関連タグで絞り込む (2)

タグの絞り込みを解除

箴言に関するsyokichiのブックマーク (8)

  • フリードリヒ・ニーチェ - Wikiquote

    Die fröhliche Wissenschaft 神は死んだ。神は死んだままだ。そしてわれわれが神を殺したのだ。--断章125節 "Gott ist tot!! Gott bleibt tot! Und wir haben ihn getötet." Der Antichrist この項は英語からの重訳です。 キリスト教においては、どの点においても、道徳も宗教も現実と接触していない。--16節 "Weder die Moral noch die Religion berührt sich im Christenthume mit irgend einem Punkte der Wirklichkeit." キリスト教はひとつの大いなる呪い、あるいは巨大な質的堕落と私はいう。不都合に対しての執念という巨大な能は、十分に有害で、かつ秘密に隠され、取るに足らない事である。これを私は人類の

    フリードリヒ・ニーチェ - Wikiquote
    syokichi
    syokichi 2017/04/09
    怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
  • 瀧本哲史bot on Twitter: "議論に置いて相手を説得できることを期待しない方が良い。むしろ、両社のやりとりを見ている第三者に納得してもらえることを意識した方が良い。ディベートも裁判も第三者が判断する。意見を異なる相手の考えを変えるのは、オルグ、折伏、布教の世界に近く、まともな議論が必ずしも有効ではない"

    syokichi
    syokichi 2014/11/10
    第三者に「勝ち/負け」を見せつけようとするお馬鹿さんにならないために。
  • 無能な人は自身の無能さに気付けないため自信過剰になる傾向がある | スラド サイエンス

    1999年、学術誌「Journal of Personality and Social Psychology」で「ダニング=クルーガー効果」なるものが紹介された。これは、「無能な人には己の無能さを認識するに必要な高い知見が欠如しているため、己の無能さを認識することができない」というものである。そのため、無能な人はその無能さに悩まされたり、混乱したり、慎重になったりすることはなく、むしろ不相応な自信を持ってしまう傾向があるのだそうだ(Slashdot、Pacific Standard)。 これは机上の空論ではなく、実際に行われた実験で証明されているとのこと。その人物が持ち合わせている知識や技術が、文章力や感情知能、論理的推論、銃の安全管理、討論、金融知識など何であろうと、いずれにしても無能な人は大概にして自分の能力を過剰に評価してしまうという結果が得られているとのこと。

    syokichi
    syokichi 2014/11/01
    だからと言って必ずしも謙虚な人が有能というワケではないことも併せて考えておきたい。
  • 第五列 - Wikipedia

    第五列(だいごれつ、スペイン語: quinta columna )とは、来味方であるはずの集団の中で敵方に味方する人々、つまり「スパイ」などの存在を指す[1]。 この表現は、スペイン内戦で反政府軍側の将軍エミリオ・モラ・ビダル(スペイン語版、英語版)が、1936年にラジオで「我々は4個軍団をマドリードに向け進軍させている。人民戦線政府が支配するマドリード市内にも我々に共鳴する5番目の軍団(第五列)が戦いを始めるだろう」と放送したことに起源がある。共和国側では「第五列」を摘発するキャンペーンが共産党などによって行われた[2]。 太平洋戦争中、1942年からアメリカ政府はドイツ系やイタリア系には何もせず、日系人のみを強制的に内陸部の収容所に隔離した。これは日系人が日軍の「第五列」として内応し通敵活動する可能性があるとしてアメリカ国内で正当化された。第二次世界大戦中、ソビエト連邦ではナチス・

  • カルネアデスの板 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "カルネアデスの板" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2014年10月) カルネアデス カルネアデスの板(カルネアデスのいた、Plank of Carneades)は、古代ギリシアの哲学者、カルネアデスが出したといわれる思考実験の問題。カルネアデスの舟板(カルネアデスのふないた)ともいう。 舞台は紀元前2世紀のギリシア。一隻の船が難破し、乗組員は全員海に投げ出された。一人の男が命からがら、壊れた船の板切れにすがりついた。するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしま

    カルネアデスの板 - Wikipedia
    syokichi
    syokichi 2013/12/16
    武田泰淳や大岡昇平のカニバリズムを描いた作品が真っ先に思い浮かんだ。若干、意味が異なってきそうではあるが。
  • 一期一会 - Wikipedia

    一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来する日のことわざ・四字熟語。茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味する[1]。茶会に限らず、広く「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」という含意で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい」と言う言葉。 一生に一度だけの機会そのものを指す語としても用いられる[2]。 元は千利休の言葉とされる。利休は自著を残していないが、弟子の山上宗二は著書『山上宗二記』の中の「茶湯者覚悟十躰」に、利休の言葉として「路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤ

    syokichi
    syokichi 2013/06/14
    『死を考える』からは若干外れるけど、この言葉も。
  • メメント・モリ - Wikipedia

    この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2022年5月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2022年5月) 出典検索?: "メメント・モリ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 『メメント・モリ』、ローマ時代のモザイク(ナポリ国立考古学博物館) メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」「人に訪れる死を忘ることなかれ」といった意味の警句。芸術作品のモチーフとして広く使われる。 古代ローマでは「将軍が凱旋式のパレードを行った際に使われた」と伝えられる。将軍の後ろに立つ使用人は「将軍は今日絶頂にあるが、明日は

    メメント・モリ - Wikipedia
    syokichi
    syokichi 2013/06/14
    宗教よりもこの言葉を。
  • 彼らが最初共産主義者を攻撃したとき - Wikipedia

    『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』(かれらがさいしょきょうさんしゅぎしゃをこうげきしたとき)は、ドイツのルター派牧師であり反ナチ運動組織告白教会の指導者マルティン・ニーメラーの言葉に由来する詩。 ニーメラー自身は原稿の無いスピーチの中で成立してきた言い回しで詩として発表されたものではないとしており、厳密な意味でのオリジナルは存在していない[1]。この言い回しはおそらく1946年頃に生まれたと見られ、1950年代初期にはすでに詩の形で広まっていた[2]。 基的な内容は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が迫害対象を徐々に拡大していく様に恐怖を感じつつも、「自分は当該集団の関係者じゃないから」と見て見ぬふりをしていたら、己がいざ迫害対象になった際、社会には声を上げてくれる人はもう誰もいなかったというもの。 強いメッセージ性を内包するため、政治への無関心層へ向けた呼びかけとして世界各国で

    syokichi
    syokichi 2013/06/03
    何かに規制がかけられようとしている時、思い出したい言葉。
  • 1