サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
円安とは
blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』へー。こういう映画だったのか。べつに感動はない。衝撃もない。淡々とみた。←ふつーは ないたり、ひいたり、へこんだりするらしい。 主人公は こどもかと おもってた。ビョークって だれですか。名前しか しらないお。 「チェコスロバキア」からのアメリカ移民のセルマの かなしい おはなし。1960年代が舞台ということらしい。 こんなところで星条旗をうつしだすのね(笑)とか、監督はミュージカルすきじゃないんだろうなあなどと おもいながら みてた。ドキュメンタリー風の撮影のしかたは きらいじゃない。手ぶれの感じね。ビョークというひとの歌には あんまり感じるものはなかった。最後のは でも すてきでしたね。 主人公は かたくなで頭も わるく、仕事も あそび半分。ミュージカルと妄想がすき。目がほとんど みえていなくて、やがて失明する。遺伝性のものだから息子だけは手術して なおし
どうして家庭というものは、こうも おもたいのだろう。 まず、結婚式なるものが いけない。あんなに盛大にやるもんじゃないよ。おひろめだか、おしらせだか しらないが、だれと だれが いっしょに すもーが、結婚しよーが かってに しなさいよ。結婚がどうして人生の一大イベントになるんですか。たいがい わかってるんだろうにさ。5年後10年後は どうなってるやら わからないってこと、いまの関係のままでは ありえないんだってことを。もちろんね、そりゃ運よく むつまじい関係をつづけてる夫婦ってのは いるんでしょうよ。そりゃ いますでしょ。けどね、運にかかってんだよ。バクチみたいなもんだ。そのバクチで どっちが損をするならですよ、えてして女性が なきをみるならですよ、そんなバクチをするようにしむける世の中の しくみってもんが おかしいんですよ。 籍をいれると いいますね。戸籍制度。なんですか、あれは。国民統
めずらしく小説をよんだ。「21世紀版『アルジャーノンに花束を』」といわれている作品。 主人公は自閉症で35才の男性。この小説は、よんでいて なんとも気もちが いいのだが、それはすべて主人公ルウの魅力にある。よみながら、あちこちに線をひいていた。ルウの世界観に魅了され、ひきこまれていく。しかし、最後の最後に、読者は とまどう。どう うけとめていいのか、さっぱり見当がつかないのだ。 これは、なんというハッピーエンドなのだろう。小説であれ映画であれ、こんな表現の仕方があるものなのか。「馬鹿なことだよ」とチャイが言う。「ぼくたちにふつうになれと言っておきながら、いまのままの自分を愛しなさいと言うなんてね。ひとが変わりたいと思うのは、いまの自分のどこかが嫌だからだ。―後略―」この発言がルウに決意させる きっかけをつくったわけだが、伏線は第18章の最後のところにあったわけだ。 なにかを選択して、自分で
『〈複数文化〉のために』をかるく よんで、多文化主義って なんだろうということをふと かんがえた。おまけに多文化主義の定義について人と はなしをしたので、とりあえずの かんがえをかいておく。 文化とみなされるだけでも、じゅうぶん社会的地位はあるのだろう。もちろん、それらが不当に しいたげられているのが社会の現実であるが、多文化主義という、ある種の理想をかかげる以上は、一般的には文化とさえ みなされないもの(生活といってもよし)をどのように つつみこむのかということになるのではないか。そうでなければ、すでに常識化したものが社会的権威をたもちつづけてしまって、「文化という抑圧」が生じてしまう。 一般に文化とよばれるものには、ある種の わかりやすさがある。しかし、ありふれた生活に ちかづけば ちかづくほど、「文化というほどのものではない」という印象が つよまってくる。もちろん、それを生活文化と
たまたま『アエラ』の表紙をみたら「雅子妃「離婚説」の策謀-別れさせたがっているのは誰か」とある。へえ。そんなのあったんだ。さして興味はないので、内容は みなかった。検索してみたら、『フライデー』と『週刊新潮』にも「離婚説」の記事があるようだ。 わたしは不妊カップルの こどもだったりする。あきらめてたところに、ひとり うまれ、あとで わたしも うまれたそうだ。だからというのは おこがましいが、「こどもは まだか」という胸くそわるい圧力の いまいましさが、なんとなく わかる。あれこれ きいてきたからねえ。 くそかったるい天皇制という意味不明な「歴史」なんぞをせおわされた夫婦の重圧は はたして いかばかりか。その重圧というのは、「国民」が あたえてるわけなのだが。 かいならされてきたから、さほど文句もいえず がまんをすることになる。くだらない ひとらに かいならされてきたから、「女系天皇に反対」
「アプリオリに「自然」は存在するか」。 自然という名づけが言語によるものである以上、自然は人間(言語)によって構築されるものである。ガーゲンが指摘しているように、「何かは、単にそこにあ」るのだ(『あなたへの社会構成主義』328ページ)。それがなんであるかを言語化するプロセスにおいて、「それ」は言説の世界へとくみこまれていくのである。 人間界と自然界はアプリオリに存在するものではない。人間なくして自然はないのである。自然がまず事前に存在して、それからそこに人間の介入がくわえられるのではない。人間の みなし、フィルター、言語、介入、人為…表現はなんでもよい、それら人間の具体的な行為によってこそ、そのたびに事後的に「それ以前」として自然が構築されるのである。 つまり、はたらきかけ(人為)が事後的にそれ以前(自然)を構築するのであり、アプリオリに自然は存在しえない。自然はたえず構築されつつあるもの
坂口安吾(さかぐち・あんご)は、「親があっても、子は育つ」といった。どういうことか。 太宰治(だざい・おさむ)の自殺を批判した「不良少年とキリスト」から引用しよう。親がなくとも、子が育つ。ウソです。 親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てて、親らしくなりやがったできそこないが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。なんという ぼろくそな いいようだろうか。わたしは、この一節を引用したことの罪により、いろんなひとからイジメられそうである。 安吾は、死ぬまぎわに こどもが できて、たいそう よろこび、親ばかっぷりを発揮していたようだ。 「戦争論」というエッセイでは、安吾は家族制度について、つぎのように批判している。両親とその子供によってつくられて
「わるいのは人間だ。人間が いなければ環境破壊なんて ないのだから」。 わたしの学部のときのセンセが授業で いうてたことですが、人類のなかには自然と うまく共存してる人たちも いる。それなのに「人間がわるい」というのは おかしいと。……いきなり余談ですが、「自然と共存」という表現自体が近代的で、環境破壊の思想にたつ表現・発想のような気もする。はたして「自然という他者(というか客体)」が いるのだろうかと。たとえば「風景」のように、われわれは その一部にすぎないんじゃないかと(って、文章かたすぎ)。 共犯化という暴力のしくみは、身勝手な「われわれ」意識によるのだと おもう。「われわれの拡張主義」と いいますか(なんで こんな表現つかってんだろ)。あるいは、「大小ひっくるめて無理やり でっちあげてみました的われわれ」(こういう ふざけたのも どうなんだ…)。 無批判に「わたしたち」「われわれ」
正月に、何度か「元旦」と「元日」のちがいについての解説をみききした。あほらし。 「元旦の旦の字というのは山や水平線に太陽がのぼったさまをあらわしています。ですから、元旦というのは元日の朝ということになります。なので、元旦の朝などと いわないようにしましょう。」はいはい。 さっそくパロディ。 「嫉妬という字をご覧ください。「しつ」も「と」も女へんですね。これは、つまり嫉妬というのは女がするものだということです。なので「男の嫉妬」というのは言語矛盾になります。嫉妬は女がするもの、もとい、女は嫉妬するものなのです。」 努力の「ど」は「女の又に力」と かくとかいう解釈も やめてほしい。 『漢字の過去と未来』岩波新書という名著のある藤堂明保(とうどう・あきやす)さんに『女へんの文字』という本がある(1967年、山王書房)。くだらない部分を引用しよう。[女・若・弱という字のオトと意味の共通性を指摘して
主体的って、どういうことでしょう。自主性の尊重とか いいますけれど、積極的とか、自主的、主体的。いつも肯定的に とらえられているけど、その逆の状態は、よくないこと、あまり肯定できないことなのでしょうか。 ここにかくことは、わたし自身が あまりに自主性を評価してしまっている点を反省し、主体的とは どういうことかをとらえなおす作業です。そのため、ひとりづもうを披露することになります。ですが、こうして それを公開する以上は、みなさんにも うけとめていただきたいという ねがいが こめられています。そういうことで、よろしく おねがいします。 このブログで「アイデンティティなんか」という文章をかいたことが あります。「アイデンティティなんか どうでもいい」という内容です。アイデンティティというのは、自分がどのような環境、集団のなかに おかれるかによって、外から おのずと いやがおうにも規定されてしまう
1. だれの発言であろうと、ただしいことは ただしいんだよ、こんにゃろー。 2. あんたが それ いうんかい。あきれるにも ほどがある。 1のほうはさ、科学理論なんかを想定すると わかりやすいでしょ。 2のわかりやすい例は、イシハラシンタローのような くそったれが、移民をとりいれていくべきだなんて発言してたのをおもいだしてください。わたしも よくおぼえてないけど、そんなこと いってたでしょ。 立場性というのか、たち位置というのか、ポジショナリティというのか、まあ、主張(言説)の でどころと文脈を把握すること。こりゃね。あたりまえすぎるほどに重要で、客観的な立場なんてのは うたがってかかるべきですよ。科学でさえもね。けーれど、それだけに満足して そのさきにいかないのも どうかなと おもう。たまには、「うっせー、だれの発言だろうと、ただしいことは ただしいんだよ、こんにゃろー」と いうてもいい
ある夫婦の会話。よく おぼえてないが、記憶をたよりに復元。「不登校の当事者の親なんです」 「親も当事者でしょう」まぁ、こんな話。当事者って だれだ? せまく定義するのか、ひろく定義するのか。「被害者」をさすのか、「おまえこそ当事者だ!」というのか。当事者が、自分をまもるための表現であるなら、自分をおびやかす可能性のある人は、みんな当事者ではない。あるいは、問題の原因や要因をさすのなら、当事者は「たったひとり」では ありえない。 『不登校は終わらない』という本をめぐる議論が一部で もりあがっている。あれやこれや議論の参考になるので、Freezing Pointというブログの2005-05-26 レポート 『不登校は終わらない』(3)のリンクをあれこれ ご覧あれ。 豊田正弘(とよだ・まさひろ)さんの「当事者幻想論」も必読。わたしなんかは、究極Q太郎(きゅうきょく・きゅうたろう)さんの「なぜか、
今年でた本では、やっぱり『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』が すこぶる いい(貴戸理恵=きど・りえ/常野雄次郎=つねの・ゆうじろう、理論社)。 貴戸さんは去年『不登校は終わらない』って本もだしてたけど、あれは修士論文をもとにしてた。今回のは、だれにでも わかりやすい文章で、「自分」を全面にだした感じかな。もくじだけでも感動できる(感動するな!笑)。(1)理由なんて、どうでもいい! (2)矛盾してても、ぜんぜんいい! (3)選んだなんて、言わなくていい! (4)ハッピーエンドは、もういい! (5)わからなくて、いい!いいでしょ、これ。他人が、否定されがちな だれかを肯定するということ。その むずかしさ。肯定された本人の もどかしさ。他人に自分のことをことばにされ、ことばにさせされる。いつの間にやら ひとりあるきする「わたし」。社会的弱者、少数派のことをかんがえるなら、この本は よんでおい
韓国で かった本で おもしろい本がある。『犬肉をくおうが くわまいが?-相対主義のまちがい』イム・ジョンシク、2002、ロデムナム。 クジラをたべるのを「外国人」に批判されると、たちまち愛国精神を発揮する ひと、けっこう いますよね。韓国人でも おんなじことがあるわけです。ワールドカップで韓国が注目されて、犬食も注目・非難のマトになったようで。とあるフランス人に「犬をたべるなんて!!」と批判されて、韓国では「文化相対主義を理解しない、一方的な非難である」という反論が でてたようです。まぁ、ありがちですよね。犬食問題で注目すべき点は、犬の処理の仕方が かなり残虐であること。わたしの友だちも「ひどい ころされかたをしているのをしっているから犬は たべない」と いってました。韓国人なら だれでも たべるわけじゃないですからね。 はてさて、「かなり残虐」と かきましたけども、これは あくまで「主観
mojimojiさんのバカ論議によせて、ちょっと おもったことを かいておきます(バカへの信を問う - モジモジ君の日記。みたいな。)。 権力者は、「バカであること」から にげることができる。なぜなら、権力者であるから(笑)。いや、じょうだんでなしに、そういうもんですよ。 まえに「才能って なんだ」って文章をかきましたけどね、けっきょくさ、才能にせよ、能力にせよ、権力をにぎっていることで、確保できるものです。 時間やお金に余裕があればこそ、いろんなことを いうことができる。ただ「いう」のでなしに、「論じる」ことができる。 『理解のおくれの本質』という著書もある村瀬学(むらせ・まなぶ)は、2006年に『自閉症-これまでの見解に異議あり』ちくま新書で、つぎのように主張している。 文明の中では、私たちは例外なく「おくれる存在」なのである。障害があろうがなかろうが、そんなことには関係なく、私たちは
かたりかたと、ラクになりかた (タカマサ) 2005-03-26 16:40:31 ■ただしいことを、ただ、どんどんかたるって、たしかに、つたわりづらい。でも、かたらないと、どうにもならないこともある。■いずれにせよ、わかりやすくかたるしかないし、きいてもらいやすい かたちをとらないと、やるだけムダになることは、たしか。 ■みんながラクになる、「コロンブスのタマゴ」をうちだす。たしかに、みんなにとって、しあわせがやってきそう。でも、なかなか それがみつからない(わらい)。 ■いつも、なやむとこですね。 ■ゆったりと いきてみたいのですが、これもなかなか しづらい。■こころのもちよう、なんでしょうが(わらい)。 シーソーゲーム (ひつじ) 2005-03-27 20:58:07 6年前の文章というのは、あとでメールで おしらせしますけど、『解放』に のってたものです。90年以降の既刊号のもく
おもしろい記事を紹介します。ニセ科学批判は いいけど、その やりかたをかんがえようよという内容だと おもう。 十字軍はバカに勝てるか - モジモジ君の日記。みたいな。 この記事に、わたしははてなブックマークで「観客席に いこうとしてませんか。/そんなことはない。んだろうけど。/"バカと向き合いながら暮らす覚悟を"というのは、やさしいようにみえて、神様やろうだよ。十字軍の上から、おまえもバカ、あいつらもバカって」とコメントしたのですが、どうにも いごこちが わるいです。 わたしがmojimojiさんにたいして感じたのは、ニセ科学批判を自分の課題として、ひきうけたら いいんじゃないかなあということです。mojimojiさんも、自分なりにニセ科学批判をしているわけでしょうし。自分と きりはなす必要はない。 で、自分は どういうふうにやるのか、その やりかたを提示すればいい。 ともかく、mojim
高校生のとき、ある教員が矢ガモ(矢がささったカモが報道されて、「かわいそう」だと注目をあびていた)をさして、「あんなの かわいそうでも なんでもない。冷蔵庫みてみろ。死体置き場じゃないか」って いってました。だよねーと おもいました。 かんがえてみてください。 目の前に、いきたニワトリが います。さあ、ころして、たべようじゃありませんか。 そのときに、「命に感謝して」とか「ごめんなさい」とか、そういうことを いうのは やめましょうよ。 毎日さ、わらって肉をたべてるんだから、わらって ころしましょうよ。ほんと。たのしいから。これは、あてつけで いってんじゃないの。 だって、肉たべるの すきでしょう? わたしは、うほ!肉が くえる!って興奮しながら ころしますよ。わらいながらね。 いざ ころすときになって、気まずい気分になるなら、あなたは肉なんて、たいして すきじゃないんですよ。 いや、そんな
「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」という記事で、一見さんに「「人間は誰もが選択的に食事をしている。ベジタリアンもその一に過ぎない。」という主張は正しいと思いますが」というコメントをもらいました。 タカマサさんは、トラックバックの記事で(「「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは正論だとはおもうが…」)で、「「ベジタリアニズムは人間集団に普遍的で、むしろ これから完全に自由な存在はほとんどかんがえられない」というべきだとおもうんだね。」とコメントされています。 あと、コメント欄では、■ただ、「ベジタリアンである程度が、それぞれ ちがう」という論理は、食文化の連続性をのべただけで、性差などとならんで、思想的に一見ラディカリズムにみえても、現実の政治性には全然影響力をもちえないかもしれないような予感がする。■はっきり境界線があるって信じている層にとっては衝撃的でも、
2002年の ふゆだったでしょうか。 わたしは「ニワトリをしめる あつまりが あるんだけど、こないか?」と さそわれ、えーーー いきます!!!!と よろこんで参加したのでした。 わたしが はじめて脱肉食(ビーガン)をやっていたのが高校1年のときからで、高校3年のころからビーガンから「サカナをたべるベジタリアン」になりました。 大学に はいってからも、しばらくはサカナをたべるベジタリアンだったのですが、チューカ料理店でアルバイトをはじめてからは、肉をたべることに制限をおかない生活になりました。 あのとき、わたしが おおきく誤解していたのは、ベジタリアニズムを二者択一で とらえていたということです。べつに、毎日 肉をたべてもベジタリアニズムに矛盾しないのに。「肉食に制限をおくのは、もう やめた」。そんなふうに かんがえてしまったのです。いま ふりかえると、残念なことをしました。 なぜなら、わた
きのうも肉をたべたように記憶しています。けれども、わたしはベジタリアンです。 読者のみなさんも、きのうも きょうも肉をたべたかもしれませんが、ベジタリアンです。 まえに、「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」という文章をかきました。 これにたいし、タカマサのきまぐれ時評2さんからトラックバックをもらいました。いまさらながら、補足をかねて、おへんじをかきます。 「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは正論だとはおもうが…の後半部分をとりあげます。タカマサさんは、わたしの記事に、つぎのようにコメントしています。■たとえば、「ひとは すべて、倫理的、宗教的、健康的、体質的、味覚的な理由から たべるものをえらんでいる。すべての食材をたべるひとは どこにも いない」「人間すべての本質でもある」という記述は、人類学的には ただしい。■しかし、だったら、「ヒト=ベジタリアン」というこ
いまジェンダー論で ひとつの争点となっているのは、ひとことで いえば、「性別主義という問題について、あなたは どのように かんがえるのか」ってことだと おもう。一般的には「性別二元論」と よばれている。だが、三元論なら いいのか。六元論なら いいのか。そういう問題ではないと おもう。ずばり、性別主義が問題なのである。 性差別に反対するのは、まあ、そりゃ そうだよね。性別のちがいによって差別したり されたりしたら いけないよね。これは、はなしとしては納得のいくことのように おもう。じっさいのところは、「そうは いってもねー」と、差別が合理化=正当化されているのが現状なのだけど。 でね、性別主義ってのは、けっこう意識さえ されていないわけ。トランスジェンダーとか、性同一性障害ってのが話題になっても、なお。 オトコとかオンナとかってのが実体として つよくイメージされていて、それが うたがわれるこ
世界の片隅でニュースを読む : 教科書の出典がウィキペディアでいいのか この記事に たいして、アナーキストのやねごんさんが「うーん……。むしろ教科書のほうにこそ「この項目は書きかけです」の注記が必要ではないかなあ。「教科書なんてあんまりあてにしないでね」と。」というコメントをつけています。 ずばりですね。これほど明確に教科書のありようを指摘した文章が、これまで あったでしょうか。 教科書批判といえば、ましこ・ひでのり2003『増補新版 イデオロギーとしての「日本」—「国語」「日本史」の知識社会学』三元社が おもいうかびます。ごつい本です。けれども、わたしの論文をたかく評価している ありがたい本です。だから よんでください。 共産主義者の常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)さんによる百万眼的な視点 - (元)登校拒否系も これからの社会をいきていくうえで、むきあっておく必要のある たいせつな文章
「おれってさー、けっこう人とか殺すのすきなんだよねー。殺したことないけど(笑)」とか。 「人を殺すのって、おもしろいんじゃないかな」とか。 想像ではあっても、そういう「血まみれ」を実感として ともなわない死刑論議は、やめてほしいですね。 「え、わたし? ころすの? 死刑囚を? いやだよー」とか。 「ん? いんじゃない。え、このボタンおせば いいの? はいはい。ちょん」とか。 「………」とか。 そういう具体的な血のにおいのする話をぬきにして、死刑に賛成だとか、なにをいってるんでしょうか。 「はいはい。ちょん」のひとは、賛成してれば いいけどもさ。とりあえずは。ま、そのうち死刑は廃止に もちこみますので、賛成してもムダだけどさ。 え、なにを根拠にって うるせーよ。 血まみれ覚悟で、かえり血をあびるのを前提にしないでおいて、なーにが死刑ですか。 はあ。ひとが ひとをさばくということに、もっと絶望
いいですか。「ふみこむってことは、まじわるってことは、意図せぬ暴力をともなうものなの」(「悪魔の代理人」)。 支援すること、ケアすること、そこにはパターナリズムがあるだ、権力関係になっているだなんだのって、なにが いいたいのかしら。 あたりまえじゃないのよ、そんなこと。 そんなの、ふみこむ一歩手前で、たちすくんでいたら、みえてくるはなしよ。 でなに? パターナリズムは いけないって いうわけ? いいよ、いけないってことにしましょう。ええ。パターナリズムは いけません。 で、どうするの? パターナリズムってのは、父親的に、おしえさとすようなことをいうよね。父親的に、本人の意欲的な行動にたいして、あぶないからだとか、こっちのほうが たのしいよって邪魔をすることをいうよね。 で? いらんことをするなと。はい。いいよ。 で? いらんことをするなで、すべては解消されるの? なやみは そこで なくなる
ことなかれ主義って いやだねえ。 なにも事件が おきなきゃ それで おっけーってのはですよ。ちょっと、そこの おまえ、だまってろってことになるじゃないですか。 がまんしなさいってことになるじゃないですか。文句をいうなとか、そういう はなしになるじゃないですか。 おさえつけてるよなあ。おさえつけられてるよなああああ。 韓国の自由主義者の左翼評論家のピョン・ヂョンスさんが『満場一致は無効だ』って本をだしてるんですよ。これが いい本でね。 ピョンさんが いうに、「意見の一致が のぞましいものであるとされるかぎり、最小限の「コンセンサス」に到達することさえできないだろう」(7-8ページ)。うひゃ。逆説的だよね。満場一致は不可能なだけにとどまらない。たとえ それが可能であるとしても、それこそが…中略…もっとも危険なことである。それならば、のこる問題は、「だれもが同意できる不変の真理」ではない。究極的
いやだなあと おもいながら、「わたしは悪魔であり、不平等を再生産している。」だなんて かいてしまった(「批判の対象は、「人間のありかた」であり、そこには自己批判もふくまれる。」)。とんだコメディーだ。わらわせるな。 なにが自己批判だ。「だいじなのは、どれだけ世の中をよりよくしていくことに貢献できるか」ということなのだ。 もう一度、坂口安吾(さかぐち・あんご)の名言をひいておく。私は悪人です、と言うのは、私は善人です、と言うことよりもずるい。「私は海をだきしめていたい」より自分を悪人だと いったところで、なんにも ならない。「社会につつまれた人間において、どこにも「外部」などはなく、安全地帯というものは存在しない」(「問題意識の温度差」)。それなら、善人など いるはずがないのだ。 それはつまり、「だれにも特権的ただしさなんて ありはしない」(「悪魔の代理人」)ということだ。だれもが犯罪をおか
2006年に かいた論文に、「均質な文字社会という神話-識字率から読書権へ」というのがある。ここで識字率から読書権へというのは、どのような意味か。 たとえば日本の識字率が97パーセントだとしよう。そして、のこり3パーセントが未達成であるから、「すべての人に文字を」というスローガンをとなえて、文字を普及することが理想的な社会をつくっていくうえで、重要なことだろうか。 わたしは、そうは おもえない。 なぜなら、どれだけ教育をひろめようと、文字をよめないひと、よめなくなるひとは存在しつづけるからである。 一方、読書権の普及率という視点にたってみると、そのパーセントは、かなり ひくいものになる。 拡大図書でなければ本が よめない弱視者や高齢者、あるいは脳性まひのひとに、どれほど拡大図書が提供されているのか。 パソコンが つかえず点字しか よめないひとに、どれほど点字で本が提供されているのか。 なん
外部から批判するのは、たいていの場合、かんたんなことだ。 国語学の そとから、国語学の わくぐみを批判する。かんたんですよ。単一言語主義による「体制の言語」(その社会における支配言語、権威化された言語のこと)をもって国語とよびならわし、それを研究する。その研究は、だれのための、だれによる研究なのか。それは、「国語」から かけはなれた言語を第一言語とするひとのための研究などではない。いかに、現体制における国語のありかたが すばらしいか、あるいは、現体制以前、つまりは歴史的なありかたが すばらしかったかという視点にたち、自分にとっては価値があると おもわれる国語をよりいっそう権威化するための研究。だから だめだと。そういう批判ができる。 国語学を外部から批判する。外部からみていると その保守的性格や排他性が よくみえる。なるほど、そうだろう。 日本の文脈で「国語」というものは、ひとつの規範化さ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『blog.goo.ne.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く