富岡製糸場(群馬県富岡市)をモデルに建設された全国の工場でただ一つ現存するとされる三重県四日市市室山(むろやま)町の亀山製糸室山工場の老朽化が進んでいる。富岡製糸場の世界文化遺産登録で歴史的価値が見直される中で「西の富岡」として保存を望む声が上がっているが、修繕の予定はなく行く末が心配されている。 (河崎裕介)
東日本大震災後、北茨城市の大津港で水揚げされたシラス。市内では津波で漁船が流され、廃業に追い込まれた漁業者が目立つ=2013年5月、北茨城市で 農林水産省は、5年ごとの統計調査「2013年漁業センサス」の結果を発表した。同年11月1日現在の漁業を取り巻く状況をまとめたデータで、県内の漁業をする個人事業主と団体を指す漁業経営体の数は413と、前回調査の08年の479から66(13.8%)減となった。減少傾向は変わっていないが、東日本大震災の津波被害を受けた北茨城市での廃業が目立っている。 (林容史) 漁業経営体(年間三十日以上、漁業に従事)の数は、データが残る一九六三年の千四百十一から減り続けている。四百十三の内訳は、個人事業主が三百九十一で前回より七十一減。株式会社や合名、合資会社などの団体は五増えて二十二になった。
特攻、集団自決、飢餓-。戦地に赴いた元兵士らに聞き取りをしている「戦場体験放映保存の会」(東京都北区)が、体験者の語り言葉をほぼそのまま書き起こし、証言集にまとめた。生の言葉が紡ぎ出す戦争の悲惨さが、読み手の心に突き刺さる。 (小沢慧一) 「豆腐を刺すようなもんやね。すぽーすぽっと」。日中戦争で中国・徐州に出征した男性は、証言集の中で、中国人を銃剣で刺殺した時の感覚を生々しく語る。一方で、行軍中に戦闘帽をなくし、代わりにサトイモの葉っぱをかぶって上官に注意される人間味ある体験談も明かしている。 保存の会は、十年ほど前から全国で集めてきた約二千五百人の体験談のうち、二十四人分を選んで収めた。内容だけでなく話し手の身ぶり手ぶりや表情も詳細に描写し、方言や昔の言葉もそのまま掲載。読者自身が聞き取りをしているような感覚になるよう工夫している。 書き起こしにこだわったのは、「新聞やテレビでは、わかり
五月上旬、買い物帰りの主婦らが通りを行き交う東京都練馬区の住宅街。その一角にあるアパート二階の一室で、一人暮らしの四十代男性が数日前、死亡しているのが見つかった。 室内は異臭がただよい、遺体が見つかった布団は焦げたように黒ずんでいた。「死後、数カ月はたっているでしょうね」。大家から片付けを依頼された業者「遺品整理クリーンサービス」(板橋区)の増田裕次さん(40)がつぶやく。 1DKの部屋は生前のまま、洋服や書類が雑然と散らばっていた。仏壇の位牌(いはい)や通帳といった貴重品をより分け、ごみを次々とビニール袋に放り込む。故人の人柄が偲(しの)ばれる物が出てくることも。切手が貼られていない手紙が見つかった。「丁寧な字。きちょうめんな性格だったのかも」
1910(明治43)年に建てられた横浜で最も古い倉庫建築、旧三井物産横浜支店倉庫(横浜市中区日本大通)の解体計画が浮上し、専門家らから保存を求める声が上がっている。「歴史的建造物として価値が高い。次世代のために横浜の宝として守って」と訴えている。 (原昌志) 同倉庫は、日本で最も早い時期に鉄筋コンクリート(RC)を導入した建物とされ、木材やれんがを組み合わせた混構造。地上三階地下一階で、延べ二千百九十四平方メートル。日本のRC建築の先駆者とされる遠藤於菟(おと)(一八六六~一九四三年)が設計・監督した。翌年に完成した日本初の全面RC建築、旧三井物産横浜ビル(事務所ビル、現・KN日本大通りビル)に隣接する。赤レンガ倉庫よりも古い。 絹貿易で栄えた横浜で、生糸の保管庫としても利用された。二三年の関東大震災に耐え、倉庫内の生糸は震災復興に役立てられたという。市生涯学習文化財課によると、四~五年前
昨年閉館した「ホテル西洋銀座」の解体工事が二十五日、始まった。一九八七年に開業した高級ホテルで「バブルの象徴」と揶揄(やゆ)されることもあったが、小規模ながら外観からサービスまで一流を追求したホテルが消えることに、惜しむ声が出ている。 (荘加卓嗣) ホテルは、二〇〇五年の愛知万博で総合プロデューサーも務めた建築家、故菊竹清訓(きよのり)氏が設計した。壁面が段々になった白亜の外観は当時、建築界で注目を集めた。 ホテルはセゾングループ傘下で、昨年死去した堤清二氏がグループ代表時代に開業した。欧州作品を上映する映画館や劇場も入居。メセナ(文化支援)活動に力を注ぎ「セゾン文化」を生み出した清二氏の影響が見て取れる。 客室は七十七室と少なくて大宴会場もなく、清二氏の弟・義明氏が率いた大規模な「プリンスホテル」とは対照的だった。その一方で調度品もサービスも高級感を重視し、宿泊者の相談に乗る「コンシェ
埼玉県朝霞市の活版印刷所を廃業した渡辺昌郎(まさお)さん(81)が引き取り手を探していた十万個以上の鉛の活字が、印刷機とともに宮城大(宮城県大和(たいわ)町)で教育に活用されることになった。大学理事会が八日、引き取りを正式に決めた。渡辺さんの希望は五月に東京新聞夕刊が紹介すると国内外から約百六十件の申し出があった。渡辺さんは「廃棄すればただの鉛の塊になるところだった。この先は若い人に使い続けてもらえる」と喜んでいる。 (谷岡聖史) タッタッタッ-。三十年以上も使い込まれた印刷機が、小気味よい音を立てて回る。今月一日、朝霞市の「ワタナベ印刷」。印刷機を操作する渡辺さんの姿を、宮城大図書館長の茅原(かやはら)拓朗教授(46)が見つめていた。 鉛の活字を板状に並べてインキを塗り、機械で紙に押しつけて印字する活版印刷。六十五年前から活版ひと筋で生きてきた渡辺さんは「五十年前に『これからは活字の時代
第2次世界大戦中に外務大臣とモスクワ大使館間で交わされた外交秘密電報の冊子。この中に新発見公電が多数含まれている。それぞれの表紙の左側には、赤字で「非常焼却」と書かれている 第二次世界大戦中の一九四四(昭和十九)年五月、東条英機内閣の重光葵(しげみつまもる)外相が、日本と中立条約を結んでいた旧ソ連の仲介による中国との戦争終結を目指していたことが、東京新聞が入手した当時の外交秘密の公電で明らかになった。重光は早期終戦論者の一人とされてきたが、終戦の一年三カ月も前の動きが公的文書により裏付けられたのは初めて。入手した公電二百五通のうち百二十二通は新たに見つかった史料。同時期の公電は焼かれるなどして現存しないとされてきたが、当時モスクワの日本大使館などで勤務し、戦後に駐米大使を務めた故武内龍次氏がまとめて保管していた。 公電は四三年十一月から四五年七月までに外務省とモスクワの日本大使館の間で交わ
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