壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。 寿永2年(1183年)7月、比企能員も源氏に加わり、源義仲に攻められた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちるが、その後の鎌倉政権の源頼朝と義仲との対立に乗じて摂津国福原まで復帰した。しかし、寿永3年/治承8年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで大敗を喫して海に逃れ、讃岐国屋島と長門国彦島(山口県下関市)に拠点を置いた。 鎌倉政権は頼朝の弟範頼に3万騎を率いさせて、山陽道を進軍して九州に渡り平氏軍の背後を遮断する作戦を実行する。だが、範頼軍は兵糧の不足と優勢な水軍を有する平氏軍の抵抗によって軍を進められなくなった。この状況を見た義経は後白河法皇に平氏追討を願い
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