江戸時代末期に反幕派を取り締まった新選組の幹部として活動し、明治維新後も生き残った斎藤一について、明治30年の1897年に妻や息子2人と共に撮影した写真が残されていたことが15日、歴史研究家のあさくらゆうさん(47)や子孫らへの取材で分かった。 斎藤は残された史料や写真が非常に少なく謎が多い人物とされており、これほど鮮明な写真が見つかるのは珍しい。
相馬事件がきっかけとなり、精神病者の監護(監禁および保護)の手続きについて問題意識が高まり、1900年に精神病者監護法が制定された。これは精神病者の人権保護や治療を目的とするものではなく、「精神病院」(精神病室)および私宅(神社仏閣における参籠所や公私立の精神病者収容施設なども「私宅」のカテゴリーに含まれる場合もあった)における監置を法によって規定するといった隔離を主眼にするものであった。 明治9年(1876年)ごろ、相馬誠胤の精神が変調しはじめる。誠胤24歳ころ[4]。 明治10年(1877年)6月13日、囲碁の勝敗を巡って誠胤が槍を持ち出す騒ぎを起こし、日光に保養に出される。その間に鉄柵付き八畳間の座敷牢が邸内に造られる[5]。 明治12年(1879年)4月14日、宮内省に誠胤の自宅監禁願いが提出され、翌日許可される[4]。 明治16年(1883年)12月10日、錦織剛清が相馬邸を訪ね
■大学レベル「合衆国ハ帝国主義ヲ…」 明治、大正期に陸軍で教育を受けた、秩父宮雍仁(やすひと)親王はじめ5人の皇族(当時)が10代のころに書いたとみられる西洋史の試験問題の答案が、神奈川県内の民家で見つかった。専門家によると、軍で教育を受けた少年期の皇族の資料はあまり知られておらず貴重という。 ◇ 答案を見つけたのは、神奈川県鎌倉市の団体職員、中沢夏樹さん(64)。陸軍の幼年学校、士官学校で明治29年から歴史教師を務めた祖父、澄男さんの遺品整理中に発見した。中沢さんは「祖父が皇族を教えていたことは知らず、驚いた。当時のエリート教育の高度さを感じた」と話している。 答案は各皇族の名前入りで、赤字で添削された個所もある。調べが足りない部分には「猶(なお)此ノ他ニ御記載アルベキ事項少カラズ」と丁寧に指摘するなど、「気を使っていることが分かる」(中沢さん)資料だ
幻燈辻馬車 [著]山田風太郎[掲載]2010年5月16日[筆者]筒井康隆(作家)■風太郎明治物の最高傑作 今年、山田風太郎文学賞という賞が新たに設けられてぼくが選考委員に選ばれたことは風太郎さんとぼくの浅からぬ因縁ゆえだろうか。彼とぼくはどこかの書評欄に書いたのがきっかけだったと思うが、いつからともなくお互いを認めあっていて、文庫の解説を書いたりお願いしたりした。お目にかかる機会は一度もなかったものの、お互いの著書はよく読んでいたと思う。ぼくは忍法帖以前から「陰茎人」などのナンセンス作品を愛読していて、忍法ものがすべて含まれている全集も持っていた。そんな彼が新たに書きはじめた明治ものは、たちまちぼくを夢中にさせた。中でも最高傑作と思えたのがこの『幻燈(げんとう)辻馬車』である。 もと会津藩士の干潟干兵衛は、西南の役で戦死した息子・蔵太郎の遺児である孫娘のお雛(ひな)を馭者(ぎょしゃ)台の横
・裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心 ペリーの日本遠征に随行した画家の「下田の公衆浴場」という絵には、全裸の男女が秘所を隠すこともなく混浴の浴場でくつろぐ様子が描かれている。若年や中年の男女が多いが、誰も互いの裸体に欲情していないし、恥ずかしさも感じていないことがみてとれる。この絵を見たアメリカ人は日本人を「淫猥な人たちだ」といい、フランス人は「日本人に羞恥心はない」といい、オランダ人は「男女の性別を気にしていない」といって驚き、そして軽蔑した。 150年前の日本では「男女が無分別に入り乱れて、互いの裸体を気にしないでいる」のは普通だったのだ。江戸時代の日本人にとって、裸体は顔の延長のようなものであり、現代人の我々がスッピンの顔を見られても恥ずかしくないように、裸を見られても平気だった。 江戸時代の日本人がいかに裸に対しておおらかだったか、具体的な記録から明らかにされる。若い娘
慶応4年(明治元年・1868)1月3日、京都・鳥羽伏見の戦いで天下の形成は逆転する。幕府軍は薩長連合軍に敗れ、全国の諸藩は錦の御旗を掲げる新政府軍(官軍)を支持しはじめた。新政府はさらに絶対権を得るために1月7日に慶喜将軍追討令を出して戊辰戦争が開始される。 そして4月11日、江戸城はついに無血開城となるのだが、これに不満な幕臣たちは続々と脱走していった。 そんな中、一橋家では将軍・慶喜の汚名を晴らそうと、渋沢成一郎や天野八郎らによって「彰義隊」が結成された。だが上野戦争の直前、武力衝突を主張する強行派と決別した渋沢成一郎は、尾高新五郎と新たに「振武軍」を組織し、田無・西光寺にその本陣を置いた。(渋沢成一郎は慶喜の幕臣・渋沢栄一の従兄弟、尾高新五郎(惇忠)は、渋沢栄一の義兄。)そしてその振武軍の参謀を務めたのが渋沢平九郎(昌忠)である。(尾高新五郎の末弟で、前年に渋沢栄一の仮養子となって
本展では、本学附属図書館が所蔵しております貴重なコレクションの中 から、選 りすぐった幕末・明治期の古写真約200点を展示し、約100年前の近代日本形成期 の諸相を写 真に残された全国各地の風景・風俗・人物等を中心に”目で見る歴史”として紹介します。 これらは、わが国に最初に本格的写真技術をもたらし た、F. ベアトの作品十数点を始めとする我が国揺籃期の写真師の作品から、「横浜写真」の名で知られ る外国人観光客向けの土産物として作られた絢爛豪華な漆塗り蒔絵アルバムに至るまでの作品群を一堂に集め紹介するものであります。 わが国が本格的に海外に向けその門戸を開き、近代化 への第一歩を踏み出した時代をそのまま画像として捕らえたこれらの写真は、現代の私たちの目にも新鮮 なものとして映るものと存じます。
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