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中東情勢
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自分が かいた論文をよんでもらう。そして、感想をもらう。ありがたいことだ。発表したものであるから、おねがいしなくても よんでもらえることがある。感想まで もらえることがある。めったにないことだが、いつでも うれしいことだと おもいます。 ひとつ、おもうのです。なにか論文をひとつ かきます。その文章は、どれほどにオリジナルで あたらしい内容であろうとも、これまでの議論の蓄積のうえに なされるものです。これまでの土台があってこその、一文なのだと おもっています。だから、ひとつの論文は、それで完結するものではなくて、そこから「ひろがっていくもの」、「つながっていくもの」だと おもいます。けれども、その論文の内容に ものすごく興味がそそられるというのでなければ、読者は そこで満足をします。ひとつの論文をよんで、そこからさきへは すすみません。それが残念なことのように おもうのです。 もちろん、それ
1999年に『障害学への招待』という論文集が出版された(明石書店)。この本の登場によって、日本における障害学研究が促進された。なるほど、それは ただしい認識であるだろう。 だがである、大路直哉(おおじ・なおや)によって1998年に発表された『見えざる左手-ものいわぬ社会制度への提言』三五館が これほどまでに無視されている現実は、なんとも ふがいないとしか、いいようがない。 おおじは、つぎのように のべている。左利きそのものが、障害でも異常でもないと強調すればするほど、社会の関心として後回しにされやすい(213ページ)どうだろうか。これは、トランスジェンダーが性同一性障害と認識されることによって社会の認知と理解が促進されたことと、まったくの対照をなしている。 障害学研究者が、ときとしてジレンマとして あげているのは、「性同一性障害」のように、障害化(病理化)することで社会で権利が保障されるよ
肉をたべるベジタリアンというフレーズに奇妙な印象をもったひとは いませんか? いないことをねがっているのですが、いたとしたら、あなたは、いま わたしに ぶっこわされます。きのうとは ちがう自分に なっていただきます。 ベジタリアンを菜食主義者ということがあるが、これは単純な翻訳の問題ではない。それぞれ微妙に ちがった定義である。 ベジタリアンとは、なんらかのかたちで肉食に制限をおいているひとのことである。英語で「まったく肉をたべないひと」は、ビーガンという。ベジタリアンには いろいろと類型があって、サカナは たべるベジタリアンとか、トリ肉は たべるベジタリアンなどがいる。 菜食主義といってしまうと、肉食を完全に拒否しているひとというふうに感じられてしまう。だから、菜食主義者はベジタリアンの一部をさす表現であるとはいえるけれども、ベジタリアンの全体をよびならわす表現には なりえない。ベジタリ
自閉症について あれこれ かんがえているんですけど、よく わかりません。自分で みていること、感じていること。そして、本に かいてあるようなこと。 わたしは だれを自閉症というワクで とらえていて、だれは とらえていないのか。そして、それは なぜか。 自閉症という用語は へんなもので、あまりにも誤解をまねきやすい表現だと感じる。自閉症は孤立する性格のもちぬしってことじゃないのにね。コミュニケーションが すきなひとが ほとんどだし、ただそのコミュニケーションが奇妙にみえるというだけ。その奇妙にみえるというのも100人の自閉者と1年でも2年でも1週間でも いっしょにいれば、たんなる「ふつー」に かわってしまう性質のものですよ。 自閉症といっても100人いれば100人 みんな ちがう。あたりまえだけどさ。 わからないことを、わからないままに、わかろうとしながら、それでも わからないという状態を、
人権教育にかんする原稿をよんだ。すばらしい内容。 ここでは、原理的な はなしをかく。とても重要なはなしなので、かんがえてみていただきたい。 なにが教育をなりたたせるのか。たとえば、学生みんなが席にすわって授業をきく。授業に参加する。これをあたりまえのことだと想定すること自体が、おそろしい発想である。 ある高校がある。進学校だ。みんな授業に参加している。一部が いねむりする程度だ。すばらしい。 もうひとつ高校がある。授業中、さわぎっぱなしだ。教師は、しずかにしなさい! すわりなさい!をさけびつづけないと いけない。あるいは、だれにも きこえないことをわかっていながらも、こえをはりあげようとも かきけされてしまうがために、たんたんと授業をつづけているかもしれない。 なぜ、このようなことになるのか。わたしにとって、授業にならない教室というものは、とても自然なことだと おもえる。50分も席に すわ
どんなに自分をごまかして うつくしく みせようとも、がんばってみせようとも、ごまかしきれるものではありませんね。 自分に むすばれたゴムをふりきろうとしてみたけれど、やっぱりゴムの力が つよくて ばっちーん、みたいな。 ふりだしに もどる。 みのほどをしる。ところで。浜田寿美男(はまだ・すみお)『「私」をめぐる冒険-「私」が「私」であることが揺らぐ場所から』洋泉社から引用します。第二章 「自閉症という「私」の鏡」のフレーズです。私は、断念ということばは、とてもポジティブなものだと思っています。目の前に高すぎる不可視のハードルがあるときには、断念がなければ、相手を肯定したり、相手の居場所を認めたりすることができません。…中略…cure[治療、なおす-引用者注]を目指すことがそのまま相手を否定することにつながることがあるし、逆に、断念することが関係の回復に直結することもあるわけです。その意味で
どのようなかたちであれ、ひとと ひととが接するならば、それはコミュニケーションである。「無言による応答」もコミュニケーションのひとつの ありかたであるように、どのような接しかた、応答のしかたをするにせよ、「コミュニケーションできない」なんてことは ありえないのだ。 だれもがコミュニケーションしているし、その よしあしを論じることはできない。 だれかを人質にとって、「ちかよるな! こいつをころすぞ!」と いっているひとにたいして、どのように接したら よいのか。そんなものは、よいも わるいも、正解もない。結果が うまくいけば、よかった、とは いえる。だが、そんなのは いきあたりばったりの、どのようにも評価できる しろものでしかない。 わたしは、あるとき語学の講師になり初回の授業で「コミュニケーションはなんでもあり!」とプリントに かいて くばり、「おはようと いわれて、バカと いいかえすのも、
あいまいなのは、文脈に依存するからではありますが。ともかく。 わたしたちが「わたしたち」というとき、わたしたちは、だれにむけて はなしかけているのでしょうか。その「わたしたち」とは、だれのことをさし、また、だれのことは ささないのでしょうか。 自分の文章をよみかえして、あ、やっちゃったと感じたのですが、かいてしまったものは しかたがない。自閉者のコミュニケーションが自分勝手だと感じたとき、まさに、わたしたちは、そこに鏡に うつった自分のすがたを発見するときなのです。(「自閉者と自分勝手なコミュニケーション」より)わたしたちというのは、人類全体をさすこともあれば、一部をさすこともある。同時代をいきているひと全体の場合もあれば、歴史上のひと すべてをさすこともあるかもしれない。 だが、社会を論じ、差別や格差の解消を論じるようなときだけは、せめて、だれかを排除したかたちで「わたしたち」をかたらな
このあいだね、職場にきてた実習生3人が、めずらしいことに最終日に ぼろなきしてたんですよ。おお、めずらしいなあと。利用者さんをみて、なみだ。職員に あいさつして、なみだ。3人そろって ないてるもんだから、相乗効果。共鳴する感動…。 福祉施設の実習は いやだったけど、いろいろ かんがえが かわったということをおっしゃっておられたようです。 印象的だったのは、自閉症の利用者さんに、わかれの あいさつをしているときで、なきながら こえをかけているんだけど、いわれてるほうは、かおをそむけて、てきとーに うなづいているのでした。いかにも そのひとらしくて、わたしは ほほえましかったのですけれど、実習生さんたちは、すこし さみしそうにしていました。 その利用者さんは、くちうるさく いわれると ほかのひとをつきとばしてしまったり、みみをふさぐ ひとなんですけれど、ひととのコミュニケーションは だいすきな
「こどもあつかいするな」。 こどもあつかいは、わるいことだとされています。たとえば、おとなの身体障害者にたいして、こどもあつかい。20代後半のひとにたいして、50すぎのひとが こどもあつかい。「ちゃん」で よんでみたり。 けれども、こどもと おとなの平等という観点にたってみると、なぜに「こどもあつかい」が よくないことだと いわれるのか、すこし不可解になってきます。なんなんでしょうか。 おとなは こどもではない、ちがう、ことなっている。なのに、とりちがえている。だから、いけない。イヌをネコと よんではいけない。そういうことでは ないように感じるのです。 おとなと こどものあいだに、はっきりと、序列といいますか、上下関係が成立している。それは こどもが つくったものではない。「こどもあつかいするな!」という、おとなの側が つくりだした序列だ。 でだな、「こどもあつかいされている」と どのよう
I don’t wanna walk around with youというブログをみつけた。「あなたと散歩したくない」って意味かな。わかんないや。このブログの紹介文のような文章が おもしろい。「普通の人間に興味はありません。この中にハゲ・デブ・チビ・メガネ・毛モジャ・早漏・副乳・痔持ち・やたら兄弟が多い・倦怠期の夫婦・岐阜出身・放送作家・実家が乾物屋・歌舞伎役者がいたら私のところへきなさい! 以上。」最近の記事に「いわゆる「オタク」、この存在を国が障害者認定せよ」というのがある。おもしろいので よんでほしい。 さらりと よんだだけなので、つっこみどころがあるかどうかは しらない。興味ない。ただ、「彼らオタクが「自分はまとも」だと主張するのはあまり賢くない方法といえるだろう。逆にはっきりと「異常者」であることを宣言すべき」というのは、納得がいくのである。まあ、他人に「すべき」だなんて いわれ
「社会言語学」刊行会から『社会言語学』第7号がでた。第5号、第6号の紹介文も このブログに かいている。あわせて よんでください。 タカマサさんが紹介文「『社会言語学』VII」をかいているので、リンクしておきます。 さて、7号には立岩真也(たていわ・しんや)さんによる『ことば/権力/差別-言語権からみた情報弱者の解放』三元社の書評が のっています。編著者ましこ・ひでのりによる応答と あわせてご覧ください。立岩さんの原稿は、ご自身のサイトに全文「多言語問題覚書――ましこひでのり編『ことば/権力/差別――言語権からみた情報弱者の解放』の書評に代えて」を公開されています。 立岩さんの文章で気になったことを指摘しておきます。まず、こちらをみてください。例えば、ある言語、具体的には英語、イングランド語の支配、専制(ましこ[2006])を批判しようと私も思う。さてどのように批判するのか。その根拠の一つ
おもいついたままに かく。 最近の言語学のテキストには たいてい語用論について一章もうけられている。語用論は要するに、ことばの意味は じっさいの発話が なされる状況や相互作用によって つくりだされるという着想による発話やその意味の研究だ。 語用論をやるには、社会的文脈を無視するわけには いかないので、語用論を言語学の一分野とかかげる以上、社会なき言語学は成立しえない。もちろん、語用論を無視したところで社会を射程にいれない言語学は限定された問いを発することしかできず、その こたえも おのずと限定されたものになり、結局のところ言語学とは社会言語学のことだ(ラボフや田中克彦=たなか・かつひこの主張)。それは、語用論を例にあげなくとも おなじことだ。 「そんなの全体主義じゃないか!」という、ひとことを例にあげよう。そのひとが どのようなものを全体主義と とらえているのかが不明であれば、なんのことや
フランシス・ムア・ラッペ/レイチェル・シュアマン著。副題は「女と男のエンパワーメントのために」。新曜社。 ざっと よんだ。原著は、1988, 1990年となっているので そんなに あたらしいデータではないのだけど、ともかく、しっておくべき現実だ。 まず、「民衆が十分に食べられるかどうかを決定しているのは明らかに、単なる人口以外の多くの要因である」という点は、よくしられた事実だ(18ページ)。それは、スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』朝日選書などにも かいてある。 ラッペとシュアマンは、出生率が たかい地域では、(1) 経済的な生活保障が こどもの収入に依存する、(2) 乳児の死亡率がたかい、(3) 女性の地位が ひくく、女性の意志で避妊することが困難であったり、宗教的な理由で避妊をさけている、(4) 女性が結婚以外の選択肢をもちわせていない、(5) 女性にとって、家庭の外での
北海道におけるイオマンテの儀式は1955年に北海道知事名により出された通達によって「野蛮な儀式」とされ事実上禁止されたが、2007年4月、通達は撤回された。(「イオマンテ - ウィキペディア」)この「イオマンテ解禁」がニュースサイトで紹介されてるわけなんですけど、一部の動物愛護を議論するひとが、これに「反対の意見をおくろう」というはなしをしている。 野蛮だとか日本は先進国なんだからとか、なかなか すごいことをいっている。北海道知事や北海道ウタリ協会などに意見をおくるんですと。はあ。 いやね、あたしだって動物愛護に共感しないところがないわけではないですよ。けっこう厳格なベジタリアン生活も経験しましたし、そのへんのムシも、できるかぎりは ころさないようにはしているつもりです。イオマンテもね、クマをころさずに儀式をとりおこなうことも可能でしょうよ、それは。禁止されてきたもんだから、これまでは そ
「ウェブに「他者」は現われるのか?」(kanjinaiさん、G★RDIASより) 私が道を歩いていたときに、私の前で倒れていたホームレスの人は、そのとき私にとって都合の悪い「他者」であった(これは私の事実体験であるということは前にも書いた)。私はその「他者」からの問いかけから逃げた(と私は思った)。私はこの生身の体でその人を助け起こしたり、救急車を呼ぶことはできた。が、しなかった。そのことが私をいままで追いかけてくるという意味でも、それは「他者」であったと思う。ここでいう「他者」と、ウェブの掲示板やブログでの粘着的なコメント屋さんは ちがっていて、粘着コメントさんを、kanjinaiさんは「他者」とは みなさないんだ、「そこにあるのは、粘着的な自己確認の応酬でしかない。」というはなし。 さらに勝手に要約すると、ウェブで議論するのは、なかなか むずかしいことで、そんなに期待していない。また、
ゴルディアス(G★RDIAS)という共同運営のブログがある。おもしろい。 ここで、id:x0000000000さんが「「本当は、できるでしょう?」の原初的風景」という記事をかいている。疑問を感じた。いろいろと議論になっているようだが、よんでいない。もとの記事に感じたことだけ列挙する。まとはずれの批判かもしれないが、とりあえず。 x0000000000さんは、たとえばなしをしている。 【目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。】 募金「できない」のではなく、「しない」のだという。そのとおりでしょう、それは。 つづけて、x0000000000さんは【それは、「おやつを買ったからあの人たちが死んだ」ということを、それがもし事実だとすれば受け入れなければならな
とある掲示板で議論したことをちょっと修正して転載しますとですね。 「わたしたち」は教育やメディアによって動物をころすのは「かわいそう」といった意識ができあがってしまっています。ですが、おさないころからトサツが身近であれば、そのようには感じないでしょう。世界に目をやれば、現実はそうです。ですが都市化がすすんだ日本では どうしてもトサツは「とおいところ」にある(屠場[とじょう]の立地も!)。そして「食肉産業従事者=被差別出身、だから両者を差別する」という図式が固定されたままになる。要するに、屠場を公開することは「トサツをみせるだけ」では おわらない。差別をする側にとっては、差別の対象がチンレツされている状態でもある。 「わたしは差別者ではない」ということを根拠に、全面公開してほしいというのは、ちょっと無責任だということです。 屠場をタブーにしてしまえば、差別が強化されてしまうのも たしかです。
このまえ健康診断をうけた。色覚検査をするもんだから、ちょっと びっくり。検査しないで いいです、と いえばよかったかも。 高柳泰世(たかやなぎ・やすよ)『つくられた障害「色盲」』朝日文庫と村上元彦 (むらかみ・もとひこ)『どうしてものが見えるのか』岩波新書をよんでほしい。 ちなみに、この2冊とも、みあたらず…。どこにしまったんだか。 で、「色覚異常 - ウィキペディア」をみたんだが、なるほどと おもったことがある。 「呼び名について」をみると、「「色盲」こそが相応しい用語だとする意見もある」として、「「色盲」という言葉はある種の色が見えない(盲)という客観的な事実のみを表している。」とある。あー、いえてると納得しました。 色盲の いいかえ表現って しっくりこなかったんですよね。色弱はまだしも、色覚異常、色覚障害。色覚障害は、まあ いいとしても。ともかく、たとえば わたしは「視覚障害者」より
最近、どうしようもない議論を展開するひとに でくわした。ミクシィというコミュニティサイトでのことだが、失礼なのと非論理的なのと自信たっぷりが あわさったかんじ。勉強家なのは わかるんだけどねー。もーちょっと、いうことに説得力をもたせましょうねー。ひとつのことをのべるのに関係ないことをもちだすのは やめましょうねーという。 こういうひとに対する反応として、「謝罪しなさい」といった批判が でてくることがある。だーけどね。わたしが おもうに、態度の問題にしてしまっては いけないのよね。戦略的には。 失礼じゃないかといった批判は、しごく まっとうなのだけど、そういうひとには「情緒的で感情的な反応」と みなされてしまうのです。挑発的で独善的なひとは、そういった反応には なれっこなわけで、いたくも かゆくもない。「あー。なんか いってるな」というので おわる。 態度や口調はいっさい無視して、論理展開が
『ホテル・ルワンダ』のDVDをかった。映画館では結局みれなかったので、やっとこさ みれました。すばらしい。で、ひとつだけ気になることを。映画の制作者には関係のないことで、日本の関係者の問題ということで。 字幕しかり、「豪華ブックレット」での説明しかり。フツ族、ツチ族……。これ、なんでなん? なんでさ、フツとツチのひとらの会話で「族」がつくんよ。おたがいをよびあらわすときに。なにをかんがえてますの? ブックレットをみると、おことわり……「〜族」という呼称は、差別を連想させるものとして、現在公式の場では使用されておりませんが、本作では話をわかりやすくするためにあえて使用しております。ご理解いただきますようお願い申し上げます。(4ページ)「族」は、差別的な表現だから さける必要のある呼称だという認識のようにみえる。「差別を連想させる」表現だという根拠は、どこにおいているのでしょう? 差別語リスト
たばこには中毒性がある。いや、中毒性はないという主張もあるのかもしれない。だが、重要なのは、たんにたばこに中毒性があるということだけではなく、わたしたちが「たばこには中毒性がある」という知識をもっているということだ。われわれには知識によって左右されている面があるということである。 興味ぶかいはなしがある。ローレン・スレイター『心は実験できるか』第7章「ネズミの楽園[アレグサンダーの依存症実験]」だ。結論をさきどりすると、「アレグサンダーは薬物依存の性質の研究に専念し、依存症とは、薬理の中にあるのではなく、患者をサポートしない社会の複雑な関係性の中にあるとの結論を得た」(246ページ)。 アレグサンダーの実験がおもしろいのは、劣悪な実験状況におかれたラットが依存症になるからといって、それは薬物の作用によるものだとみなすことはできないのではないかという発想にたち、ラットパーク(ねずみ公園)をつ
おもわず ひざをたたいた。佐倉智美(さくら・ともみ)『性同一性障害の社会学』現代書館のことである。 もくじをみて、これは いいという印象をうけた。もくじに「トランスジェンダーと障害学~「障害者用トイレ」からノーマライゼーションを考える」をみつけて、これは?と、むねをおどらせました。 きました。きました。これこれ。つまり「性同一性”障害”」が「障害」ではないとしたら、なんのことはない、一般的な障害者の障害も、じつは「障害」ではなかったのである。「セクシャルマイノリティ」という用語になぞらえれば、身体障害者は身体的マイノリティ、知的障害者なら知的マイノリティだったのだ(202-203ページ)そうなのですよ。「性同一性障害」というくくりに違和感をおぼえ、「障害」というのは ちがうのではないか?という疑問をもつのは ただしい。けれども、たしかに病理的存在はいるのだという前提をゆるがすことなしに、「
「厨房」というのは、2ちゃんねる用語です。「中坊」の誤変換ね。相手をするのが あほらしくなるような人だとか、初心者みたいな意味あいも あると おもいます。ここでは、「粘着」に ちかい意味に限定しておきます。 仲正昌樹(なかまさ・まさき)さんなんかは、「パブロフのワン君」と表現しています(『なぜ「話」は通じないのか』)。パブロフのワン君は、会話のひとつのフレーズに反応して、相手の深層心理をうがって よみとり、「はげしく反応」する人のことをさしているようです。まぁ、どう反応してるかよりも、「かちほこったような態度で、相手をばかにする」という特徴があると いえそうです。 どこにでも自信に みちみちた人というのは いるもので、まさに「ご高見」をたまわることが あります。「ゴタク」と いっても いいですけどね。とくに、大学のセンセなんかが そういうご託宣をさずかるように おもいます。たとえば、稲葉振
自分たちが足をふみにじってきた相手を、なんの根拠をもってか「加害者認定」することがある。 権力とは、足をふみにじれる位置にいるということだけではない。「抵抗」を暴力だと みなし、相手を悪人あつかいできる位置にいるということでもある。まさに、おもうがままなのだ。 「危険な精神障害者」をどうするのか?という問題設定。そんな議論をできるという位置にいることこそ、権力者であることの あかしなのだ。そんな議論では、みずからの加害の歴史は ほうむりさられる。隔離するということ。それを、あちらこちらで乱用してきたのは、わたしや あなただ。ハンセン病を根拠に、精神病を根拠にして。衛生的で安心な社会をきづいていくために。こんにち、監視カメラを必要としているのも、わたしや あなたなのだ。すべては、安心できる社会のために。そう、「社会のために」だ。いや、社会という ことばは、なんだか ぼやけた表現だ。「国家のた
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