『絶歌』発売から3年が経過した。いま、あらためて当時の雰囲気を振り返ることが必要なのではないかと思う。ブログで「絶歌」「元少年A」などを検索し、出てきたものを取り上げてみたい。 ※酒鬼薔薇王国を再建しないくそ餓鬼に天誅をくだす活動の一貫です。 続きを読む
生死を分けたのは「炎」に対する意識を持っていたことではないのか。エジプトの気球炎上事故では、乗客20人のうち19人が死亡した。奇跡的に助かった英国人の乗客は、火だるまになった操縦士とともに、地上3〜5メートルの地点で飛び降りたという。その後気球が100メートルまで上昇した段階で飛び降りた乗客は助かることがなかったという。 第一に抑えておきたいのは、咄嗟の判断をするにも日ごろからさまざまなことを考えていなければならないということだ。人間が認知、判断、行動をするのにはどうしてもある程度の時間がかかる。 この事故のなかで、どの段階で生命の危険を感じ、体を動かせたかということを考えると「操縦士が炎にくるまれたとき」であると思う。気球の操作がおかしいというようなことは、素人の観光客に分かるものではない。 「この英国人は『野生の勘』で逃げたのだろう」という意見は曖昧すぎると思う。いったい「野生の勘」っ
フランスの大学入試では「バカロレア」が高校卒業のような存在として機能しているのではないか。読売新聞の記事を読んでいてそんなことを考えた。 バカロレアの「合格」に必要な水準は決して高くない。単純に数字で比較することはできないかも知れないが、フランスの人口は日本より少ない6500万人であるにもかかわらず、日本のセンター試験の受験者数である55万人よりも多い70万人が受験しているのである。そして、国民の62%がバカロレア資格を持っている。 そう考えてバカロレアの「哲学」の試験を見ていくと、同試験を過大評価することもなく、かといって過小評価することもなく、適切に評価できるのではないだろうか。 第一に、バカロレアの哲学の試験は、優秀な人間から普通の人間までを評価することができる幅の広さをもった問題だと思うのである。 たとえば2013年には「労働によって得られるものは何か」という問題が出題されたという
僕の葬式では『信長の野望 覇王伝』で使われた諸大名のテーマ「青い波頭」を流してほしい。 僕はまだ30歳にもならないので何を縁起でもないと言われるかも知れない。だが万が一のことを考えて葬式のときの希望を書いておく。そして以下、この曲を選んだその理由を三点ほど挙げておく。曲にこめた思いを書いておくことで、いっそう味わいが出ると思うからだ。なお、僕がプレイしたことがあるのはプレステ版である。 第一に、僕が「青い波頭」に対して持っているイメージは、この国を空の彼方から見守るというものである。 オンライン版になる前の『信長の野望』では、プレイヤーは信長や家康などのどの大名になるのかを選択し天下取りを目指すわけであるが、ゲームに飽きたときに人間であるプレイヤーがゲームを降りて、コンピューター同士の争いを見守るモードがある。 このコンピューター同士のプレイを見守るモードの印象が僕のなかの「青い波頭」のイ
僕たちが普段みる夢のなかにこそ、精神病への理解を深めるてがかりがあるように思う。 僕は「眠らないこと」が精神に与える影響が大きいようだ。ほんのわずかな期間睡眠が乱れるだけで精神病のような症状を見せる。だが僕は多少なりとも精神病についての知識があるので、本格的な精神病に至る前に休養をとるようにしている。 そんな僕が最近感じているのは、僕たちが見る夢は精神病的であるということだ。そして不眠はその「夢と現実の境界」を破壊し、精神病を引き起こしているのではないかということだ。 まず第一に、夢のなかで僕たちは現実ではない状況を受け入れている。 先日、僕は亡くなった祖父の夢を見た。今では取り壊されてしまった祖父の家のなかに僕はいて、ふらふらとした足取りで部屋に入ってくる祖父を見たり、あるいは別室にあるドクロがあるのを発見したりする。 僕はその夢を見ているとき、祖父が現実には死んでしまっていることを微塵
コンピュータの処理能力の向上は人間の仕事を減らすというのは言うまでもないことだが、コンピュータの能力を過大評価している人間が多いんじゃないか。IBMの人口知能ワトソンがクイズ大会で勝利する映像をいまさらながら見ていて、そんなことを感じた。 僕も人工知能ワトソンを見ながら「凄いな」とは思った。それは自然言語の処理能力である。司会者が「口頭で発した」質問文を解析し、回答「らしきもの」を見つけてくる能力。それは確かにすぐれている。そしてそれを医療に応用すれば症状から病気を探してくるソフトができるだろうし、司法に応用すれば判例検索を行うソフトが開発できるのだろう。 だが、コンピューターが人間に取って代わることなどあるのだろうか。どうにも機械のことなど分からない人が騒いでいる部分もあるように思うのである。 まずおさえておきたいのは、開発者は開発を通じていかに人間の頭脳が優れていることを感じたと話して
ネットに対する無知・無理解 「なりすましに思い知らせるため」──加藤智大が語った事件の動機はひとことで言えばそうなる。この動機に違和感がある方もおられよう。しかし僕はこの動機そのものがまったくの嘘であるとは思わない。ネット上でのトラブルというのは、そのくらい激烈な感情を引き起こさせるものである。 僕の立場は明瞭だ。なりすましに思い知らせるために無差別殺人を起こすというのはありえる。しかしそうであるにしてもあの手記は自己批判が足りない。もっと深く考えるべきだ。 僕は加藤智大に対する怒りもさることながら、あのような書物を売って商売をする出版社に対する怒りがこみあげてくる。加藤智大の主張するところがどうであるという以前に、練られていないと思うからだ。あのような「下書きレベル」のものを出版するのは犯罪的であるとすら言える。 いったん文章をブログで公開し、世間の批判を仰いだうえであらためて思索を深め
西日本新聞のサイトが「知的障害者に遊具規制」という記事を掲載していた。概要は以下の通り。 ・ある遊園地が知的障碍者の遊具利用を制限した。利用を制限する遊具は、1年半かけて遊具のメーカーと検討を重ねたという。 ・遊園地を訪問した軽度の知的障碍者のカップルがその旨を伝えられ、ショックを受ける。 ・その際は駆けつけた母親が障碍の程度を説明して遊具の利用を認められた。 ・遊具の利用は認められたが障碍者側は傷つき「悔しい」と言っている。 ・識者や障碍者団体の関係者は、一律禁止は障碍者の人権侵害だと述べ、付添人や障碍者側の意見も聞くべきだとしている。 本文はこちら→http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/277275 記事は全体的に遊園地側に対して批判的で、障碍者側に同情的である。 しかし、よくよく考えてみると遊園地側のとった対応がそれほどおかしいとは思えないのであ
独特な言葉の理解 僕の母親はわりあい教育熱心で、僕が幼児のころから知育のために簡単なパズルみたいなものをやらされた。それを通じて、母は僕の問題文の理解のしかたが独特である、ということには気付ていた。 幼児期のころ、星や丸などの記号を条件にしたがって並べ替える問題で、僕は星や丸の部分をハサミで切り取り『ならべかえ』はじめた。しかしそのパズルのようなものは冊子になっていて裏にも問題がある。母は《並べ替えた状態を書く》よう言ったが、「ならべかえる」とは、物理的に物を移動させる意味と思っていた僕は理解できず癇癪を起こした。 言葉を話せるようになったくらいのころから、母に「あなたは頭が堅い」「人の気持ちの分からない人になって欲しくない」と言われて育った。そして、7歳のときに父の仕事の関係で渡米し、現地校の教師から自閉症を疑われたが、検査をすり抜ける程度には成長していた。 脱走エピソード 自閉症児の脱
世代ごとのアスペの違い 僕はバブル世代で高学歴でアスペっぽい方を見たことがありますが、極めてタチが悪いと思った記憶があります。また、彼らと同世代の方々はアスペ的なものを毛嫌いしている感があります。 アスペを嫌っている(ように見える)バブル世代が企業を動かすようになっていますから、いまは発達障害者にとって受難の時期と思います。 団塊の世代だと村落共同体的なものがまだ残っていた。村落共同体から外れた方々は、学生運動などでコミュニケーションを取っていた。だから団塊の世代のアスペというのは「田舎の偏屈な爺」であったり「理屈っぽいオッサン」であったりする。 時代はくだり、電化製品の普及による家事労働の減少も相まって、勉強をしているか漫画やアニメなどのファンタジーの世界に浸るかしているだけで大人にまでなれる時代が来た。発達障害者が周囲とコミュニケーションせずに大人までなる可能性が出てきた。 アスペは良
問題行動としつけ 発達障害でgoogleのニュース検索をしていたら、発達障害児に暴行を受けた女子生徒が中学や保護者を訴え、和解が成立、というニュースが目に留まった。学校や保護者は必要な指導を行っていなかったと認定されたそうです。 発達障害による問題行動が「しつけの問題ではない」という言葉は誤解されていると思う。普通のしつけで効き目が薄いのは障害のせいであって、親や教育者がしつけの悪さを責められるものではない。発達障害児には特性に応じたしつけの仕方がある、ということ。断じて「問題行動は個性でありしつけが必要ではない」という意味ではない。 米国の自閉症当事者であるテンプル・グランディン女史も、自閉症児の親は自閉症児にあまり期待せず教育しないようだがこれはよくない、というようなことを書いている。 ADHDだったと言われるトーマス・アルヴァ・エジソンについて語られるとき「(学校教育ではなくて)のび
自閉症スペクトラム障害の研究史 レオ・カナーが自閉症を報告したのは1943年。それから67年が経過した。そう考えてみると生涯を通じて研究された自閉症者というのはまだ1〜2世代くらいしかいないのではないか。 そういや意外に誤解されているんだけれど、「自閉症は母原病」というのは「偏見」の類ではなく、自閉症が発見された当初は精神科医もそう考えていたという「時代遅れの学説」なんですね。 上野千鶴子が「自閉症はマザコンが原因」と言って問題になったという話がある。上野千鶴子の世代なら自閉症は母子関係に起因する精神障害であると習っていてもおかしくない。 時期的に言うと、上野千鶴子は、日本で「自閉症は先天性のもの」ということを普及させるキャンペーンが行われた際に著名人として生贄にさせられたと言える。 ちなみにローナ・ウィングがアスペルガー症候群を紹介したのは1981年。僕が生まれる2年前のことである。そう
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