20年以上前だと思うのですが ネットでとても面白いブログを書いている人を見つけまして あまりにも文章が面白いのでよく覗きに行っていたのですが お医者さんになる所だった人だったらしく 忙しくなって更新が無くなって でも何年経っても気になって 時折、ペンネーム等の断片で検索をして>
ある著名人の方がご結婚されるという記者会見のあった深夜。その人がレギュラーを務めるラジオ番組は、いつも通りに放送された。 - - - - - そのおめでたいニュースを見て、その日のお昼に僕は親友に「おめでとう、よかったね」とメールを送った。何故なら彼はその人のことがずっと大好きで、ずっとファンとして応援していたからだ。シェフ見習いとして修業していたころ、彼の独り暮らしのアパートには冷蔵庫と布団、あとはその人の番組を聴くためのラジオしかなかった。彼の結婚式披露宴では、その人のビデオレターがサプライズで流れた。彼が自分の店を出して小さいながらも自分の城を持った時にも、後輩や仕事の同僚を連れてその人は店に足を運んでくれていた。 その人からは、ずっと「ライブに招待するよ」と云われていたそうなのだが、彼はお気持ちだけ頂戴してはお断りしていた。俺は、ちゃんとお金を払って、ファンとしてライブが見たい。そ
16年の熊本地震からちょうど2年となったこの日、雨天のため試合は中止となった。だが、ゲストで訪れていた熊本出身のタレント、コロッケ(58)が予定にはなかった「ものまねショー」で盛り上げ、ガッカリしていたファンを喜ばせた。 雨が降ったりやんだりの中、グラウンドの状態も悪く試合開始直前に中止が決まると、スタンドからはため息や残念がる声が響いた。中にはすぐに客席を後にするファンもいたが、始球式を行う予定だったコロッケが意を決した。「ほんのちょっとでも、喜んでいただけたら。遠いところから来てくださった方もいる。熊本に来たことが、何かひとつでも思い出になってくれれば」と、雨の降るグラウンドに立った。 だが、試合を楽しみにしていたファンの前に出て行くことには恐怖もあった。「中止が決まった後に、出て行くのは怖かった。正直、こんなに緊張したことはなかったです。テンパっていたし、何をしていいか分からなかった
マタタビ @matatabi_mm 若い頃、すぐ氾濫する川のそばに住んでて、記録的な大雨のあと冠水した道路に大量のフナがじっと死ぬのを待ってるように浅い水溜りの中にいて、たまらない気持ちになり、バケツに片っ端からすくい上げては川に戻しに行く、と言うのを何往復も繰り返していて、 2017-02-23 10:03:36 マタタビ @matatabi_mm 道端のおっさんが「あんた何してんの」と声をかけてきて、フナを川に戻してます、と言うと二往復くらいバケツを持つのを手伝ってくれて、「あんたいつかフナが恩返しに来てくれるよ」と声をかけられ、(フナがいつか恩返しに来てくれるのか)と漠然と心にずっと残ってたのだけど、 2017-02-23 10:06:17
「美少女戦士セーラームーン」を始め日本のアニメが大好きなことで知られる、ロシアのフィギュアスケート選手エフゲーニャ・メドベージェワさん(関連記事)。7月2日にInstagramへ、セーラームーンのコスプレ衣装を着た自身と、原作者の武内直子さんとの2ショット写真を投稿しました。 4月にはフィギュアスケート世界選手権2016で優勝した際に日本からのインタビューで、突然「ムーンライト伝説」の歌詞をそらんじてみせたメドベージェワ選手。7月1日は新潟県長岡市で行われたアイスショー「ドリーム・オン・アイス」で、同作の楽曲に合わせてセーラームーンのコスプレをしながら滑りを披露。最後には「月にかわって お仕置きよ」のポーズも決めるなど、セーラームーン愛を爆発させていました。 Instagramの写真では、アイスショーと同じ衣装で武内さんと一緒に笑顔で2ショット。その手には武内さんから贈られたサイン入り色紙
ハリウッドスターらしからぬ言動で知られているキアヌ・リーブスが、またもや彼らしい話題を提供している。新作『Daughter of God(原題)』の撮影終了パーティの会場に向かったキアヌは、主演俳優なのに警備員に誰だかわかってもらえず入場を断られ、会場の外で20分も待っていたという。 しかも、パーティが行われたのはハリウッドスターをあまり見たことがない人が多い国や田舎の街というわけではなく、ニューヨークのチェルシーにある有名クラブだ。あいにくその夜は雨が降っていたそうだが、キアヌは特に怒ることもなく、黙って外に立って待っていたそうだ。 キアヌを会場まで送って行った車の運転手が、「キアヌは辛抱強く待っていた。彼は警備員に『俺はキアヌだ』とかそういうことを言わなかったんだ。誰も彼が何者なのかわかっていなかった。雨の中、2人の友人が到着するまでキアヌは立って待っていた。彼は金持ちのような偉そうな
わたしはサンタさんがいると思っています。 逆に、いないと言っている人の意味がわかりません。 サンタさんという職業、前テレビでもやっていました。 サンタさんのプレゼントは絶対親がくれないようなものをくれ わたしはサンタさんがいると思っています。 逆に、いないと言っている人の意味がわかりません。 サンタさんという職業、前テレビでもやっていました。 サンタさんのプレゼントは絶対親がくれないようなものをくれ ます。 どうしてトナカイは空を飛ぶのか。 これは純粋に疑問です。 どうしてサンタさんは家に入ってこられるのか。 お母さんはイブに鍵を開けてると言っていました。 サンタさんへの手紙を枕もとに置いたら次の日ちゃんと返事が書いてある。しかも、スラスラの英語で。 お父さん、お母さんはこんな英語書けません。 どうして、サンタさんが空を飛んでいる様子の動画がないのか、疑問です。 詳しく教えてください。 ち
スポーツメーカー「JAKO」のユニフォームを着てピッチに向かうフランクフルトの乾貴士。JAKOはブンデスリーガ以外にも、ベルギーやオーストリアなど様々な国のチームと契約を結んでいる。ナショナルチームでは、ヨルダン、ルクセンブルク、モルドバが使用。 「フランクフルトがどん底にいたとき、JAKOは手を差し伸べてくれた。他の会社が年間10万ユーロ多く払ったとしても、私たちはパートナーを変えない」 ヘリベルト・ブルフハーゲン(アイントラハト・フランクフルト会長) ブンデスリーガを取材していて、ずっと不思議に思っていたことがある。『JAKO』(ヤコ)というスポーツメーカーの存在だ。 初めてJAKOの名前を意識したのは、2006年夏、高原直泰がハンブルガーSVからアイントラハト・フランクフルトに移籍したとき。フランクフルトにユニフォームやトレーニングウェアを提供していたのがJAKOだった。 その1年後
昨年の年末に、ナインティナインの岡村隆史が復帰しました。 さらに、桑田佳祐が「NHK紅白歌合戦」で復帰し、自身がパーソナリティを務めるラジオ「桑田佳祐のやさしい夜遊び」にも元旦から出演。加えて、先日放送されたTBS「美女アスリート総出演 炎の体育会TV」では、アンタッチャブルの柴田英嗣も復帰を果たしました。 そんな嬉しい復活劇が続いた年末年始でしたが、「ナインティナインのオールナイトニッポン」で、岡村さんが休養中の様子を語っていましたので、今回はこちらを紹介させて下さい。 休養中に高倉健から手紙と本が届く 2010年12月9日放送「ナインティナインのオールナイトニッポン」(ニッポン放送) パーソナリティはナインティナイン(岡村隆史・矢部浩之)。 岡村隆史がラジオに復帰してから2回目の放送。5ヶ月間の休養中には、お笑い関係者以外の方からもたくさんの連絡や差し入れがあったと言います。 岡村「あ
人気特撮ヒーロードラマに出演している、若手俳優の鈴木勝吾さん(21)のブログが話題を集めている。息子を失った母親の「お願い」に対する返答が「粋」だったからだ。ブログを通じたやりとりに読者からも「感激しています」「涙が止まりません」という書き込みが相次いだ。 話題になっているのは、鈴木さんが2010年2月7日と8日に書いた記事だ。7日は「ゆびきりげんまん」と題して、出演する特撮ヒーロードラマ「侍戦隊シンケンジャー」のことを話題にした。ドラマが同日の放送で最終回を迎えるという内容だった。 「空を見上げて頂けないでしょうか」 鈴木さんはドラマで、シンケングリーンに変身する谷千明役を演じている。番組は幼児向けだが、お母さんの方も熱狂しているらしい。その証拠に、鈴木さんのブログにも番組放送前からは「楽しみです」「まちきれないよー」などと書き込みが殺到し、番組がはじまってもそれは続いた。 そして放送終
■編集元:生活全般板より 768 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:29:44 ID:Sz0CHrYx 夜中にこっそり長文を貼ります。怒らないで。 高校の時、母親が病気で亡くなった。 父は弱い人だったのだと思う。 苦しむ母親から目をそらして、他に恋人を作って、母親が亡くなると家を出ていった。 「高校卒業までは面倒をみる。その後は自力で暮らしてくれ」 受験も追い込みに入る3年生の秋、わたしはこうして独り暮らしを始めることになった。 わたしの通っていた高校は進学校で、ほぼ100%の生徒が大学を目指していた。 わたしだけ、大学受験という目標は消えた。 授業料や家賃や光熱費は父が負担していた。 生活費は送ってもらえなかった。 どこを探しても家にはお金がなかった。 父の新しい相手は他人の奥さんだった。きっと慰謝料のために何もかも持っていったのだ
もう15年前にぐらいになるが、僕の仕事のやりかた、ユーザにたいしてどうやって向き合っていけばいいかについての信念を決定づけたある事件について語ってみようと思う。ほぼ懺悔にも近い。 ぼくが企画したモデムがバカ売れした。無名のブランドだったのにもかかわらず発売した瞬間に、秋葉原のショップで1番の人気モデルになった。理由は他者のモデムが無骨な段ボール箱にはいっていて、いかにもコンピュータの部品っぽかったのに、ぼくのモデムはカラフルな化粧箱をつけて、とても初心者が使いやすそうに見えたからだ。実際、簡単そうにみえる化粧箱をつくるのに何回もつくりなおして半年以上もかかった力作だった。 当時windows95が登場してインターネットが話題にのぼりはじめたあたりで、いままでマニアのパソコン通信ぐらいしか用途がなかったモデムをインターネットという単語に引き寄せられた大量の初心者が買い始めた時期で、とにかく簡
さて、話は1996年のことだから、今からすでに12年近く前のことになる。 僕はある国立大学の工学系大学院修士課程を卒業したばかりで、生意気だった。当時、少林寺拳法三段をとったばかりだったし、体力的にも知力的にも僕が最も充実していた時期だ。 僕は通称「ミカカ」で知られる通信会社に採用され、フレームリレー交換機開発に回された。 正直に言って面白くなかった。1996年当時すでにフレームリレー交換機は時代遅れだったのだ。さらに面白くなかったのは、着任直後に少し禿げかかった風采の上がらないおじさんの下に付けられたことだ。その人の名は西嶋さんといった*1。 「よし、お前、来い」 西嶋さんは僕を呼んだ。僕を呼ぶ時には「お前」か「矢野」と呼び捨てだった。それも気に食わなかった。 「いいか、ここにある架は、大阪だ。そして、向こうにあるのが東京。そして、名古屋、福岡だ。いいか?」 職場にはフレームリレー交換機
その人は、高校卒業して最初は自動車整備のお仕事をされていましたが 現場ではなく営業に配置換えがあり(リストラ目的の異動でもあったらしい) 退職されて関西のとある家電メーカーに中途入社されたそうです。 最初はブラウン管テレビの生産ラインの組立て工程での採用でしたが 自動車会社で培われた技術でもって機械の修理・メンテナンスが得意ということで 海外工場を建てる時のライン設計も任されるようになり その後、開発部門の所属になられたそうです。 とはいえ、ブラウン管テレビの中身は組立ててたけど改めてじっくりみる機会は初めて。 と、いうわけで見てたらエンジニアの血が騒いだ。 「…ここのスペースって、こうしたらもうちょっと小さくていいんちゃう?」 それを聞いた周りの人は有名な大学・院を卒業した専門家ばかり。 みんな口々に、「それでは熱が逃げなくてダメになっちゃうんですよ」と言う。 最初は頭いい人等がそう言う
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