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なぜ兵士は慰安所に並んだのか、なぜ男性は「慰安婦」問題に過剰反応をするのか――戦前から現代まで男性を縛る“有害な男らしさ” 女性史・ジェンダー研究家の平井和子氏 【特集「慰安婦」問題を考える】第1回では、「慰安婦」問題について国際的に非難されているポイントや日韓対立の本質に迫った。第2回では、「慰安婦」問題の“加害者”である日本軍兵士に目を向けてみたい。家族のためにと戦地に赴き、時間があれば親やきょうだいに向けて手紙を書いていた“善良な市民”である彼らは、なぜ慰安所に並び、敵地で女性をレイプしたのか? 慰安所に並んだ兵士と、並ばなかった兵士の分岐点は何か。『戦争と性暴力の比較史へ向けて』(岩波書店)の編著者の一人で、同書の中で「兵士と男性性」を記した女性史・ジェンダー研究家の平井和子氏に話を聞いた。 【特集】「慰安婦」問題を考える第1回 今さら聞けない「慰安婦」問題の基本を研究者に聞く――
国民の大半が、彼を嫌っていた。沿道からはヤジが飛び、不意に近づいた通行人が棺につばを吐きかけた。 年老いた国王の評判は、なぜこれほどまでに低下してしまったのか? その背景には、レオポルド2世が死の直前まで固執した「コンゴ自由国」の存在があった。 ■コンゴ獲得にみせた執念 1865年、ナポレオン戦争を戦い抜いた父の後を継ぎ、30歳の若さで即位したレオポルド2世は、独立間もない祖国の行く末を案じていた。 その折に彼の目に留まったのは、隣国であるオランダが経営していた南太平洋の植民地である。そして、彼は確信する。国家の偉大さは、植民地から得られる資源に比例すると! 旧支配国・オランダのプランテーションが生み出す莫大な利益が、レオポルド2世の野心に火をつけて、彼は海を隔てた領土を渇望するようになった。彼は議会で弁舌をふるい、未開の土地を手当たり次第に物色し、著名な探検家であるヘンリー・スタンリーの
Twitterで いつどう言う理由でこんなアフォな法律にしたのか知らないけど、即刻撤回するだけで日本はIT国になれる気がする。 「日本においては、税務上は自社開発のソフトウェアも資産計上して、3年若しくは5年で減価償却をする必要があります。」 https://t.co/TaAkA72OG7 — ザバ(ザバイオーネ) (@z_zabaglione) 2017年8月22日 というのが流れて来て元ネタの、 Amazonは最大のハックである「税ハック」と日本のソフトウェア産業の競争優位 を読んだのだが、事実誤認とゆーか、読みスジ違いが酷いのでまとめておく。会計士の人が書いているようなので、そういった意味の「間違い」ではないのだが、根本にズレがある。 そもそも、昔は無形固定資産に「ソフトウェア」という科目はなかった。 なかったらどうだったかと言えば、「ソフトウェア」は全て経費であり損金だった。その当
長崎平和宣言(全文) 2019年08月09日11時24分 平和祈念式典で、原爆投下時刻に黙とうする参列者=9日午前11時2分、長崎市松山町の平和公園 目を閉じて聴いてください。 幾千の人の手足がふきとび 腸わたが流れ出て 人の体にうじ虫がわいた 息ある者は肉親をさがしもとめて 死がいを見つけ そして焼いた 人間を焼く煙が立ちのぼり 罪なき人の血が流れて浦上川を赤くそめた ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった だけど…… 父も母も もういない 兄も妹ももどってはこない 人は忘れやすく弱いものだから あやまちをくり返す だけど…… このことだけは忘れてはならない このことだけはくり返してはならない どんなことがあっても…… これは、1945年8月9日午前11時2分、17歳の時に原子爆弾により家族を失い、自らも大けがを負った女性がつづった詩です。自分だけではなく、世界の誰にも、二度とこの経験
「革新的な市場が登場してくるときは、関係者の8割が反対しているくらいのときが、それに携わる絶好のタイミングです」 NECの最初のパソコン(当時はマイコン)であるPC-8001が発売されてから、今年で40周年になる。8月5日には、当時の関係者をゲストに「PC-8001誕生40周年記者会見」が行われた(関連記事)。 そのNECのパソコンの原点であるPC-8001は、どのようにして作られたのか? その前身であるトレーニングキットのTK-80はどのようにして誕生したのか? 記者会見でも、その中心人物である渡邊和也氏、そして開発リーダーを務めた後藤富雄氏のお話を聞くことができた。 ここでは、初期の同社のPC開発についてもう一歩踏み込んで知りたい方のために、2010年に刊行した『日本人がコンピューターを作った!』(拙著、アスキー新書)で行った渡邊和也氏へのインタビューを転載する。 TK-80 マイコン
林博史・関東学院大学教授 「慰安婦」はいなかったとする「否定派」の主張を、資料の検証や元「慰安婦」の聞き取りを行っている歴史学者、政治学者らが反証し、問題の争点を浮上させた映画『主戦場』。4月から上映している東京・渋谷の映画館イメージフォーラムではいまなお終映日未定のロングランとなっており、現代ではアンタッチャブルとなりつつあった「慰安婦」問題への関心が高まっている。 また、現在開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展「表現の不自由展・その後」で展示されていた少女像(※1)について批判が殺到、脅迫やテロを予告するようなファクス・電話が相次いだため、展示開始からわずか3日で同企画展自体が中止となった。これついては、「表現の自由」の制限のみならず、歴史を歪曲する動きが表出したことも懸念すべき点だといえよう。それを裏付けるように、大阪市の松井一郎市長は8月5日に記者団に対し、
【中村光毅氏、イデの元に召される・・・】メカニック・アートの第一人者 (ジョニー暴れん坊デップの部屋) 「Confort」中村光毅氏インタビュー ( // musi-musi //) 崖の上のポニョ 感想 (崖の上のポニョ 感想) 【アニメ】:これがプロフェッショナルの仕事と生き様、マクロスの河森正治監督が語る「アニメーション監督という職業」 (白石運送) 足利事件から日本鬼子まで (cancerkiller173のブログ) 今敏 追悼BOOKだけを目当てに今月号のコミックリュウを買ってしまうのは不謹慎なんでしょうか…。 (新製品と価格のメモ) 「破」全記録全集・庵野総監督インタビューの感想 (ユイさんのこと、を想う) Twitter Trackbacks () Twitter Trackbacks () 早すぎる、今敏監督 (札幌生活) 「もうコメントしない」と公言しましたが、海外からの
はんどう・かずとし/昭和5(1930)年生まれ。東大文学部を卒業後、文藝春秋入社。専務取締役を経て文筆業に。『日本のいちばん長い日』は終戦の日を描いたベストセラーとなり、映画化もされている。『ノモンハンの夏』『昭和史』『文士の遺言』など著書多数 「昨年、当時の天皇陛下の侍従から、『秋篠宮悠仁(ひさひと)殿下に、太平洋戦争はなぜ起こったのかを、わかりやすく話してください』という依頼があった。ですが、私は最初断ったんです。だって相手は小学校6年生の坊やですよ。そんな幼い子に単純明快に話せるようなことじゃない、無理です、と。だけど何度もお願いされて、じゃあさわりだけでも話しましょう、と出かけていったのが、8月15日でした」 秋篠宮悠仁親王は、まさに次代の天皇家を背負って立つ。その進講役として白羽の矢が立ったのが、昭和史研究家でもある作家・半藤一利氏(89)だ。秋篠宮家の”家庭教師”になったのが「
その中に「千葉」という日本の地名がつく「チバニアン」という命名が検討されており、かつ地元の反対でそれが暗礁に乗り上げつつあると報じられています。 (https://www.asahi.com/articles/ASM5T56N0M5TUTIL016.html) 関連の問題には長年関心があるので、少し掘り下げてお話してみたいと思います。 かつて40数年前、私は中学高校で「地学部」というものに属し、千葉県の当該地域路頭を巡検してティーンの時期を過ごしました。 そこでの経験、地質調査をしていたら地権者に測量棒を持って追いかけられたりとかも含め、察せられることが多々ある気がします。 地質年代とは何か? 初めにまず、地球上の地質年代とは何かを考えてみましょう。 ジュラシック・パークという映画の名前はよく知られていると思います。これは中生代、恐竜が栄えた時代が「ジュラ紀」と呼ばれることによる命名で、約
経済評論家として活躍している森永卓郎さん。平成15年に出版した「年収300万円時代を生き抜く経済学」などの著書で、早くから日本における格差拡大の到来を指摘してきました。平成の時代、日本経済はどう変化したのか、そして未来の日本はどうなっていくのか、話を聞きました。(聞き手:ネットワーク報道部記者 管野彰彦) やっぱり平成はですね、「転落と格差」の30年だったんだと、私は思っています。 ――転落と格差だと思われる理由はどんなところでしょうか? 特にこの20年ちょっとで顕著なんですけれども、日本の世界に対するGDPのシェア、日本経済が世界のどれだけの割合を占めているのかっていうのは、例えば1995年は18パーセントだったんです。それが直近では6%まで落ちた。つまり日本経済の世界でのシェアが20年余りで3分の1に転落したんですね。この事は裏返すと世界の普通並の経済成長をしていたら、われわれの所得は
「日本の象徴天皇制は自然消滅する」 ショッキングな表現でそう語っているのは改元の前夜に放送された「NHKスペシャル」に登場した古川貞二郎・元官房副長官だ。今のままでは象徴天皇制は存続し続けるかどうかわからないと警告する。番組を見ると、象徴天皇制で初めてとなる「生前退位・即位」という大きな出来事を前にして、政権の中枢にいた人物でさえ強い危機感を露わにしていることがわかる。その危機感が国民の間であまり知られていないように思う。この「NHKスペシャル」が問いかけた内容は後でくわしく述べるが、他の番組は「お祝いムード」一色で、肝心な”不都合な真実”がまったくと言っていいほど報道されていないのだ。 「5,4、3,2、1・・・令和、おめでとう!」 2019年(=平成31年)4月30日から翌日となる2019年(=令和元年)5月1日にかけて、テレビ番組は”改元”の話題一色である。連休中の人々があちこちに集
【江東区】夢の島「ハエ撲滅作戦」を経て、ファミリー層に人気のエリアになるまで 50年後のずばり東京――そこはかつて、高度経済成長の負の象徴だった JR京葉線と東京メトロ有楽町線、りんかい線が乗り入れている新木場の駅を降り、京葉線の高架下をくぐる。そして、湾岸道路と明治通りがぶつかる交差点で信号待ちをする。両通りとも幹線道路だけに、積み荷を満載した巨大な10トントラックが何台も、轟音を響かせて疾走している。 信号が青に変わり、明治通りを新砂方向に歩き始めると、頭上を今度は首都高速湾岸線が遮る。その高架下にあるだだっ広い駐車場を右に見て歩道を進むが、高架下だけに薄暗く、歩道にゴミが目立つ。だが、この高架下を過ぎるともう頭上を遮るものはない。まぶしい初夏の陽光が、明治通りの両側に広がる陰影に富んだ緑の森を映している。 ここの住居表示はもう「夢の島」だ。 東京五輪ではアーチェリー会場に 明治通りの
国書から引いてくるハズだった新元号の理想と現実「大化」(645年)から「平成」まで計247ある日本の元号は、これまで全て中国の古典に由来してきたのですが、新元号は安倍首相の強い要望で、国書から引用する初の元号となる「はず」でした。 そして、新元号「令和」が発表された直後には、日本の古典万葉集由来の新元号にネトウヨ評論家の皆様方は大喜び。 新元号「令和」は万葉集を出典としています。1300年以上の我が国の元号の歴史の中で、これまでは中国古典を用いてきました。日本古典から元号を立てるのは初めてのことです。新しい伝統になることでしょう。 — 竹田恒泰 (@takenoma) April 1, 2019 新元号は「令和」に決まった!『万葉集』から取ったらしい。自分たちの期待する通り、中国古典ではなく日本古典からである。歴史に残る、画期的な新年号の制定。これからはわれわれは、令和の日本人として生き、
「東条にだまされた。しかし…」という天皇の論理 菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師 連載 昭和天皇とダブルファンタジー 天皇的思考とは 豊下楢彦は、天皇がマッカーサーとの第1回会見で、外国人記者に語ったのと同様の東条英機批判を口にした可能性が高いと述べている。第8回以後の通訳を務めた松井明が書き残したように、奥村勝蔵通訳の「会見録」には削除された部分があったようだが、豊下は英国国王への親書などの傍証から、(戦争責任への言及ではなく)東条批判こそ“隠された発言”だったと推測している。もっとも削除部分があると語った松井自身は、削除内容は戦争責任への言及だったとしており、この点については明確な結論は出ていないように感じる。 むしろ私は、この時期の天皇が、東条批判と自らの戦争責任を相反するものとは考えず、この2方向の発言を比較的ぞんざいに重ねていた
教育勅語に代わる国民道徳を定めようとする試みは、戦後繰り返し行われた。その最初のものが、天野貞祐文部大臣(1950年5月~1952年8月)の修身復活論と「国民実践要領」の作成だ。 1950年11月、全国都道府県教育長協議会において天野文相は「みんなが心から守れる修身を、教育要綱というかたちでつくりたい」と発言。さらに同月新聞に「わたしはこう考える――教育勅語に代わるもの」と題する論考を発表し、教育勅語に代わる道徳的規準の必要性を説いた。 1951年9月には「国民実践要領」を文部大臣名で発表する方針を示したが、10月参議院本会議における「国家の道徳的中心は天皇にある」との発言が批判を呼び、11月には同要領の発表を白紙撤回した。 この要領は1953年に私的な書物として刊行されたが、「愛国心」という徳目について「国を愛する者は、その責任を満たして、国を盛んならしめ、且つ世界人類に貢献するところ多
by MelanieSchwolert イギリス出身のSF作家であるアーサー・C・クラークは、「幼年期の終り」や「2001年宇宙の旅」といった作品を著したことで知られています。そんなクラークがコンピューター雑誌の「Creative Computing」1977年5月号に載せた、コミュニケーションの未来についての予想がウェブで公開されました。当時はほんの数年前に世界初の携帯電話による通話が行われたばかりという時期でしたが、科学解説者でもあったクラークが見せる鋭い予想は素晴らしいものとなっています。 Arthur C. Clarke: Communications in the Second Century of the Telephone (1977) - Paleotronic Magazine https://paleotronic.com/2019/01/30/arthur-c-cla
「侍医長出ました!」 自宅を出る高木侍医長 この記事の画像(12枚) 今からちょうど30年前のことだ。 昭和64年(1989年)、1月7日の早朝5時、「ジリリーン」と宮内庁クラブの電話が鳴った。代々木にある高木侍医長宅前で張り番をしていた記者からで、「待医長出ました!」と叫んでいる。 この時間の登庁は、ついにその時が来た、ということだ。 当時の宮内庁クラブは、昭和天皇のご病気対応で、加盟全社の記者が泊まり込んでいた。フジテレビは朝日、産経、共同と同じブースで、それぞれ机の前に簡易ベッドを置いて寝ていた。僕はその日の当番だった。 他社にバレないよう、記者クラブの外にある公衆電話から、本社デスクに電話しようかとも思ったが、僕も、他社の記者も、そんなことをするにはもうクタクタに疲れていた。いいや、このまま電話しよう。 それでもデスクには「侍医長出ました」と小声で伝えたのだが、その瞬間、他の3人が
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