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5時間余という上映時間や、ヒロイン5人のロカルノ映画祭最優秀女優賞受賞などで大きな注目を集めた『ハッピーアワー』から3年。『寝ても覚めても』は、濱口竜介監督の商業映画デビュー作だ。カンヌ映画祭コンペティション部門への出品をはじめ、公開前から話題が殺到し、公開後もいくつもの雑誌やSNS上において、絶賛の声が相次いでいる。 本作はジャンルとしては、ヒロインである朝子と、彼女とかかわりを持つ麦・亮平というふたりの男をめぐる「恋愛映画」ではある。しかし、そうした表面的な分類を嘲笑うかのように、本作には文字通り千差万別の解釈が可能な、いくつもの未知にあふれかえっている。neoneoでは「東北記録映画三部作」のインタビューから5年。同時代の人間として本作を享受することの確かな喜びを胸に、公開を控えた監督にお話をうかがった。 (取材・構成=若林良) 関連記事 【Interview】「記憶を未来に聞き届け
現在『ニッポン国VS泉南石綿村』が公開中の原一男監督から、さる1月に発表された『第72回毎日映画コンクール』の講評に対する公開質問の文章が寄せられた。具体的には、講評にあった(映画の)「適切な時間」という表現に対する違和感である。 原監督は当初、自身のホームページでこの文章を発表する予定だったが、広く議論を望む、ということで、ドキュメンタリーに特化したサイトである「neoneo web」への寄稿を申し出られた。 原一男監督の新作は、たしかに215分の大作である。しかし、ドキュメンタリー映画における上映時間は、たとえばコンクールへの出品作品の中で「長い」というような、相対的な問題で意味付けられるものではない。本文でも触れられているが、“長いドキュメンタリー”は歴史的にいくらでもあるし(5月に台湾で上映されるラブ・ディアズ=フィリピン の新作は640分だ)、監督やプロデューサーといった作り手の
©2014 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS – CLOSE UP FILMS – ARTE FRANCE CINEMA 『パリ、恋人たちの影』の原題は『L’OMBRE des FEMMES』という。それぞれの単語をググって直訳してみると「女たちの影」となる。『パリ、恋人たちの影』と「女たちの影」を並べてみると、邦題が作られる際に「パリ」という要素が加わり、「女たち」が「恋人たち」に言い換えられたことが、誰にでもわかる。この邦題は妥当なのか、といった議論をするつもりはない。フランス語を知らない私には能力的にも不可能だ。 それでもわざわざこの邦題と原題の直訳を並べてみせたのは、『パリ、恋人たちの影』と「女たちの影」の違いから、この映画についてのレビューを書き始めようと思ったからだ。 現時点で、本作を観る機会を一度しか持てず、モノクロの美しい画の記憶が薄れていってしまった
中高生のときの抵抗 わたしは中学3年生のとき、自分の卒業式にでることができなかった。卒業式の予行練習で、日の丸の掲揚と君が代の斉唱に反対し、不起立をつらぬいたからだ。予行練習の途中で担任の体育教師・田路に体育館裏へ連れだされ、「どうしてみんなと同じようにしない!」と小づかれ、ほおにビンタを2度くらった。20数年前の時代、教師が生徒に暴力をふるうことは日常だった。しかし振りかえってみると、どうして日の丸への敬礼をかたくなにこばんだのか、その理由がはっきりとしない。 15歳とはいえども、日の丸がアジアへの侵略戦争のシンボルとして使われたことは知っていた。君が代が、戦時中に多くの国民がそのために命をささげた、現人神の天皇をうたったものだと理解もしていた。両親は全共闘世代だが、家ではそのことをほとんど話さなかったので、社会科の山下先生が「自衛隊は憲法違反です」という授業をくり返した影響を受けたのだ
【Interview】 今を考えるための映画監督・佐藤真——「日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学」編集者・清田麻衣子さん « Previous 90−00年代に、日本を代表するドキュメンタリストのひとりとして時代を駆けた佐藤真。その仕事を、未発表原稿や寄稿、批評など、さまざまな角度からまとめた「日常と不在をみつめて〜ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学」が、このほど刊行された。 編集者の清田麻衣子さんは、じつは以前、本誌にご登場いただいている。東日本大震災の被災地に生きる人々を撮影した田代一倫さんの写真集『はまゆりの頃に 三陸、福島 2011〜2013年』の編集者として、だ。彼女のひとり出版社・里山社の記念すべき一冊目の取材から2年、4冊目にして、念願だった佐藤真監督の本の出版に漕ぎつけた。 私事で恐縮だが、清田さんが大学の卒論を佐藤真で書き上げていた頃、ほぼ同
東日本大震災、またそれに端を発した東京電力福島第一原子力発電所事故をうけて、2015年3月現在に至るまで「原発」をテーマとした数々の映画が制作された。 たとえば、放射線の影響に焦点をあてた劇映画『おだやかな日常』(2012、内田伸輝)や『希望の国』(2012、園子温)、県外への自治体避難を題材としたドキュメンタリー『フタバから遠く離れて』(第一部・第二部 2012~、舩橋淳)などがそれに該当する。これらの作品は映画としては玉石混淆あったものの、いずれも一定の注目を受け、「原発映画」はジャンルとしての確かな定着をみるようになった。 ただそれ以前に、原発を主題とした作品がなかったわけではない。事故以前にも原発に強い警鐘を鳴らした、『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(1985、森崎東)『東京原発』(2003、山川元)などの劇映画の秀作や力作、土本典昭の『原発切抜帖』(1982)な
東京・ユーロスペースで絶賛公開中の映画「みんなの学校」。ふつうの子供も障害のある子供もみんなが同じ教室で学ぶ大阪市の「大空小学校」の1年間に密着した作品だ。もともと関西テレビの番組として放送され、再編集のうえ劇場公開された。 今日的な問題を孕んでいても、子供たち起こす小さな“事件”に、クラスメイトや先生、親や地域の大人たちが対処する構図は昔と変わらず、ほっとする。イマドキの小学校の一断面をリアルに描いた本作は、教育について何かを語るより「まずは見て!」とエールを送りたくなる1本だ。しかし、さりげなく撮られたこの日常の記録は、学校における子供の長期取材、テレビ放送、映画化と、様々な制約を見事にクリアし届けられた、とても貴重なドキュメンタリーでもある。 予測のつかない撮影現場や、テレビ局という組織の中で、どのような課題と向き合いながら「みんなの学校」は作られたのか。本作がドキュメンタリーの初演
対談:佐々木誠×原一男 『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』に関する、 極私的対談 これまでに『Fragment』(06)、『INNERVISION』(13)、『バリアフリーコミュニケーション 僕たちはセックスしないの?できないの?』(14)など、境界線を意識した作風で常に賛否両論を巻き起こしてきた佐々木誠監督。最新作『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』が、現在UPLINKで好評上映中だ。今回も多くの憶測と賛否が飛び交う中、ユニークかつ巧妙なこの映画と、佐々木誠監督の過去作品を観た原一男監督が「いろいろと聞きたいことやら言いたい事がある」と対談が実現。『さようならCP』(72)から40年間以上が経って、境界線はどう変容したのか―― (取材・構成:加瀬修一 取材協力:佐藤寛朗) ご注意:映画の核心に触れる内容が一部ございます。ご了承のうえお読みください 40年かか
【列島通信★山形発】保存と発信、その先へ ~YIDFF「311ドキュメンタリーフィルム・アーカイブ」開設 text 畑あゆみ « Previous 今回は、この秋なんとか開設を迎えることができた「311ドキュメンタリーフィルム・アーカイブ」と、先月末に山形で開催した開設記念シンポジウムについてご報告したいと思う。このアーカイブプロジェクトは、企業メセナ協議会GBファンドなど二カ所からの助成を得、前回の山形国際ドキュメンタリー映画祭2013の震災映画特集「ともにある Cinema with Us」コーディネーターを務めてくださった小川直人さん、ウェブサイト・データベースの製作を担当してくださる地元天童市のウェブデザイナー村山秀明さんをワーキングチームに迎えて今年の春から本格的に始動し、ようやくこの度、形にすることができた。 まずは、このアーカイブの概要について簡単にご説明したい。 山形映画祭
1995年、山口県萩市の「HAGI国際映画祭」の場で、私は“活動屋宣言”を掲げて「CINEMA塾」を立ち上げた。“活動屋”の活動とは、活き活きと、ダイナミックに生きること、屋とは、プロフェッショナルでありたい、という意味。そんな魂をもった映画作家を育てたい、という意図からである。 このHAGIで産声をあげたのだが、全国に呼びかけて、毎年夏、合宿を開催。ここで先達から学ぼう、ということで、ヴェテラン監督を招いてじっくり、映画とは?との問いを深めることを目的に講座を開催。その第1回目のゲストが深作欣二監督だ。 【於「スカイシネマ」’95.8.19〜21】 実は、現在、私は、東京アテネフランスで、new「CINEMA塾」講座を開講中である。セルフドキュメンタリーの傑作を集めて「極私の系譜〜映像の中の欲望たち〜」をテーマに、1年間にわたって、議論を深めることを意図したものである。 この機会に私は、
現代中国を代表するドキュメンタリー映画作家ワン・ビン監督の最新作『収容病棟』が渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開されている。台風一過の去る7月12日(土)、本編上映後に、ドキュメンタリー映画監督の原一男氏が登壇するトークイベントが開催された。 ― 開催日時 2014年7月12日(土)20:25-20:45 会場 シアターイメージフォーラム 登壇者 原一男監督(『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』ほか) 天皇の戦争責任に迫る過激なアナーキスト・奥崎謙三を追った超問題作『ゆきゆきて、神軍』(87)で世界のドキュメンタリー界を震撼させた原一男監督は“仕掛ける天才”。一方、超長尺の傑作『鉄西区』(03)以来、ドキュメンタリー界の最前線にいる『収容病棟』のワン・ビン監督は、“カメラがあることを忘れてしまう”と評されるタイプ。作風もドキュメンタリーについての考え方も全く違うのではないか?! と想像
鬼才・ホドロフスキーが自らの家族をキャストに迎え家族の再生を描く新作 様々なイメージで生み出される映画の世界に筆者が感じた喜びとは? これからの人生、なにがあっても生きることに決めた。なにがあっても、死ぬまで生きる、絶対に、と涙を飲みこみアタシは堅く決心をした。すべては絶望と愛と奇跡、そして芸術についての話だった。「サンタ・サングレ/聖なる血」にも出演していた息子のテオを1995年に失くしてから人の心を癒すためにアートを生み出すようになったと語るホドロフスキー監督による、痛々しい生の人生の提示を目に焼きつけ、魂をふるわすような涙を流させ、鑑賞者になにがあっても人生を生きぬけと訴える100パーセントの救済。文学も音楽も映画も助けてなどはくれないけれど、時折アルコールだけは助けてくれるのかもしれない、と考えていた自分がまるきり馬鹿馬鹿しく感じでしまうほどの、生へしがみつくホドロフスキー監督の圧
【Interview】人形に魂を込めることが、虐殺へのレジスタンスだった――『消えた画 クメール・ルージュの真実』 リティ・パニュ監督に聞く text 萩野亮 « Previous リティ・パニュ監督の最新作『消えた画 クメール・ルージュの真実』が7/5(土)より渋谷ユーロスペースで公開される。極左政党クメール・ルージュの時代に生を享け、フランスにおいて劇映画とドキュメンタリーの双方でキャリアを重ねてきたリティ・パニュ監督は、『S21 クメール・ルージュの虐殺者』(2002)、『ドッチ 地獄の鉄鋼所長』(2011、日本未公開・未上映)といった近作でクメール・ルージュの虐殺を描いてきた。これらの作品に一貫している出発点は、「カンボジアの虐殺には映像が欠落している」という事実と認識だ。『消えた画』は、監督みずからの物語を土人形とジオラマによって再現している。 なお、公開館のユーロスペースでは、
【Review】AVを利用しつつ映画やTVを超える広い世界 ~『劇場版テレクラキャノンボール2013』~ text 佐藤健人 « Previous 「ヤルかヤラナイかの人生なら、俺はヤル人生を選ぶ」 話題沸騰のセックスバトルドキュメント 熱烈ファンが押す太鼓判! 「テレクラキャノンボール」とは 2月に6日間だけ劇場公開された『劇場版テレクラキャノンボール2013』。連日、満員の場内は爆笑の渦だったそうです。自分が観に行った時も、盛り上がりは凄まじく、拍手に笑い、悲鳴やどよめきなどで溢れ返っていました。 好評だった『劇場版テレクラキャノンボール2013』は3月に再上映され、大阪・名古屋・広島などの地方でも上映。そして、6月22日からはポレポレ東中野で上映されます。2月に巻き起こったテレクラキャノンボール旋風はまだまだ続きます。 「テレクラキャノンボール」とは、男たちが数日間かけて、バイクや車
【Review】この一抹の違和感はどこから来るのか──佐々木俊尚著『簡単、なのに美味い! 家めしこそ、最高のごちそうである。』 text 三浦哲哉 « Previous |うまいにはちがいないのだろうけれど 手にとって読み始めれば、実践に裏打ちされた、リアルな料理書だということがわかる。現代日本社会について書かれた著者の本は読んでおり、どれも役に立つものだということを知っていたので、はじめから信頼感はあった。素材を活かし、時間をかけない、シンプルな料理こそが現代において望ましいという主張には筋が通っていて、その機能美の徹底ぶりは清々しいほどだ。すべてがスマートで、情報はシビアに取捨選択されている。 しかし、どうしてだろう。一抹の違和感がある。何かが足りない、という思いが拭えない。頁をめくり、その食の哲学と実践について読み進めれば読み進めるほど、納得の度合はたしかに増してゆくのだが、同時に、
芝居を通して社会に挑戦する、元受刑者やHIV/AIDS陽性女性の群像劇 上映でもトークバックを呼び起こせ! ミニシアターでの仕掛けとは? 8年がかりで完成させたドキュメンタリー映画『トークバック 沈黙を破る女たち』が、3月末に渋谷のシアター・イメージフォーラムで封切られ、現在地方上映が続いている。私にとってはまだ監督・製作2作目の劇場公開作品だが、今回自分で自分に与えた課題の一つが、その見せ方だ。取材や編集過程については既にあちこちで書いたり報告されたりしているので[i]、今回は主に、映画『トークバック』の国内におけるミニシアターでの見せ方や配給の方法について考察してみようと思う。 映画の舞台はサンフランシスコ。主人公は8人の女性たちで、元受刑者やHIV/AIDS陽性者だ。様々な暴力にさらされ、“どん底”を生き抜いてきた彼女たちは、女だけのアマチュア劇団「メデア・プロジェクト:囚われた女た
本誌「Camera-Eye Myth/郊外映画の風景論 (2014、 全10回)」で「映画と郊外」の関係性を論じ、風景論の新たな地平を切り開いた映像作家・佐々木友輔が2015年11月、新作を発表!新作[Epoch](11
福島で生きる子供たちに、今何が起きているのか—— 在歴13年、イアン・トーマス・アッシュ監督の見た福島、そして日本 本作のタイトル『A2-B-C』 は、甲状腺検査における、膿ほうやしこりの大きさを表す判定記号のこと。膿ほうやしこりを持つ子どもが増えている、という結果に、やがてガンや白血病になるかもしれないと不安を訴える福島の子どもたちと、その親が主に登場する映画だ。 実は、この判定結果と原発事故による放射線被爆との因果関係は明らかではない。劇場公開にあたっては、そのことがひとつの壁となった。情報掲載を見送ったメディア曰く「確証のないものは、事実として報じられない」と。では、この映画が描いている「不安という事実」は、どのように捉えたら良いのだろうか? そのことを、イアン・トーマス・アッシュ監督と共に考えたいと思った。 取材にあたっては、山形国際ドキュメンタリー映画祭の“デイリーニュース”で『
© 2013 PHILOMENA LEE LIMITED, PATHÉ PRODUCTIONS LIMITED, BRITISH FILM INSTITUTE AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED 今年の3月11日、つまり東日本大震災から3年が経過したその前後には、震災を振り返るコメントがSNSでも氾濫を見せていた。内容はさまざまだったが、私が見た中では「まだ何も終わっていない、今後とも継続的な支援が必要だ」といった発言や、「震災は風化しつつある、だからこそこの記憶を繋げよう」といった発言が存在し、その発信者もまた、老若男女さまざまであった。しかし、そのほとんどに共通していたのは、表面をなぞっただけの耳触りのいい言葉や表現に終始しており、その枠から一歩も外を出ていない、ということだった。 SNS(特にfacebo
【ゲスト連載】Camera-Eye Myth / 郊外映画の風景論 #01「Authors/Memory/郊外という立場なき場所をめぐって」 image/text 佐々木友輔 « Previous すでになく、いまだない場所――立場なき「郊外」とその風景の神話をときほぐす、来たるべき映像作家・佐々木友輔が思考=試行する「映画による場所論」/「場所による映画論」 「neoneo web」リニューアル記念企画第一弾として、映像作家・佐々木友輔さんによる動画+テクスト連載「Camera Eye-Myth / 郊外映画の風景論」を全10回(予定)にわたりお届けします。 これまで『夢ばかり、眠りはない』(2010年)、『土瀝青 asphalt』(2013年)などの作品で「郊外」と「風景」とを映画によって独自に思考してきた佐々木友輔さんが、ふたたび茨城を舞台に撮影を決行。これまで社会学者や映画作家らに
|初見と困惑 『殺人という行為』が2013年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で公開され、賛否両論を含めて、大きな反響をもたらしたことは記憶に新しい。本作はこの4月、『アクト・オブ・キリング』というタイトルで渋谷・イメージフォーラムで公開される。私についていえば、山形映画祭で鑑賞したときに、正直に言ってとても困惑した。一つには、非常に複雑に、そしておそらくは巧妙に作られたこの映画の構造に対して。もう一つには、この映画全体に通奏音のように広がっている居心地の悪さ、そして〈グロテスク〉ともいえる印象に対して。 けれども、neoneo編集部の依頼を受け、試写会(尺は159分から121分へと短くなっていた)で2度目の観賞をすると、本作を少しだけクリアに、ある種の距離をおいて捉えることができたように思う。そこで私の中に浮かび上がってきたのは、一見私たちの生活からはかけ離れているように見える事件を扱った
本年度米アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門ノミネート、ベルリン国際映画祭観客賞など、全世界60以上の映画賞を受賞したドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』の上映、記者会見が、3月20日 都内・日本外国特派員協会で行われ、ジョシュア・オッペンハイマー監督が会見に出席した。 会場にはインドネシア、米国を含む各国約100人の記者や批評家が集まり、高い関心を示した。 1965年 インドネシアで勃発した、100万人規模の大虐殺が行われたとされる、いわゆる9月30日事件の実行犯に「あなたが行った虐殺を、もう一度演じてみませんか?」と提案、虐殺の様子を演じてもらい、それを撮影するという衝撃的な内容。インタビューや資料で語られる一般的なドキュメンタリー手法を用いず、嬉々として当時の殺人の様子を語り演じる加害者を、冷めた視点で追い続けた。 ジョシュア・オッペンハイマー監督は、当初、被害者への取材を
『ドストエフスキーと愛に生きる』。ロシア文学のドイツ語翻訳者スヴェトラーナ・ガイヤーという人物を追ったドキュメンタリーだ。翻訳がテーマになった映画の字幕翻訳をするのは初めてである。まるで映画に自分の翻訳を試されているようで大変な緊張を伴う作業だったが、普段映画ではあまり意識されない言語をクローズアップした作品に関われたのは貴重な機会だった。だがやはり映画になると言葉は映像と音声に溶け込んで空気のようになり、字幕=言語はやはり注目されないものになる。映画は光と影、響きと沈黙の芸術であって、言葉そのものが主役になることは難しいと実感した。 この映画について書く前にまず字幕翻訳をめぐる一般的な事柄に少し触れておきたい。映画では幅広い観客層に分りやすくするために、プロの翻訳者の言葉を選ぶ苦労は並大抵のものではないだろう。特に娯楽映画では字幕を読めずに引っかかるのは最大のNGだ。だが私はパートタイム
スタジオジブリの今を捉えたドキュメンタリー映画『夢と狂気の王国』が東宝配給作品として、宮崎駿監督作品『風立ちぬ』の後、そして高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』の公開直前に封切られる。しかも監督は、2011年のデビュー作『エンディングノート』のヒットも記憶に新しい、砂田麻美。 発表されたニュースにワクワクしたりソワソワしたり、敏感に反応する人は特にドキュメンタリー好きの間で多かった。自分が愛着を持つ分野に新たな注目の作り手、つまりホープ的存在が現れてほしい願い。そして実際に現れたとなると妙にうろたえ落ち着かなくなる気持ち。どちらも人情としてよく分かる。と、こうして平静に書いている僕も、取材が決まったと聞かされてからは、けっこうソワソワしたのだ。 公開数日前に試写で見た『夢と狂気の王国』は、たのしく、チャーミングでいて、芯は骨太な映画だった。多くの人の期待通り、しっかりと砂田麻美監督作品だった。
2年前、女優・林由美香との壮絶な関係をドキュメンタリー映画『監督失格』に描いた平野勝之。彼のフィルモグラフィーを遡る特集上映が今週末、渋谷・アップリンクで開催される。 映像作家・平野勝之の印象は、彼の作品と出会った時期によって大きく異なるのかもしれない。歴史のみを辿れば、80年代では「ぴあフィルムフェスティバルに連続入選を果たした鬼才」であり、90年代前半には型破りな「抜けないAV」を量産したAV監督であり、さらに90 年代後半の3部作『由美香』『流れ者図鑑』『白 -THE WHITE-』で、セルフ・ドキュメンタリーの極みを目指した映像作家、とも言える。この変化を貫くのは「ジャンルを問わない器用な表現者」として平野の姿なのか、それとも平野勝之臭(?)とも言うべき強烈な作家性なのか。その作家性がドキュメンタリー性を帯びる(ことが多い)のはなぜなのか?いずれにしても、普段なかなか並ぶ機会のない
2012年秋、米軍普天間基地に新型輸送機オスプレイが初めて配備されたことは、多くの人が記憶に新しいだろう。しかし、そこに至るまでにどれだけ粘り強い反対があり、住民と軍・県警との間に激しい衝突があったか。沖縄以外に住む大部分のひとは詳細を知らなかったと言っていい。 米軍のヘリパッド(簡易離着陸場)が沖縄県北部、東村(ひがしそん)・高江を囲むように建設開始されたのは2007年。それから一貫して反対する住民の座り込みを取材し続けてきた琉球朝日放送(QAB)のニュース映像が、『標的の村』という映画になった。去年の年末に初放送され、テレメンタリー年間最優秀賞、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞を受賞するなど、高い評価を受けた1時間枠(46分)の番組を、ほぼ倍の91分にした劇場版だ。 前置きはこれぐらいで。どう控え目に言おうと、今年の劇場公開ドキュメンタリー屈指の作品である。 三上智恵監督には、映画の背景
「居心地の悪さ」を写し出す少女たち 青木ポンチ テレビの深夜ドキュメンタリーの情報は、少ない。よほどアンテナでも張っていないかぎり、普通は見逃してしまう。だが時折、他の時間ではお目にかかれないような実験的な番組が放送されていたりするから、気は抜けない。民放局ながらスポンサーの気配を感じさせず、担当ディレクターの心意気が画面からにじみ出てくる、そんなフリーな番組が。 ふと出会い頭に、こうしたドキュメンタリーの良作とめぐり合うのも、夜ふかしの醍醐味だ。『原発アイドル』も、番組表でそのタイトルだけ見て引き込まれた。何だろう、原発アイドルって。予備知識なしに見るワクワク感が、いい。 アイドルの正体は「制服向上委員会」。深夜らしいマイナー臭がプンプンと立ち上ってくるが、筆者の大学時代、1992年から活動の続いているグループというから驚きだ。バブル景気のはじけた92年当時は、J
キアヌ・リーヴスが企画製作を務め、クリス・ケニーリーが監督した『サイド・バイ・サイド――フィルムからデジタルシネマへ』(Side by Side-The Science, Art and Impact of Digital Cinema/2012年)は、とりわけ2000年代末ころから、国内外の映画界で喫緊の話題となっている映画産業の「デジタル化」の問題にスポットをあてた長篇ドキュメンタリーです。 映画は、キアヌ自らがナヴィゲーターとして出演し、ハリウッドを中心に、ヨーロッパ各国の現代映画を代表する30人以上の著名な監督、キャメラマン、映画編集者、エンジニア、機材業者たちへのインタヴューから構成されています。その合間には、デジタルシネマの歴史も俯瞰的にたどられます。 本作は、2012年の第25回東京国際映画祭ワールドシネマ部門で上映され、会期中は黒沢清とキャメラマンの栗田豊通によるトークショ
【Review】ドキュメンタリー版『天皇の世紀』 ドキュメンタリスト伊丹十三を再、もしくは新発見! text 皆川ちか « Previous 映画監督であり、俳優であり、父親は『無法松の一生』で知られる脚本家にして監督の伊丹万作であり……。伊丹十三について、ここまでは多くの方がご存じだろう。エッセイストであり、翻訳家であり、商業デザイナーであり、雑誌編集者であり……。ここまでご存じならば、映画人以外の伊丹伊十三についても、きっとお好きな方だろう。 では、この多才にして博識家かつ希代のディレッタント、伊丹十三がドキュメンタリー制作者でもあったことは、ご存じだろうか。よしんばご存じだとしても、残念ながら書籍や映画やドラマとちがい、ドキュメンタリー番組との出会いは一期一会。DVDどころか再放送の機会すら与えられないこの状況で、ドキュメンタリストとしての伊丹十三は、特に生前に触れることのできなかっ
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