タグ

<被害者>に関するtoledのブックマーク (11)

  • 被害者の呪い - 内田樹の研究室

    毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。 いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。 昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。 こんな話。 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「

  • 2007年の3冊 - G★RDIAS

    今年、印象に残った3冊をあげます。私は、人間を描き出そうという試みで、興味深かったを3冊。(必ずしも良書という意味で選んだわけではありません) (1)森田京子『子どもたちのアイデンティティー・ポリティックス―ブラジル人のいる小学校のエスノグラフィー』 子どもたちのアイデンティティー・ポリティックス―ブラジル人のいる小学校のエスノグラフィー 作者: 森田京子出版社/メーカー: 新曜社発売日: 2007/07/30メディア: 単行購入: 2人 クリック: 22回この商品を含むブログ (4件) を見る 日のある小学校での、参与観察をまとめたもの。筆者はアメリカの大学で、人類学を修めたフィールドワーカーである。約2年間、数度にわけて、教室の中での調査を行っている。ニューカマーとして、日移住してきた日系ブラジル人の子弟が、どのように小学校で暮らしているのかを追う。 やはり、言語の問題や、文

    2007年の3冊 - G★RDIAS
    toled
    toled 2007/12/26
    "被害者参加制度は、私が「声をきこう」運動と呼んでいるムーブメントの集大成であるといえるだろう。「当事者こそが真実を知っている」「当事者の意見を尊重しなければらない」という世の多くの人が賛同した運動"
  • サークルクラッシャー - はてな匿名ダイアリー

    全然知らないうちにサークルクラッシャーになっていたらしい。 物凄くベタな話なのだが…。 私は大学の理系学部似所属している。で、まあ、オタだ。 といっても腐女子ではないため、その手のサークルに入れず、違うオタ系サークルに入った(それだけでなく、他にもいくつか入ったのだが)。 そのオタ系サークルは男子が大多数。女子は私ともう一人。 皆少し人見知り気味だが打ち解ければ普通に楽しく、人並みに優しい人たちだった。 やっぱり一番仲良くなったのは女子だったが、他の男子ともそれなりに仲よくなった。 感じとしてはげんしけんに結構近かったように思う。 しかしサークル内でカップルは出来なかった。その女子はもともと他の学校に彼氏がいたし、私は彼氏はいないが今はそういう事に興味がなかった。彼女もちの男子はいなかった。 でそんな感じで私としては普通にまったり過ごしていたのだが、半年ほどたった辺りから、どうも、男子たち

    サークルクラッシャー - はてな匿名ダイアリー
    toled
    toled 2007/11/09
    こういうこと言う奴は最低だと思ふ→「サークルクラッシャーだったんだ。お前は」
  • 「情報統制があろうと、だまされる連中は自己責任をおうしかない」論-タカマサのきまぐれ時評

  • 「忘れる」という権利 (Dead Letter Blog)

    前回のEntryでは、被害者が非の打ち所のない・何も責めを負うべきところのない人間であったとしても、彼らが共感・同情心を世間から調達し続けられる保証はない、従って「被害者の人権の保障」を巡る「ゲーム」は被害者にとって苛酷である、という主張をした。 今回はもう少し踏み込んでみる。 藤井誠二はこのようなことを言っている。「愛する家族が殺されたら、復讐したいと思うのは当たり前」であり、それは「ごく当たり前の人間の感情や情緒」であると。 ここで先に結論を言っておく。僕は「そうは思わない」。 なぜなら人間は「忘れてしまう」生き物だからである。激しく恋焦がれる「感情」も月日と共に消え去っていくのが普通だし、愛する人が目の前で死ぬ絶望感のそのありありとした生々しさでさえ時間が奪い去ってしまう。憎しみも感情である以上またそうである。藤井が「人間としてそれが当たり前」という論理で押し通そうとするのなら、僕

  • 「被害者の人権」は普遍的か? (Dead Letter Blog)

    仮に子を惨殺された夫が、葬式で涙の一つも見せず、その翌日に女と遊びに行ってしまうような男だったとしよう。さらにもう一つ、彼の殺されたもしばしば育児をほったらかしにしながら男と浮気をし、家庭内不和が表面化していたと仮定を置いてみよう。つまり彼らの家庭は世間的に見て眉をひそめられるようなものだったのである。 さてその被害者遺族=夫がいかにも美味そうにタバコの煙をくゆらせながら記者会見でこのように主張するのである。 「犯人を決して許すことが出来ない。彼は許されないことをした。命をもって償わなければならない。」 光市母子殺人事件の被害者遺族である村氏はもちろん上記のような人間であるどころか、それとは正反対にあるような人である(ように少なくとも僕には「見える」)。彼は生真面目なサラリーマンであり、そして大恋愛の末結ばれたと待望の一人娘を一途に愛す良き家庭人でもあった。彼の家庭は現代の社会に

  • G★RDIAS - 朴裕河(パク・ユハ)『和解のために』

    和解のために 教科書、慰安婦、靖国、独島 作者: 朴裕河,佐藤久出版社/メーカー: 平凡社発売日: 2006/11/21メディア: 単行購入: 4人 クリック: 96回この商品を含むブログ (13件) を見る 韓国からの留学生の友人の話では、今の韓国では日思想が大ブームだという。特に柄谷行人は、韓国語に翻訳されたものも多く、「今、一番注目を集めてる思想家」らしい。 朴さんは、そんな韓国で日文学を研究している。柄谷行人や夏目漱石の翻訳を手がけてきた。そして、5年前に『反日ナショナリズムを超えて』を出版し、賛否両論を読んだ。さらに、2005年に上記の『和解のために』を刊行したのだ。 『和解のために』で、朴さんは「教科書」「慰安婦」「靖国」「独島」*1の4つの、多くの研究者が避けて通りたがる問題に、真っ向から取り組んでいる。日の動きと、韓国の動きを同時に描き出しながら、お互いに誤解をした

    G★RDIAS - 朴裕河(パク・ユハ)『和解のために』
    toled
    toled 2007/06/24
    "韓国のなかの責任を問うことは、日本の責任を薄めることにはならない"
  • In Cardiff

  • Long-Sunday - Your favorite way to spend Sunday

    toled
    toled 2007/05/24
    "Any political speech seems to require a prior positioning as or acceptance of the role of victim. One must self-victimize in advance in order to enter the political arena"
  • あるサークルクラッシャーの思い出 - pal-9999の日記

    推定自称サバサバ系女のつぶやき これ読んでて思い出したことがあるんで、今日はそんな思い出話。 こないだ、中学校の時の思い出話をしたけど、中学校には女性関連でいやーな思い出がもう一つある。 それがタイトルのサークルクラッシャー女の思い出。 いや、正確には、クラブクラッシャーなんだけど。 で、なんだけど、僕は、中学のころ、ある運動部に入っていた。その運動部には、男子と女子がいて、練習も一緒にやっていた。僕の学年には、男子3人、女子5人。 で、その女子五人のうち一人、Tさんが問題だった。 男子三人は、もともと小学校からの友達で、そのうち一人は、僕の幼馴染だった。家も100mくらいしか離れてなくて、小さいころからよく遊んだものだ。彼をSとする。 で、中学にはいって、一緒の運動部にはいったわけだ。そこで、問題のTさんとであった。Tさんは、違う小学校の子だった。 最初にあった印象としては、「可愛い子だ

    toled
    toled 2007/05/12
    非常に貴重な反省してないいじめっ子側からのいじめ体験談。
  • 子ども自身による反「管理教育」運動なるものは、ほとんどゲロゲロである

    別冊宝島『子どもが変だ!』のために書いた文章 その後『注目すべき人物』にも収録 一九九〇年十一月三日。この日、福岡県北九州市のある小さな旅館のホールで、「子どものティーチ・イン」と銘打たれた集会が開かれた。案内のチラシには、「主催 北九州人権フォーラム実行委員会」とあり、代表の弁護士の名が添えてある。 予定の午後二時を少し回って、集会は始まった。会場の構図にまず、ゲロゲロ感を覚える。 広い会場の前半分小学校高学年から高校生、浪人生くらいまでの「子ども」が円卓状に三、四十名並び、後ろ半分に「大人」たちがこれも二、三十名、列を作ってみな「子ども」たちの方を向いて並んでいる。「子ども」たちが自由に話し合うのを、「理解ある大人」が温かい目で見守る、という構図だ。「子ども」を「大人」の「保護対象」としてではなく「権利主体」としてとらえ直そうという条約の批准運動をしている人びとが、こういう差別的構

  • 1