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2018年6月24日のブックマーク (5件)

  • 「天駆せよ法勝寺」お試し版

    以下は、「天駆せよ法勝寺」のお試し版(第一章約5700字)です。同じ内容のPDF版(お勧め!)もあります。 作品には佛理学(と仏教)用語が多数使用されています。用語集がありますのでご覧ください。 佛に三種有り。 嘗て佛だったもの、 既に佛であるもの、 これから佛に成るものの何れかなり。 『霊賢(れいけん)上人(しょうにん)言行録』より 1 法勝寺(ほっしょうじ)発進 ついに法勝寺が天駆(てんく)する。 その知らせを聞いた善男(ぜんなん)善女(ぜんにょ)は、閻浮提(えんぶだい)――教化(きょうけ)しえぬ衆生(しゅじょう)が呼ぶところの地球――の全土で歓喜の声を上げた。 奈良の北西に位置する京阪奈(けいはんな)は今や佛都(ぶっと)として名高い。その京阪奈からほど近い丘陵に囲まれた宇宙基地・応華山(おうかさん)は、世界人口の三割、三十億の佛徒(ぶっと)の注目を一身に集めていた。この地に建立(こ

    「天駆せよ法勝寺」お試し版
  • へし歌

    概要 DMM.comにて配信中のブラウザゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』に登場する刀剣男士、 へし切長谷部×歌仙兼定のBLカップリング。 2人が直接関わるゲーム内イベント、および史実はないが、 彼らの前の主である黒田家(黒田孝高・黒田長政)と細川家(細川忠興)は非常に仲が悪かったことで知られている。※ 一般的な恋仲設定の作品の他に、この史実を二次創作ネタとして取り入れてケンカップルのような解釈で描いた作品も存在する。 またへし切長谷部が黒田家へ下賜される以前、所有者にして名づけ親である織田信長と細川忠興は主従関係にあった(正確には忠興は信長の息子・信忠に仕えていた)。忠興と、明智光秀の娘・玉(後のガラシャ)との婚姻を取り持ったのも信長である。 忠興は信長に心酔していたという逸話も多く、これを反映させた作品も存在する。 その一方でその信長は忠興の舅・明智光秀に能寺で討たれている事から、こ

    へし歌
  • 蓮如上人ゆかりの伝承頭骨はシャチだった 大阪・八尾の顕証寺(1/3ページ)

    大阪府八尾市の顕証(けんしょう)寺(浄土真宗願寺派)に同寺の開祖・蓮如上人(1415~99年)が成仏させた大蛇の骨と伝わる巨大な頭骨がシャチであることが分かり、23日に東京で開催された生き物文化誌学会で、大阪大総合学術博物館の伊藤謙特任講師らの調査グループが発表した。シャチのほぼ完全な古い頭骨はあまり例がなく、化石であれば国内初の貴重な資料となるため、今後の調査に注目が集まりそうだ。(藤浦淳) ご救済の大蛇骨 この骨は「蓮如上人ご救済の大蛇骨」として、同寺に伝えられてきた。伝承では、石山願寺(現大阪城)の開創(1496年)直後に現在の大阪市中央区の南御堂付近で発見。蓮如の夢に現れた女が大蛇「龍女(りゅうじょ)」に変えられて苦しんでいると訴えたことから、これを救済したあと海に死体があがった、とされている。

    蓮如上人ゆかりの伝承頭骨はシャチだった 大阪・八尾の顕証寺(1/3ページ)
    florentine
    florentine 2018/06/24
    “石山本願寺(現大阪城)の開創(1496年)直後に現在の大阪市中央区の南御堂付近で発見。蓮如の夢に現れた女が大蛇「龍女」に変えられて苦しんでいると訴えたことから、これを救済したあと海に死体があがった”
  • 三遊亭圓生(六代目) 牡丹灯籠*(お露と新三郎/御札はがし) - YouTube

    お露と新三郎/御札はがし(1:03:03~) 牡丹灯籠(ぼたん どうろう)は、中国明代の小説集『剪灯新話』に収録された小説『牡丹燈記』に着想を得て、三遊亭圓朝によって落語の演目として創作された怪談噺である。 『牡丹燈記』は、若い女の幽霊が男と逢瀬を重ねたものの、幽霊であることがばれ、幽霊封じをした男を恨んで殺すという話で、圓朝はこの幽霊話に、仇討や殺人、母子再会など、多くの事件と登場人物を加え、それらが複雑に絡み合う一大ドラマに仕立て上げた。 圓朝没後は、四代目橘家圓喬・五代目三遊亭圓生・六代目三遊亭圓生・五代目古今亭志ん生・初代林家彦六など歴代の大真打が得意とした。 明治25年(1892年)7月には、三代目河竹新七により『怪異談牡丹灯籠』(かいだん ぼたん どうろう)として歌舞伎化され、五代目尾上菊五郎主演で歌舞伎座で上演されて大盛況だった。 以後、演劇や映画にも広く脚色され、特に二葉亭

    三遊亭圓生(六代目) 牡丹灯籠*(お露と新三郎/御札はがし) - YouTube
  • 三遊亭圓朝 怪談牡丹灯籠 怪談牡丹灯籠 鈴木行三校訂・編纂

    一 寛宝(かんぽう)三年の四月十一日、まだ東京を江戸と申しました頃、湯島天神(ゆしまてんじん)の社(やしろ)にて聖徳太子(しょうとくたいし)の御祭礼(ごさいれい)を致しまして、その時大層参詣(さんけい)の人が出て群集雑沓(ぐんじゅざっとう)を極(きわ)めました。こゝに郷三丁目に藤村屋新兵衞(ふじむらやしんべえ)という刀屋(かたなや)がございまして、その店先には良い代物(しろもの)が列(なら)べてある所を、通りかゝりました一人のお侍は、年の頃二十一二とも覚(おぼ)しく、色あくまでも白く、眉毛秀(ひい)で、目元きりゝっとして少し癇癪持(かんしゃくもち)と見え、鬢(びん)の毛をぐうっと吊り上げて結わせ、立派なお羽織に結構なお袴(はかま)を着け、雪駄(せった)を穿(は)いて前に立ち、背後(うしろ)に浅葱(あさぎ)の法被(はっぴ)に梵天帯(ぼんてんおび)を締め、真鍮巻(しんちゅうまき)の木刀を差し