サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
掃除・片付け
goisan.hatenablog.com
少し前の朝、ごみを出しに行った時のことだ。前を国道が走っているのだが、朝の通勤時間帯で車の往来も激しい。ごみを置いての帰りにその流れを見ていたら、突如としてムワーっとした蒸し暑い空気が押し寄せてきた。ところがこの匂いがどこか懐かしい。少し考えて、そう言えば子供の頃の夏はいつもこんな匂いがしていたのを思い出した。そこら中に響き渡るセミの声。ようやく夏休みが訪れて、解き放たれた心。6週間という長い休みをどう過ごそうかと考えただけで心が躍る。宿題の計画を立てるのも案外楽しみだった。 そう、なんか久しぶりの夏らしい匂いを嗅いだのだ。あの頃はエアコンはもちろんのこと扇風機だってない。家に居る時はランニングシャツにパンツ一枚といったスタイルだ。そう言えば蝿もたくさんいた。祖母に頼まれて毎日何十匹もの蝿を蝿たたきで叩き落した。いや叩き潰した。まさに丹下左膳か鞍馬天狗になったかのような気分だった。夜は蚊帳
明日のタートルマラソン大会から、自分たちのチームの今シーズンが始まる。ということでこの大会にも7度目の出場となる。思えば6年前に同僚のS田さんと初めて参加した時は気温が30度を超え、30名余りのランナーが救急車で搬送され、道の両脇にもかなりの人が横になったりしゃがんだり、歩く人も相当数いて、何とも壮絶な大会だった。S田さんにとっては初めてのマラソン大会で2時間半を目標に走ったのだが、まさにジャストの2時間半でフィニッシュ。ぎりぎりではあったけど目標を達成したということで彼はマラソンを続けることを決意したのだった。 ごいさんはと言うと、体力にはまあまあの自信もあったし1時間50分ぐらいは楽勝なんて思っていたところが13キロで両足が攣るなどして、結果は2時間3秒と惨憺たるもの。情けなく悔しい思いをしたのを覚えている。もしこの時S田さんが続けると言っていなければごいさんも今はきっと走っていない。
誕生日のことなどまったく書こうとは思わなかったのだが、子供がケーキを買ってきてくれたものだから、少しばかり書いてみようという気になった。 昨日遅くに会社から子供が帰ってきて、パソコンに向かっているごいさんの背中にいつものように「ただいま」と声をかける。これまたいつものように「お茶でも飲むか」とごいさんが言うと、「ああ」という返事が返ってくる。一緒にリビングに行くとおもむろにテーブルの上にスーパーのレジ袋を置く。何かと思って見たらチョコレートケーキ2つと丸いモンブランケーキだった。 「どうしたんだ」って聞いたら、「あれだろう」と言う。そうかあれね……って、今日はごいさんの誕生日なのだ。遅い時間でケーキ屋さんは閉まっていて、それでスーパーで買ってきたという。まったく飾りっ気のないケーキだけどなあ。「だいたい父さんが甘いものを食べている所を見たことがないから、ケーキを買っていっていいのかも迷った
昨日子供と一緒に iPhoneと iPad を購入してきた。iPhone なんて自分とは縁遠いものと思っていたから手にした時は不思議な感じがした。iPad はどうしたものかと迷ったが、今までもタブレットを使っていたのとあの大きな画面は魅力的ということで結局購入することにした。子供と一緒ということもあるのか、自分でも大胆な買い物をしたものだと思う。一人だったらあれこれ悩んで、買うに至っただろうか。子供の手前、なんかいいところを見せようなんて気持ちが多分に働いたような気がする。 子供は最新の iPhone 7 Plusでごいさんはその前の iPhone 6s だが何が違うのか分からない。だいたいそれらの機能の何分の一しか使いこなせないだろうから、正直言って贅沢な話だ。いつから電話にこんなにお金をかけても平然としていられるようになったのだろうか。 それにしてもついに iPhone とはね。一時ス
いよいよ明日は京都マラソンを走る。京都は大好きな街の一つだ。札幌、仙台、金沢、京都と大学受験の時はそこに住んでみたいという憧れだけで受験校を考えていた。結局どれもお金(学力の問題とはあえて言わない)の工面がつかなくて、諦めたわけだけど。 何年かして高校の親友が京都の大学院に通うことになった。百万遍あたりに下宿することになって、これ幸いとばかりに毎年夏休みを利用して1週間ぐらい訪れるのが数年続いた。朝、友人と下宿を出て大学に向かう。学食で一緒に食事をした後は、彼は研究室へ向かい、ごいさんは観光にと街に繰り出す。もっともお寺を見て回ったのは最初の頃だけで、後は街中をぶらりと歩き回るだけだった。それに何より楽しみだったのは新京極にあった「京都花月」だった。あの頃は「のりおよしお」や「オール阪神巨人」など漫才ブームでお客さんもけっこう入っていて賑わっていた。そこでたいがい半日を過ごしていた。親友は
今日はいわきサンシャインマラソンを走る予定でいた。木曜日には意気揚々とその準備をしていたのだが、夕方あたりになって頭がじんわりと重たい感じになって少しばかり咳が出るようになってきた。風邪かと思ったが、熱もない。それでも大事を取って早めに寝ることにした。翌朝起きてみたら、咳は止まったものの喉に痛みを覚えるようになっていた。それでも熱の方は相変わらず平熱で、まだ風邪を引いたという感じはしない。 その日は午後からの授業。少しばかり不安になりながらも出勤する。授業の途中に窓の外を見ると、今にも積もりそうな勢いで雪が降り出していた。体調の方はというと熱もなさそうだし咳も出ない。ただ喉が痛いのと声のかすれが少しばかりひどくなっているようだ。何人もの生徒から、「先生、大丈夫?」なんて優しい声をかけられる。こういう時の生徒は本当にいつも優しい。 どうにか授業を終えて帰る段になるのだが、外の雪の降る勢いはま
さて今回はニューヨークの街を一人で歩いてみるというのも楽しみの一つだった。観光ツアーに参加してざっと見るのもありなのだろうけれど、迷いながらでも自分で歩いてみる方が面白そうだ。ついでに自分の英語力も試してみたい。直近にテロや銃の乱射事件などがあって怖いというのもあったが、興味関心がそれを上回った。 初日はコンベンションセンターでゼッケンを受け取った後、4時近くにホテルに到着する。このホテルは6番アベニューと53番、54番ストリートに面している。ここで1時間ほど休んで、事前に予約した割引入場チケットを受け取りに出かけることにした。そのオフィスは8番アベニュー43番ストリートの所にある。アベニューとアベニューの間は約200m、ストリートのそれは約100mということで、距離の感覚がつかみやすい。 実際に歩いてみると東京のどこかを歩いているようでそれほどの緊張感は感じなかった。もちろんそこに居るの
一昨日、母に呑兵衛旅行で買ってきたお土産の「笑う猫」を届けに行ってきた。新しい電池を入れて、母に「猫のお尻を触ってみな」と促す。恐る恐ると差し出した手でちょんと突っつくと、途端に猫がけたたましく笑い出した。猫の鳴き声じゃない。ギャハハハハハと人間の笑い方だ。それもしっぽを軸にもんどり打って笑っている。その笑い声の勢いにつられて母も思わず笑いながら「何、これ」を連発している。自分もそうだが皆さんにもあると思うけどあの胸の苦しくなるぐらいの笑い方だ。仰向けになって笑っている様はまるでひきつけを起こしているかのよう。何が可笑しいのかなんてどうでもよくて、ただそれを見ているだけでこちらも可笑しさが込み上げてくる。 今日は下の子供から預かったお土産も持ってきた。先日に夏季休暇が取れて北海道を旅してきたという。お土産は旭川動物園で買ったアザラシのぬいぐるみだった。昔流行ったあのゴマちゃんみたいだ。こち
ここのところ頭の中でもやもやしていたことを、少しばかりまとめてみることにした。上手くは書けていないが、少しは具体化されたような気もする。 大学を卒業して先生という仕事に就いて社会人となった時、これからは自分の力でしっかり生きていこうと考えた。そうして、生徒にも生きる力を身につけなければいけないと繰り返した。今の学習指導要領にも「生きる力」を育むと謳われているが、そんなことは昔から言われていた。そんな生徒の手前もあって、自分自身も自分の力だけで生きていくのだと、そんなことを考えては毎日を過ごしていた。 やがて結婚をし、二人の子供も育てた。職場では中心になってバリバリ働いた。自分は確かに自分の力でしっかり生きていた。それが子育ても終わり定年が見えてきた50歳を過ぎたあたりで、心の中に少しばかり変化が生じた。確かに自分は自分の力で自分の生きたいように生きてきた。でもそれは本当に自分だけの力だった
それは、朝の職場に向かう時のことだった。駅から学校までは15分ほどの道のりなのだが、最後の500mほどが直線になっている。それまでうつむき加減に歩いていたのだが、ふと顔を上げてみると40~50m先を自分らしき人物が歩いているのが見えた。後ろ姿しか見えないが、確かにあの格好は10年前の50歳の頃の自分だ。その頃のごいさんは、校長先生になりたいと思っていた。校長先生になって学校全体を盛り上げたいなんてことを考えていた。だが、その熱い思いは2~3年後にはすっかり冷めてしまうことになる。結局、校長先生の力も限りがあって何事も思うようにならないことが分かった。上からの命令をただ押し付けるだけの仕事は自分には合わないことは知っていたしね。それでも生徒や学校へ寄せるごいさんの思いは同僚や若い先生には伝わったようで、最後まで慕ってもらえて最高に幸せだったんだ。 よく見るとその先を40歳の自分が歩いているよ
ちょうど9時に号砲が鳴っていよいよ京都マラソンの始まりだ。Sブロックに続いてAブロックが動き出す。スタートロスが49秒とこんなに少ないのも初めて。多少の混雑はあるが、流れが速いのでまったく気にならない。 桂川沿いに出ると左前方に渡月橋が見えてくる。そこを右折していよいよ上り坂が始まる。そこから17キロ地点まで続く上りをどう走るかがこのレースのポイントになる。それに体調も今一つということで、とりあえず前半はキロ5分で走り、後半に多少の余力を残して何とかサブ3.5をキープしたいと考えた。それに21キロ地点ではカメキチさんご夫妻が応援してくれているので、そこではどうしても余裕のある走りを見せたかった。 入りの1キロは5分19秒だったがその後スピードを上げ最初の10キロを49分20秒でクリア。続く上り坂が基調の10キロも48分21秒と予定より若干速いペースで乗り切った。ただ時々咳が出るのがちょっと
1日の日曜日に、宮城県仙台で行われた「東北・みやぎ復興マラソン」に参戦してきた。1週間前に榛名湖マラソンを走ったばかりでという声も聞こえてきそうだが、初めに申し込んでいたのはこちらの方だった。この大会が開かれると知った時、あの震災で受けた被害がどのようなものだったのか、そしてあれから6年半が過ぎて復興はどうなっているのか、それを見ないではいられない思いだったのだ。その後で調整という意味合いもあって榛名湖を選んだのだが、結果として今のごいさんには少々無謀だったかもしれない。 8月まではどうということもなかったのに何の前触れもなく9月に入って急に腰の周りが痛み出したのだ。元々体型のバランスが崩れているのは知っていたのだが、それをかばうような走り方のせいだと思うのだが、走り終えるとかなりの痛みを覚えるのだ。榛名湖ではどうにか乗り切れたので大丈夫だろうと思えたのだが、その痛みはじんわりと続いていて
今月24日は父の42回目の命日だった。父が亡くなった時、涙が溢れてきて長い時間止まらなかった。それがどうしてだったのか今でもその時の気持ちは分からないままだ。その頃の自分は父親の存在なんて気にもしていなかった。それがしばらくの間は何度も夢の中に登場した。帰ってきた父を見てお帰りなさいと言っている自分。夢が現実と思えるほどに鮮明で、父が死んだとはなかなか思えなかった。 年を取るごとに、心の中で父の存在が大きくなっているのを感じている。子どもの頃の自分を父はいったいどんな思いで見ていたのか。自分の子供たちと接するたびに、そんなことをよく考える。稼いだ金はすぐに使ってしまうし酒を飲んで暴れることもたびたびだった。自分にとっても家族にとっても決していい父ではなかったし、父親自身も嫌われていることを承知していた。そんな父はその頃どんな思いでいたのだろう。 それがある時から突然本を読むようになった。尋
自分の病院に行くついでがあったので、土曜日に母を訪ねていった。今回の母の日のプレゼントは、小さな丸いケーキと造花でできた可愛らしいお花。それと母が最近はまっている焼酎。食前酒みたいにしてご飯の前にお猪口で1杯飲むのがいいらしい。それに商品券を少しだけ。以前は何か買っていったのだけどなかなか気に入ってもらえないから、最近は自分で好きなのを買ってよという感じで商品券を渡している。現実的な母にとってはこの方がありがたいらしい。お金はありがた過ぎてこれまた使わずにしまってしまうのだ。 2年ほど前から週に一度、母のところに寄るようにしている。2度3度と行ってもいいのだが、多すぎても母の自由を奪いそうな感じがして遠慮しているといったところかな。行けばご飯の用意をしたりお菓子やお茶を出したりと何かと忙しなく動き回る。それはそれで嬉しいからだろうけど、日課の散歩もできないし好きなテレビ番組も落ち着いて見ら
今日は写真を見ながら釧路の旅を振り返ります。枚数が多いので、お急ぎの方は適当にとばしてくださいね。 7月27日(金曜日)、朝一番の飛行機に乗り、11時過ぎに釧路駅に到着。昼食は、ラーメン工房「魚一(うおっち)」の魚醤アサリラーメンこってり味。 釧路13時35分発のノロッコ号に乗車。塘路駅までの往復の旅へ、いざ出発進行。 塘路駅の展望台より撮影。向こうの奥に見えるのは塘路湖。 夕方、有名な幣舞橋(ぬさまいばし)の夕日を見に行く。曇っていて見えず、残念。 が、ラッキーなことに釧路ではこの金曜日と土曜日に「くしろ霧フェスティバル」という催しが行われていた。 電撃ネットワークの体を張った出し物には、会場から悲鳴が聞えていた。 レーザーショーはなかなかの迫力。老若男女、釧路の人たちがたくさん集まっていた。 2日目はレンタカーを借りての湿原巡り。まずは釧路湿原展望台へと向かう。 続いて温根内木道を歩く
12日土曜日、羽田空港を7時20分に離陸。岡山空港からは高速バスで約30分。9時半に岡山駅に到着した。ホテルに荷物を預けて10時からの前日受付けに向かう。何故こんなに急ぐかと言うと、今回は1泊2日の日程なので、今日のうちに観光を済ませてしまおうという考えなのだ。 受付けを終えて、川沿いに後楽園に向かって歩いて行くことにした。ちょうど現代アートの国際展覧会というのも行われていてランナーは500円割引になるというのだが、ごいさんはその方面にはあまり関心がない。後楽園のような広いところをのんびり歩く方が自分には向いている。 広い芝生の上でお年を召したご夫婦が食事をしていたが二人で会話している様子はとても楽しそうだ。所々に見られる紅葉も鮮やかだった。さすがに晴れの国、岡山。なんか分かるような気がした。ちょうど菊の展覧会が開かれていて、その艶やかな姿はとても素晴らしかった。 街のあちこちに桃太郎に関
昨日、先週に注文した補聴器が出来てきた。補聴器を耳に当てた母親は、聞こえる、聞こえると言って大はしゃぎ。とても嬉しそうだ。22万円もするから安い買い物ではない。半年ほど前に欲しいことをごいさんには言っていたのだが、その後で日立に住む伯母さんが50万円の補聴器を買ってもあまり使っていないと聞いてそのままにしておいた。母にはそんなに効果はないようだと伝えていた。少し大きな声で話せば会話もできるし、テレビは字幕でたいがい済む。だいたいプロレスとか相撲とかのスポーツ番組がほとんどだからそんなに問題も無かろうと思っていたのだ。 ところが母にしてみればかなり切実な問題だったのだろう。大きな声で話してもらってもやはり聞き取りにくい。テレビの字幕ではなくちゃんと生の声が聞きたい。昔までとはいかなくてももう少し普通に聞こえてほしかったのだと思う。最近になって、また補聴器が欲しいと言いだした。 ここでようやく
早くも三が日が終わってしまうということで、いつものように今年の目標を決めなければと思い記事を書くことにした。そこで過去の記事を読み返したのだが、去年も一昨年もなかなか意欲的な文章を書いていた。そうだよね、目標ぐらいはこのくらいの意欲をもって書かなければ達成なんてできるわけがない。 毎年のように英語のことが書いてあるのは、多分に学習が進んでいない証拠だね。でも今年はちょっと違う。昨年1年間で確かな手ごたえを感じた。実際にニューヨークに行ってみて海外に行くという緊張感や不安感はだいぶ薄らいだ。それから、英語力を身につけることで自分の世界が広がるというのを実感できた。できれば今年中には使える目途をつけたいからやれるだけのことをやってみようと思う。今年の最大の目標だ。 次はマラソンだが、一昨年の記事にはもの凄くやる気が感じられることを書いてあって、そしてその通りにサブ3.5を達成した。そこで今年の
昨日は母の87歳の誕生日だった。もうお馴染みになった丸いケーキと京都みやげの漬物を持って仕事帰りに寄ってみる。そしていつものように蝋燭に火をつけて吹き消してもらう。今年も無事に誕生日を迎えられたことにただ感謝だ。このブログでも毎年書いているからこれといって書くこともないのだけど、とりあえず最近の母を見ていて考えてみたことを記録しておこうと思う。 それは、生きていることそのものが今の母の仕事なのではないかということだ。何もしなくてもいい。生きているだけでみんなに元気を与えている。母がいるから自分も健康でいなきゃいけないと思う。母のような年寄りが一人で住んでいるというだけでも多くの人を勇気づけている。世の中にまだまだ十分に貢献できているのだと思ったのだ。 自分が小学校の1年生か2年生の時に、死ぬことがとても怖くて、死んだらどうなるかなんてことを母にしつこく聞いたことがある。多分、曾祖母が亡くな
水曜日の日の帰り際、一人の若い先生が近づいてきた。情報の授業を教えているT内先生だ。4月から新しい学校に異動するという。そう言われて、T内先生がこの学校に新採用としてやってきて5年になるのかと思った。神奈川県では新採用の先生は最初に赴任した学校は5年間しかいられないというのがルールなのだ。彼とは同じ教科ではないし担当のグループも違っていて職員室も2階と3階とで別れていた。ただ彼がその前年に他の学校で臨任という形で働いていた時に、そこにいたごいさんの教え子と仲が良かったというのが唯一の共通な話題だった。少しでも接点があればちょっかいを出すのがごいさん流の親しみの表現。それでも日常的に会って話をするという機会はほとんどなかったと思う。 4年前にごいさんは退職したのだが、その前の年から若い先生たちには自主映画の作成だったりみんなで箱根まで走ったりと、とにかくこんな年寄りの相手をよくしてもらった。
今年最初の記事にも書いたけど今は英語漬けの毎日を過ごしている。確かに少しずつ進歩しているように思うのだけど実感はあまりない。時間があれば少しばかり走りに行っては気を紛らす。テニス教室に週に一度通うようになってもうすぐ一年になる。ここにきて「今度一緒にやりましょう」なんて声もかかるようになった。 こう書くと、働きもせずいかにも好きなことだけをやって楽しく過ごしている感じだ。まあそれはだいたい正しいのだけど、それでも自分では不満に思う時がある。ずっと以前の英語もマラソンもしていなかった頃は毎週のように横浜の街を歩き回っていた。歩きながらいろんなことを考えるのが好きだったし楽しかった。今のように時間に追われていなくて実にのんびりしたものだった。 その頃に比べれば今は充実していると思うし、今やっていることはこれからの自分をきっと豊かにしてくれるはずだとも思っている。そう思うのだけど、でも本当は映画
ここのところ少しばかり考えていた言葉がある。それは「老後」と「余生」という2つの言葉だ。「老後はどんなふうに過ごしているか」、「余生をどのように楽しもうか」などと当たり前のように使っている。確かに、自分が小さい頃に見てきたお爺ちゃんやお婆ちゃんはそんなイメージだったように思う。だから自分もいずれは年を取りその時になったらどのように過ごすかなんてことを当たり前のように考えてきた。 でもここにきてちょっとした疑問が湧いたのだ。まず「老後」や「余生」っていつ頃をさすのかということ。それと「老後」と「余生」の意味合いだ。老いた後と書いて何を表しているのか。「余生」っていうのはどうだろう。余った人生って何なんだろう。ガンや不治の病で余命を宣告される人がいるが、その人たちの残された時間のことを余生とは言わない。ふだんから気にも留めずに使っている言葉なのに、ここにきてよくよく考えてみるとその意味合いが実
当日の朝は7時少し過ぎに会場に到着。少しして着替えを終えて貴重品を預けに行こうとした時に、ちょっとした奇跡が起きた。なんと向こうから歩いて来るエムゾーさんと再会したのだ。写真も撮ったし、幸先の良いスタートとなった。 明け方には雨が降っていて寒々としていたのが会場に到着する頃には雨は止みさらにスタート時間が近づくにつれ太陽の輝きが増し日差しがぐんと強まってきた。9時に号砲が鳴って、Qちゃんのさわやかな笑顔で送り出される。今回はCブロックでのスタート。 練習をセーブしてきたこともあって幾分足が軽く感じられる。それでも頭の中にはこのところの失敗レースの様子が悪夢のようにちらついている。最初の1キロは5分8秒と久しぶりの速いペースで入る。10キロ辺りまでは平坦なコースで走り易いこともあり、前向きに積極的に仕かけていく。ということで最初の10キロは49分06秒となかなかのタイムだ。 さあここから始ま
月曜日に新横浜でボランティアした後、前の同僚であるK画伯の個展を見に出かけた。同じく同僚のO矢さんとI坂さんとはその場所で落ち合うことになっていた。ボランティアが予定より早く終わったので新横浜の駅前の三省堂で時間を潰したり、東京駅からのんびり歩いたりして約束の5時半少し前に銀座にある「ギャラリー岡部」に着いた。 中の様子を覗くとまだ誰も来ていないようだ。入って名簿に名前を書こうとして展示されている絵を見た時だった。大げさに言えば凍りついたような感じ。そこにあるのはいつもとは全く違ってみんな風景画だった。慌てて案内のはがきを確認する。あー、またやってしまった。今回は会場が武蔵小杉の「小杉画廊」に変わっていた。 ごいさんは以前にも同僚の演奏会の会場を間違えて、慌ててタクシーで駆けつけ4,000円ほどの余分な出費となったという苦い思い出がある。今回も閉館時間は6時だからもうそれには間に合わない。
今年も妹のことを記事にする時期になった。ずっと読んでいただいている方には「えっ、また」と思われるだろうけれど、1年に1度は妹についてのことを書いておきたい。いや二人の小さい頃のことを思い出したいだけなのかな。気が強いくせに泣き虫で、親に叱られるのはいつも自分ばかり。食べるものだっていつも大きい方。「あなたはお兄ちゃんなのだから我慢しなさい」って。小さい頃はそんな妹がとても鬱陶しかった。 今は二人とも60歳を越えていわゆるお爺ちゃんとお婆ちゃんだ。なのに気持ちだけは小さい頃のままの兄妹だ。小さい頃は毎日のように喧嘩をしていた。馬鹿にして罵って言い争いに負けては手を出して、そして親からはさんざんにどやされる。それでも兄妹の関係は壊れることはなかったけど、妹から見たら何とも頼りのない兄貴だったことだろう。 初めて兄らしいことをしてあげたのが大学4年の時だった。妹が結婚するというのでウェディングド
時々、過去に書いた記事を読み返すことがある。去年、一昨年の今頃は何を書いていたのだろうかと。毎年の事だから同じようなことを書いているのだが、微妙な感覚の違いがあって面白く感じる。それと、始めの頃の文体と今との違いのチェックだ。だんだんと慣れてきて横柄なものの言いようになっていないかとか。やっぱり初心の気持ちって大事にしたい。 そんな時にスターの欄に自然と目が行く。そうして最近はお目にかかっていない懐かしいアイコンに再会する。そして何気にそのアイコンをクリックしてみる。画面が切り替わって201〇年〇月〇日付けの記事が現れる。その方とのお付き合いはそこで止まったままだ。実はその後でコメント欄に書き込んでみたりもする。もしかして……なんて期待を寄せながらね。そういう方たちとのおつき合いは楽しかったし、毎日のように書いてくれる記事を読むのも楽しみだったのに、ある日を限りに突然更新されなくなってしま
神奈川県の多くの高校では、今週の火曜日に卒業式が行われたようだ。因みにごいさんの勤務する学校では、明後日の土曜日に行われる。今日はその卒業式に向けての先生たちの思いをごいさんなりに書いてみようと思う。 3年前の4月の入学式の日に、やがて卒業生となる子たちと初めて対面する。入学式を無事に終えクラスに戻って、担任の先生としての挨拶を行う。まだあどけなさが残る新入生は真剣だ。どんな先生なのか、興味津々と言ったところ。それから3年間、クラスの生徒は変われどもその学年を受け持っていくことになる。 やがて卒業式当日。生徒と同じようにあっという間にここまで来てしまったという思いがよぎるが、実際にはいろんなことがあって長い長い3年間である。文化祭や体育祭、それに修学旅行。自転車で転んで怪我をする。病気で入院した時はお見舞いにも行った。泣いたり笑ったり、褒めたり叱ったり、まあよくもこんなにあると思うくらいさ
さて、奈良での最終日。この日は明日香村に行こうと決めていた。高松塚古墳が発掘され極彩色の壁画が見つかったというニュースを聞いた時、この目で見てみたい、そんなふうに思ったのを覚えている。それから40年以上もの間、実現できないでいた。 新大阪駅に荷物を預け、橿原神宮駅へと向かう。ここから散策に便利な周遊バスが出ているとのこと。もっとも丈夫な人にはレンタサイクルがお薦めということだった。天気も暖かだしマラソン疲れもないようなので、結局はレンタサイクルを借りることにした。お店の人にモデルコースを教えてもらって、いざ出発。 初めに向かったのは橿原神宮。神武天皇がおよそ2,600年前に畝傍山の麓に橿原宮を創建したのが始まりで、その跡地に1890(明治23)年に作られたのだという。「日本書紀」に日本建国の地と記されていて、それで上の写真のような「ようこそ、日本のはじまりへ。」……ということなのね。 続い
先週の日曜日にアクアラインマラソンや金沢マラソンが行われて、マラソンブログを書いている方々の記事がかなりの盛り上がりを見せていた。いよいよ本格的にシーズンが始まったという感じだ。そして今週末はごいさんも大阪マラソンに参戦する。いつもなら島田大井川マラソンに参加しているのだが、昨年ここで念願のサブ4を達成したこともあり、今回は大阪マラソンに応募してみた。これが見事に当選。ということで、島田大井川マラソンに参加するS田さんとY村さんとは別行動で単独で大阪に乗り込むことになった。 初めてのコースだから記録は狙いにくいだろう。それに沿道の人たちの大阪弁での応援も聞いてみたい。記録はあくまでつくばマラソンでと考えている。それでもその一環だから、単なる観光ランではもったいない。それに大阪を走ることはもうないような気がするから、ある程度の記録は残しておきたいと思う。コースの状況はよく分からないけれど、そ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『goisan's diary』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く