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ブックマーク / call-of-history.com (3)

  • 古代メソポタミア文明~シュメール人・アッカド人の王朝の興亡まとめ

    シュメールかシュメルか「シュメール」という日語表記については、小林登志子『シュメル――人類最古の文明』で以下の通り指摘されている。 『なお、我が国では「シュメル」ではなく、「シュメール」と「長音記号」を入れて表記されることが多いが、これには理由がある。第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇のことを「すめらみこと」というが、それは「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行した。そこで、我が国におけるシュメル学の先達であった中原与茂九郎先生(京都大学名誉教授)が混同されないように音引きを入れて、「シュメール」と表記された。』(はじめにより) 特に古代オリエント史における固有名詞の和訳の問題については小川英雄著『古代オリエントの歴史』でも死語も多い古代語でセム語系や印欧語系を始め多くの言語とも関係している点で、『一定のシステムで音写の仕方を統一することは不可能』(注1)で

    古代メソポタミア文明~シュメール人・アッカド人の王朝の興亡まとめ
  • 「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

    1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー

    「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ
    Hige2323
    Hige2323 2015/11/11
    今回も読み応えがあった/まあ琉球尚王朝自体も三山統一や奄美・先島侵攻等を経て来ている訳で歴史上立場が逆になる事はままあるよねという話/大河琉球の風も当時余り面白くなかったがもう一度見てみたくなった
  • 「ローマ五賢帝 『輝ける世紀』の虚像と実像 」南川 高志 著

    帝政ローマの最盛期を現出したのがネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの五人の皇帝、通称「五賢帝」である、とされる。トラヤヌス帝の時代に最大版図を実現し、政治的にも経済的にも安定して、何かと理想化されるこの時代――紀元九六年から一八〇年までの約一世紀――を統治した五人の皇帝について、近年の研究動向と様々な史料を元にその光と陰を読み解いた非常に面白い一冊。 五賢帝時代に関する一般的な理解は、書によれば「徳望ある理想的な君主が元老院と協調して政治を行い、また元老院の優秀な人材を養子にして帝位を継がせるシステム(養子皇帝制)が機能して帝位をめぐる内乱が生ずることもなく、国の内外が安定した平和な時代」(P229)とされるが、書で明らかにされるのは五賢帝時代の実態はその説明と相容れないということだ。「『養子皇帝制』なるものは、実際には見出し

    「ローマ五賢帝 『輝ける世紀』の虚像と実像 」南川 高志 著
    Hige2323
    Hige2323 2015/06/05
    これ他国の史料にも通じる事だが、記録を残す階層が限定されていて後世に伝わる評価が一面的なものになりやすいという部分がある/ローマの元老院議員、宋朝の士大夫層とか、さて現代日本は後世どう言われるだろう?
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