されるにおよんでは、もはや生の効率化などといった目的は消え失せ、生きることは同種間でうまく立ち回ることでしかなくなる。いきおい、どこまでいっても異種によって支えられるしかない個人の生は迫真さを失い
わたしが畠をするのは、農業の道を極めたいからではない。はたまた、自身の健康や食の安全を目がけているのでもない。まして商売のためでは全然ない。 わたしは、生活をある程度自給したいと思っている。そしてその先で、人間の生身と風土の側から文化を建てかえすことに照準している。わたしが畠をするのは、とりもなおさず農耕という行為が、生活の、ひいては文化の基礎であるからに他ならない。 わたしは、農耕の仕様がそのまま、その文化の基本的な世界観を反映すると考えている。わけても耕すか耕さないかというところに、その集団の性質を透かし見ることができる、と。 ふつう(日本では)土を耕すことは、農耕の最も基本的な行為だと思われている。だが実際には、耕さずとも作物はまずまずできるのである(もちろんその土が栽培に適していることが前提)。現にわたしは、畠を耕さずに種をまいて、様々の野菜を収穫している。 たしかに、耕したほうが
一時の人恋しさで誰かに会ってもいいことはない。そう経験則として知ってはいるものの、こう一気に秋めいては閉口する。 大切な人を先日亡くした。 森下さん、享年九十二。 一昨年、大宇陀に移り住んだばかりの右も左もわからないわたしに、病いをおして野良仕事のいろはを教えてくださった方。まるで実の孫に接するかのようにいつもやさしい、風流で、几帳面な方だった。 鍬の使い方、木の切り方、縄の綯い方、刈払い機の扱い方、等々を手取り足取り指導していただいたばかりか、田畠を貸してくださり、あまつさえ敷地内に鶏舎まで建てさせてくださった。この人との出会いなしには、わたしのここでの暮らしは今の半分も成り立っていないだろう。 惜しい人を亡くした。 夜になって気温が下がってきた。乾いた冷たい空気を吸うたびに、さびしさが体内に侵入してくる。薄雲が星を隠してゆく。 森下さん、さようなら。
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